五、百、富田村へ赴くこと

 この日の朝も、百はいつものとおりに、大小の刀を帯びて家を出た。

 昨晩、家に帰ってから、百はまんじりともしなかった。紅菊について、何か思い出せることはないかと、あれこれ考えていたのだが、結局何も思い出せないまま、彼女は朝を迎えたのであった。

 伊崎町の通りを東へ歩く百の顔には、心中の屈託がはっきりとあらわれている。

「ええ、大根、大根にかぶらァ……」

 遠くから、野菜売りの声が聞こえる。

 寒風吹きすさぶなか、百は難しい顔で歩を進める。

 そして、およそ一刻(約二時間)ほどかけて、百が訪ねたのは、皇領の富田村にある藁ぶきの百姓家であった。

 前庭で鉈をふるって薪を割っていた中年の男が、ひょいと目を上げて百を見るや、苦虫を噛み潰したような顔になった。

 色の浅黒い、中年の男である。白いものが混じる髪を無造作に――ちょっと総髪とも言いづらいくらいに――結っている。広い額の下の目は、鋭い光を浮かべていた。

 この男が、百の養父にして始末屋の梶春臣である。

「久しぶり、父さん」

 言いかけた百を、春臣がじろりと見やる。

「急ぎの用か?」

「いえ……」

「だったら奥でしばらく寝てこい。三日は寝てないような面ぁしてからに。話があるんならそれから聞いてやる」

「寝てないのは昨日だけ……」

「結局寝てねえんじゃねえか。着物と飯と睡眠はちゃんとしろと昔っから言ってるだろうが」

 ぴしゃりとそう言って、春臣はまた鉈をふるいはじめた。

 肩をすくめた百は家に入り、押入れから布団を出して奥の寝間に敷きのべると、刀を外して横になった。

(さて、眠れるか……?)

 などと思っていた百だったが、しばらくして、薪割りを終えた春臣が寝間をのぞくと、彼女はぐっすりと眠りこんでいた。

「まったく、仕様のないやつだ」

 そう呟いた春臣の口元には、薄笑いがただよっている。

 昼すぎになって目を覚ました百は、春臣と遅めの昼餉をともにした。

 昼餉は麦飯に鴨肉と冬菜、豆腐を入れた味噌汁、それに鮒の甘露煮とかぶの千枚漬け。

 百はぱくぱくと、飯を三倍も腹におさめ、さすがに気まずそうに目をそらした。

「その様子なら、とりあえず気鬱で飯が食えないわけじゃなさそうだな。で、今日はどうした?」

「うん、昨日――」

 百が昨晩のことを春臣に語り、春臣は熱い茶を飲みながらそれを聞く。

「――それで、父さんなら、何か紅菊について知ってることはないかと思って。その、昔私が何か言っていたとか……」

「と、言われてもな。お前が知らんことなら俺も知らんぞ。お前が昔着ていた着物はまだしまってあるから、もう一回見てみるか? 今なら何か思い出すかもしれんし」

 春臣が押し入れの下段を探り、行李を一つひっぱりだす。

 行李には子供の着物と守り袋が入っている。着物は色あせているが、朱地に白い縞が入っていることがわかる。守り袋は白地に鶴亀を刺繍したもので、口は二重叶結びにされた白い組紐で封じられている。手製ではなく、どこかの寺社で授与されたものと思しい。

「ああ、そうだ。そういえば――」

 着物と守り袋を見つめ、何か思い出せることはないかと記憶を探っている百の横で、春臣がふと呟く。

「覚えているかどうかはわからんが、お前、うちに来て一年か二年の間は、夜によくうなされて泣いていたぞ。『紅菊がいない』、『帰ってこない』ってな。誰のことだか聞いてみても、お前はわからないって言うばかりだったから、誰のことだかわからなかったんだが」

「紅菊が――いない」

――紅菊が、どこにもいないんですよ。神隠しに遭ったか、かどわかされたか……。

――落ち着きなさい。白菊に聞こえるだろう。

 取り乱す女の声と、それをなだめる男の声が耳によみがえる。ついで、自分とそっくりな少女の面影が、以前よりも鮮やかに思い出される。

 次々に、過去の断片が頭に浮かぶ。そのどれにも紅菊――双子の妹が、いた。

 不意のことで、心を落ち着ける間がなかった。

「あ……、っ」

 幾本も錐を突き立てられたかのような痛みに、思わず頭を押さえる。

「百? どうした?」

 春臣の声が遠い。応えている余裕は、今の百にはなかった。

 すっと視界が狭まる。

 前にのめった百を、春臣が横からしっかりと支えた。


 冷たい布が額に触れ、百はふと目を開いた。

「おう、起きたか」

 つかのま、百はぼんやりと春臣の顔を見返していた。

 彼女は奥の寝間に寝かされており、そばには春臣が座っている。

 のろのろと身体を起こすと、額を冷やしていた布がぽとりと落ちた。

 外はまだ明るい。倒れてから、それほど時間は経っていないらしい。

「どうだ、気分は。悪くないか?」

 黙って小さくうなずく。

「ま、これでも飲め。飲んで落ち着け」

 春臣がいれた熱い茶を、少しずつ口に含む。飲むうちに、百はどうやら人心地がついた様子で、ぼんやりとしていた表情にも生気が戻っていた。

「気分はどうだ?」

「うん、もう大丈夫」

「そうか。今日はどうする。泊まっていくか?」

「ううん。暗くなる前に帰りたいから……もう少し休んだら帰る」

 春臣に答える声もしっかりとしている。

 昔から身体が強くないわりに、何かあれば無理をしがちな百の性分を、春臣はよくわきまえている。具合が悪いのを押し隠しているようなら、強引に引き止めるつもりだったのだが、

(これなら大丈夫か)

 そう、胸の内で呟く。

「帰るんなら駕籠でも使え。帰ったらゆっくり休めよ」

 駕籠代にと小銀貨二枚を渡され、百は素直にそれを受け取った。

 それから小半刻(約三十分)ほど休んで、百は家に帰ることにした。富田村から観音町まで歩き、観音町の駕籠屋〔駕籠正〕の駕籠を使って家に戻る。

 駕籠かきたちに酒代をはずんで家に入ろうとした百は、戸口に畳んだ紙が差しこまれているのに気付いた。


 お頼み申したい一事有り、この書き置きを見られたら、井佐町の〔八総〕までお出で願いたい。 尾ノ上左京


「ふむ……」

 少し考えて、開きかけた戸を再び閉ざし、百は井佐町へ赴いた。

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