二、百、夜中に奇禍に遭うこと

 胡堂の一件から一週間。この夜も、百は太刀を背に負い、脇差をいて外へ出た。

 さくさくと土を踏みながら道を行く。雪が珍しい将領でも、夜の冷え込みは厳しい。

 袷の上に羽織を着ていても、冷気が肌を粟立たせる。

 どこへというあてはない。一旦茅町へ行って、そこから足に任せて歩いてみるつもりだった。

 左目の眼帯を外し、気を見分けつつ、茅町から井佐町に入り、小谷川にかかる橋を渡る。

 橋の中ほどまで来かかったとき、百はそこで足を止めた。同時に百の前後で殺気が吹き上がる。

「おのれ!」

 橋板を蹴って駆けてくる足音が近付く。

 さっと背から引き抜かれた白刃が、ぎらりと月光を映す。突きこまれかけた匕首が、百の太刀に弾かれて川へと吸いこまれていく。

 その場から一歩も動かぬまま、相手が間合いに入った瞬間、刃を返した太刀が、その首筋を強打した。悶絶した男が倒れる。

 直後、刃を合わせる音が響く。前方から迫っていた刺客の刃を、百の太刀が受け止めていた。

 ぱっと、二人が飛び離れる。

 夜目のきく百は、濃い藍の着物に身を包んだ、総髪の浪人者を認めていた。月を背に立つ浪人は、その頭に一対の角を生やしている。角と、先の尖った耳を月明かりで見分け、相手が鬼と悟る。

 鬼なれば、人よりも腕力の強い百とも鍔迫り合いを演じてみせたのに不思議はない。

 つっと、刃を戻した百の唇が吊り上がる。

(こいつ、使うな)

 彼女は知らぬことだったが、百を襲ったこの鬼、覚円を、尾上右京か胡堂が見たら瞠目したことだろう。半月前の捕物のとき、捕り方の囲みを切り破り、蘇芳に傷を負わせて逃走したのがこの覚円だった。

 互いに刀を構え、間合いをはかる。橋の上ゆえ、どちらも大きくは動けぬ。

 するすると後退する百へ、真正面から打ち込んだ覚円の一刀が、鼻先すれすれでかわされ、下から切り上げられるように振り上げられた百の刃が、覚円の刃と噛み合って火花を散らす。

「鋭!」

「おおっ!!」

 百と覚円の気合声が響き、再度離れて睨み合い、百が突けば覚円が跳ね上げ、覚円が斬れば百がかわす。

 ぱっと橋の上で二人の体が入れ替わったと見るや、身を翻して背後から打ちかかった百を、覚円がすんでのところでかわし、かわすと同時に後ろへ飛び退る。

「む!」

「たあっ!」

 二人の身体が再度入れ替わり、一拍置いて、首筋を深々とはね斬られた覚円がぐらりと揺れ、その身体が川へと吸いこまれていった。

 血を拭い、太刀を収める。ふっと緊張を解きかかったところへ、

「お見事」

 そう、声がかかった。

 声のした方、橋の前方に目を転じると、脇差ひとつを腰に差した浪人が立っていた。

 この浪人、尾上右京である。

 辻斬りの捜査を進めつつも、百のことが引っかかっていた右京は、浪人に変装して探りをいれることにしたのであった。

 髪を総髪にし、垢じみた袷を着流した右京の浪人姿は板についている。捕物の腕もさることながら、こうした変装をしての探索も、右京は得意としていた。

「それがし、尾ノ上石之助と申す。見事なお手並みを拝見し、感服いたした」

 いくぶん眉をひそめた百だったが、目の前の男からは殺気は感じられない。左目で見ても、ただの人の気だった。これで殺気でもはらんでいるのなら、左目で見れば何かしら兆候があるが、それも見て取れない。

