逃げられない
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──逃げられない
アロイスは懐かしいベッドの上でどうやれば父の申し出を断れるかをひたすら考え続けていた。ドラッグビジネスに手を出せば破滅する。あの男──フェリクス・ファウストがアロイスを殺しに来る。それだけは避けなければならない。
アロイスは1度目の人生ではどうやって申し出を断ろうとして失敗したかを思い出そうとしていた。失敗したならば、その対策を練ればいいのだ。
「ああ。あの時は……」
アロイスはようやく思い出した。
あの時は自分はドラッグビジネスには関わりたくないと駄々をこねただけだった。
だが、アロイスの父はこれまでの学費やアロイスが何不自由なく暮らしてこれたのは、ドラッグマネーのおかげだと言い返したのだ。確かに“国民連合”の名門大学に留学し、交際費から何まで負担してくれたのはアロイスの父だ。
アロイスは知らなかったのだ。自分の使っている金が血にまみれているなどとは。
だが、その言い訳は遅すぎた。だから、アロイスは少し手伝うぐらいならばとアロイスの父の申し出を渋々と受け、“国民連合”の大学から“連邦”の大学の薬学部へと編入したのである。
ドラッグマネーには既に関わっている。運命の女神は残酷だ。アロイスに最初から選択肢を与えていない。10年前に戻っても、そこからではやり直せない。
「いや。やり直せる」
確かにアロイスは知らずのうちに地に塗れた金を使ってしまった。だが、それは取り戻せる。返済すればいいのだ。父がアロイスに費やした金を全てアロイスの父に返してしまえば、因果は断ち切られる。そのはずだ。
確かにこれまでアロイスは知らず知らずのうちに大金を使った。これまでの人生で金に不自由した覚えはない。車も、バイクも、学費も、友達と遊ぶ金も、全てアロイスの父から受け取っていた。その額は膨大なものになるだろう。
それでも返せないことはない。
アロイスは資本主義陣営でもっとも発展した“国民連合”の名門大学で薬学を学んだのだ。そして、今は好景気である。アロイスが夢見ていたように大手製薬会社の研究職に就き、その給料で少しずつ父に金を返済していけばいい。
希望が見え始めてきたころに部屋の扉がノックされた。
「若旦那様。お加減はいかがでしょうか?」
「もう大丈夫だ。父が呼んでいるのだろう」
「はい。旦那様が書斎でお待ちです」
そう、書斎だ。
あそこでアロイスの父がドラッグビジネスの大物であることを明かされたのだ。
アロイスは覚悟を決めた。今度こそはっきりと断ってやると。
アロイスはイーヴォの案内で父の書斎に向かう。
「旦那様。若旦那様をお連れしました」
「入れ」
イーヴォは恭しく扉を開き、頭を下げてアロイスを見送った。
「アロイス。よく帰ってきた」
アロイスの父──ハインリヒ・フォン・ネテスハイムはそう言った。
アロイスの父はかつては癖のある黒髪の持ち主だったが、今では灰色に染まっている。歳を取ったのだ。そして、アロイスの母であり、ハインリヒの妻である女性が余命いくばくもないという状況で急に自らの死を恐れだしたのである。
アロイスは父の遺伝子をよく引いている。
ノースエルフとサウスエルフの混血の家系。ノースエルフほど美しい黒髪は持たず、サウスエルフほどきらびやかな銀髪を持たない。どっちつかずの淡い黒髪と浅黒い肌。目は切れ長で、油断ならない雰囲気を発している。そして、表情筋が死んだような無表情。
アロイスはこの無表情で大学のポーカーで連勝したものだ。
「聞いているとは思うが、母さんが危篤だ。医者は明日まで持てば幸運だろうと言っている。急に呼び出したが、間に合ったな」
「ええ。悲しいことですが」
「そうだな」
ハインリヒの表情からは悲しみなど欠片も窺えなかった。
それは一族特有の無表情故か、それとも妻の死に何か別のことを感じているのか。
「アロイス。お前には言っておかなければならないことがある」
来た。そうアロイスは身構える。
「何ですか、父さん?」
「私は連邦検察官として働いてきた。そのことはお前も知っているだろう。だが、連邦検察官の給与は決して高いものではない。それなのにどうしてお前が車やバイクを買う金や留学の費用を捻出できたと思う?」
想定通りの攻め方だ。1度目のアロイスはここで断れなかった。
「分かりません」
ドラッグの金だ。血を吸った金だ。そうなんだろう?
「私は……ドラッグビジネスを行っていた。連邦検察官の立場を利用して、捜査状況を探り、ここまで上手く進めてきた。私はカルテルを作った。私のその帝国からお前を養うための金は出ていたのだ」
「では、お返しします。完璧に、全額を。それでドラッグマネーを使ったことの罪が消えるとは思いませんが、しないよりマシでしょう?」
アロイスが素早く反論するのに、ハインリヒはやや呆気にとられた様子を見せた。とはいっても、言葉が止まっただけで無表情は維持されている。ただ、目の色は明らかに驚愕したものになっていた。
「そういう問題ではないのだ」
だが、ハインリヒは続ける。
「お前は帝国を引き継がなければならない。そうでなければ、帝国の分裂に乗じてお前の命を狙う物も出るだろう。帝国には皇帝が必要だ。そして、かつての帝国がそうであったように帝国の後継者は血筋で選ばれる」
この言葉は初めて聞いた。1度目の人生でも出てこなかった話だ。
「お前が帝国を継がなかった場合、別の人間が帝国のその断片を手にするだろう。そして、そのものは思うだろう。『もし、帝国の正式な後継者が指名されていたら?』と。事実、私は遺言状にお前に帝国を継がせるように書くつもりだ」
なんでそんなことを! アロイスは叫び出したい気持ちを抑えた。
「何故ならば、だ。お前が正当な後継者だとして担ぎ上げる人間は必ず出てくる。そして、ライオンの群れにおいて、新しくリーダーになった雄が最初にやることは、前のリーダーの子供を殺すことだ。お前には帝国を継ぎ、自衛のための力をつけてほしい」
もはや反論のしようもなかった。
アロイスは自分がドラッグマネーを返済すれば、ドラッグビジネスからは無関係でいられると思っていた。だが、現実はそう甘くはなかった。
1度目の人生でも思い知っている。ドラッグビジネスに関わる人間の粗暴さとその野心については。彼らはハインリヒの後に皇帝の座に座るためならば、その王座を絶対のものにするためには、あらゆることをやるだろう。
アロイスが“国民連合”に逃げ込んでも無駄だ。連中の手は“国民連合”にまで及んでいる。アロイスがふと散歩に出たときにナイフを持った男に刺される可能性は全く以て皆無ではないのだ。
ああ。畜生め。畜生め。畜生め!
これではどうあっても逃げられないではないか。
アロイスはただただ絶望した。
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