 気絶した男を番屋に連れていき、百が活をいれる。

 呻いて目を覚ました男の喉元に、百はすかさず脇差の切っ先を突きつけた。

「さて、誰の手の者だ?」

「き、貴様、紅! よくも裏切りやがったな、奉行所の狗め!」

「……生憎と人違いだ」

 刹那、百の語調がわずかに震えた。それに気付いたのは、石之助……右京一人であったが。

「な――」

 言い終える前に、百が男に当身を食わせた。自身番の男に、奉行所への届けを頼んだ後、右京がこう言い出した。

「近くに良い店があるので、一献差し上げたいが、如何であろうか」

「ふむ……頂戴しよう」

 右京の案内で二人が向かったのは、右京の行きつけでもある茅町の料理屋〔八総やそう〕であった。ここの女将、八代佳代は彼の昔馴染みでもあり、彼が変装してやってきても、佳代は決してうかつなことは言わなかった。

「いらっしゃい」

「二階の部屋を頼む。酒と鍋も、な」

「はいよ」

 八総の名物は鴨鍋である。削いだ鴨肉と豆腐、葱を鰹と昆布で煮た鴨鍋には、出汁に鴨の脂が溶けこんでいる。

 鴨鍋に箸をつけた百が、切れ長の目を丸くする。

「美味いでしょう。ここの料理はものも良いが、板前の腕も良いのだ」

 鍋と一緒に運ばれてきた酒で、顔を赤くしている右京に、百は満足げにうなずいてみせた。

「しかし見事な腕でございますな。どちらで修行なされたので?」

「なに、皇領で少しばかり、な」

 ほう、と右京が感嘆の声を上げる。

 右京は巧みに話を進め、百が西澤淵に暮らしていることや、始末屋を生業としていることを聞き出した。

「自分が始末屋だからと言うて、お前まで始末屋にならずとも、と、養親には言われたが、剣で身を立てるにも仕官の口はなし、そもそも宮仕えなどできる性分でもなし、それに見えぬモノを視るこの目は、始末屋としてはうってつけだったのでな」

「まったく、そうですな。それがしも、いちじは剣の道で身を立てようとは思いましたが、この太平の世では中々難しゅうござる。大家であっても人を雇い入れることは少ないですからな」

「太平なのは良いことではあるのだが、な」

「そうですな。ははは。ここ何年かは川の氾濫もないですからな」

 氾濫、と聞いて、百がぴくりと反応した。

「ああ、柚羅川は確かに、ここ何年かは大人しいな」

「治水も進みましたからな。それがしも以前に水害に遭いましてな、あれは恐ろしいものでござった」

「ああ。……私は須久奈の村の生まれなのだが、九つの歳に、家が村ごと流されてしまった。私は運良く丸太に取り付いて、皇領まで流されたとはいえこうして生きているが、両親は助からなかった。自然には人だろうが鬼だろうが太刀打ちはできぬものだ」

 須久奈の村、と聞いて、今度は右京が反応した。それを面に出しはしなかったが。

 須久奈の村は柚羅川の川沿いにある将領の村の一つで、十四年前の柚羅川の大氾濫で消えた村の一つでもあった。

(確か、蘇芳の故郷もそこであったか……)

 口数の少ない蘇芳だったが、何かの折りに、子供の頃、人買いに拐かされるまでは須久奈の村に住んでいたと聞いたことがある。それに男が呼んだ、紅、とは、蘇芳が探りを入れるときによく使っている名であった。

 蘇芳という娘を知らないか、と舌先まで出しかけて、右京はそれを飲み込んだ。今少し、確かな証を得てからと思ったのである。

 その後、たっぷり一刻(約二時間)ほどを八総の二階で過ごし、百が帰った後、少し経って右京も降りてきた。

 帰る前に男を預けた番屋へ寄る。すでに男は奉行所へ身柄を送られていた。

 男は〔葉山の悠平〕という無頼で、紅と名乗っていた蘇芳が捕り方の一人であると真っ先に気付いたのも彼だった。

 覚円が捕り方を切り破って逃げた後、悠平もまた逃げおおせていた。その後彼は紅を恨みつつ、紅に瓜二つの百を見つけて襲いかかったものらしかった。

「お疲れ、手柄だったそうじゃないか」

 役宅にいた平内への報告を終え、組屋敷に戻った右京を、いち早く認めたのは胡堂だった。まだ首元の包帯は取れてはいないが、鬼ゆえに快復も早く、激しく動かなければ問題はないからと、彼は今日から役宅に戻っていた。

「俺の手柄ではないがな。怪我の具合はどうなんだ」

「何、大丈夫さね。しかしあの辻斬り、俺達よりも始末屋の領分だろうぜ」

「始末屋の?」

「ああ。良くは覚えていないが、子供だったのは確かだ。ただの子供じゃあるまいよ」

 捕り方が相手取るのは犯罪者であって、人でないモノではない。それにそういったモノには、力押しが通じないことが多い。始末屋の方が適任だと、胡堂は言っているのだ。

「長谷部様も同じお考えらしい。探索のやりようを考えねばならぬと仰っておられた。それと、蘇芳が何か聞きたいことがあると言っていたぞ」

「蘇芳が? ふむ、分かった」

 二人がそれぞれの部屋に引き取ったとき、雨が降ってきたようである。



 朝から小止みなく雨が降り続いている。蘇芳が傷の養生をしている部屋の中には、薬の臭いが薄く漂っている。

 身分の上下に厳しい珂国ではあるが、長谷部夫妻はその辺りにはいささかもこだわっていない。蘇芳が傷を受けたとき、平内はすぐに旧知の医師、川居紀庵に治療を請うた。その治療が早かったおかげで、蘇芳は一命を取り留めたのだった。

 蘇芳は布団の上に起き上がり、雨のそぼ降る庭を眺めていた。赤い実をつけた南天の木が雨に濡れている。

 障子の向こうから、胡堂の声がかかる。

「お疲れ様でございます」

「ああ。具合はどうだい」

「大丈夫でございます。胡堂様、私に似た方とお会いしたというのは真のことでございましょうか」

 胡堂を見上げる蘇芳の目の色が変わっていた。

「うむ。正直なところお前かと思ったくらいだ。何か気にかかることでもあるのか?」

「はい」

 うなずいたものの、蘇芳は言おうか言うまいかと、まだ悩んでいるらしかった。

「俺で話しづらければ、奥方様か平内様にでもお伝えするか?」

「いえ……このようなことで殿様を煩わせるわけにも参りません。……私の思い違いかもしれぬのですが、もしやすると……もしやすると、姉ではないかと思われるのです」

「姉?」

 胡堂の眉が跳ね上がる。

「白菊という名の、双子の姉です。十四年前の水害で、両親の亡骸は見つかりましたが、どれだけ探しても、姉は見つかりませんでした。ですから……私にはどうしても、姉が死んでいるとは思えないのです」

「姉、か。俺はあれから会ってはいないが、右京が会ったそうだから、話を伝えておこうか」

「ありがとうございます」

「何、構わんよ。お前はゆっくり養生していろ」

 傷が癒えるまで、胡堂は同心の溜部屋で勘定方を務めることになっていた。今日は右京も、葉山の悠平を取り調べるために奉行所に出てくることになっている。奉行所に出るとなると、役宅にも顔を出すことになるため、必ず胡堂とは顔を合わせることになる。言伝を伝えるには都合が良かった。

 昼、顔を合わせたときに蘇芳からの言伝を伝えると、帰る前に会っていく、と疲れた顔で右京は答えた。

 葉山の悠平は中々しぶとく、どれほど責めても口を割らぬらしい。右京が疲れた顔をするのも無理はなかった。

「蘇芳の具合はどうだ?」

「奥方様にお聞きしたら、かなり良くなってるそうだ。この分なら来月には床払いもできるらしい」

「そりゃあ良かった」

 右京が目を細める。

「あんまり根を詰めるなよ」

「互いにな」

 そう会話を交わした夕刻に、仕事を片付けた胡堂は役宅のすぐ近くで、異様な気配が立ち上るのを感じ取った。

 鬼ゆえか、胡堂はそういった人でないモノの気配には敏感である。役宅に残っていた与力、同心達に声をかけ、胡堂は傷のことも忘れて外に飛び出した。

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