澄が倒れ、氏治動揺する

「あああああ、明智殿おおおおお! すすすす、す、澄は無事か!」


 奥の間にある澄の部屋に、氏治が血相を変えて飛んできた。


 そこには布団に寝かされた澄と、隣で肩を落とす雫澄家臣明智光秀の姿があった。


「大殿!」


「澄はどうじゃ!大丈夫なのか!」


「精一杯取り組んでは見たのですが――」


「な、何じゃと……」


 氏治を見つめる先には焦燥しきった光秀と、布団の中で動かなくなっている澄の姿。


 それを見て、ペタリと氏治は力なくその場に座り込んだ。


「何とか、心の臓は動いておりますがかなり弱くなっております。私が持ち合わせた薬を合わせ、何とか保ってるご様子です」


「そ、そんな……何が一体……。刀傷は、浅かったのだろう?」


「はい。確かに致命傷とはいかぬはずの深さでしたが、恐らくは刃に毒が塗られていたものと」


 都伝来の医療の心得があったことと雫の家臣であることから、光秀が雫の看病をすることは直ぐに決まった。


 駆けつけた光秀は澄の様子を見るなりただ事ではないと悟り、家にあった貴重な薬品を合わせて解毒薬を作って飲ませていた。


「す、澄は助からんのか?」


「いえ、幸いにも毒はそこまで強いものではないようです。もし、強い物であれば手の施しようもありませんから」


 ちらりと光秀は澄の様子を見やる。


 呼吸は不規則で、浅く力ない。


 身体が懸命に生きようとしている証拠であるが、それでも身体が今はこれが精一杯ということを示していた。


「ですが、意識がいつ戻るか分かりません。もしかしたら、このままということもご覚悟を」


「なぜじゃ……当主のわしならともかく、なぜ一人の将であり友の澄がこんな目に合わねばならん」


 ぽろぽろと、氏治の目から涙が落ちる。


 先ほど聞いた報告では、奥の間に曲者が入り葉月姫が切られそうなところを澄が代わりに切られたとのことだった。


 葉月の方は曲者の手が入らなかったものの、目の前で澄が切れらたことによるショックは大きく部屋に閉じこもってしまっている。


 大切な二人の女を守れなかった氏治の心は、当主としても一人の男としてももはや潰れる寸前であった。


「大殿。しかし、澄殿が身を挺さねば葉月さまが切られておりました」


「澄が葉月の代わりになったから、よいとでもいうのか!」


「――失礼を申しました」


 普段全く見せない激しい剣幕に、光秀もただ静かに謝罪をし頭を下げるしかなかった。


「わしが、毒を代わってはやれぬものか。所詮、末代となる男の命など……」


「大殿、それは言ってはなりませぬ」


 氏治の泣きごとを、光秀は毅然とした態度で遮った。


 彼は澄が誰よりも氏治の統治する小田領を守りたい想いを、はぐらかされながらも聞かされていた立場。


 彼にとって、今の氏治の言葉は澄ならば止めていただろうと容易に想像できるのもの。


 主が出来ぬのなら、自分が代わりになってその思いを継ぐ。


 これは、光秀なりの澄に対する忠義でもあった。


「今、大殿ができるのは、雫殿がいない中で小田家中をまとめることに御座います」


 厳しい言葉だが、言わねばと心に決め光秀は口を開く。


 澄ならばこうしていただろうこと告げるのが、自らの役目であると聡明な彼は理解していた。


「眼が覚めた時、雫殿が安心できるよう家中の事お願い申し上げます」


「わ、わしにできるだろうか……。今、家中はわしの記憶にないほど荒れておる」


「大殿……」


 光秀は氏治の自信のない言葉で、家中の様子がどうなっているかおおよそ察しがついた。


 今回の葉月姫暗殺の犯人探しで、荒れに荒れているのは間違いない。


 何せ狙われたのは、氏治の正室である葉月姫。


 小田家が跡継ぎ問題の真っただ中ということもあり、お互いが激しくやり合うには格好の材料だ。


 それも毒を使ったとあれば、警告ではなく殺害を狙ったものになる。


 さらに言えば、外交によって多大な功績があり、氏治を支えてきた一人である雫澄がその刃で倒れてしまった。


 佐竹家、上杉家、長尾家と小田家の間を取り持ってきたのは澄である。


 彼女が倒れてもし死亡することがあれば、せっかく結んだよしみも変わってくるかもしれない。


 それはつまり、誰かがこの混乱に乗じて小田家の乗っ取り、ないしは公開を企んでいるという疑念にもつながる。


『この後、小田家はどうなっていくんだろう』


 この心配が小田家家中、特に、澄の人気があった下士官にはすでに動揺が広がっている。


「しかし、大殿は私の主君、雫殿が支えると決めた人物です。どうか、その技量を発揮なさいませ」


「明智……。澄はわしなど、役立たずの主君だと思っておるだろう。未来でいかにわしが至らぬ人物であるか、知っておるからな」


「大殿、これを」


 俯く氏治に、光秀は封に包まれた一つの紙を手渡した。


 そこにはたどだどしい文字で、『うじはるさまへ』と書かれていた。


「これは、一体?」


「雫殿が持っていたものです。恐らく、いつか大殿に渡そうとしていたものがこの騒ぎでこぼれ落ちたのでしょう」


「澄……」


 氏治は紙を受け取ると、はらりと開いて中を見た。


 そこにはこれまたたどたどしいひらがな文字で、澄から氏治への言葉が書いてあった。


「うじはるさまへ

 れんしゅうのつもりで、おてがみをかきました。

 ようやくひらがなもじが、すこしだけかけるようになりました。

 もっとうまくなったら、がいこうのしょじょうも、あたしがかけるかもしれません。

 うじはるさま、いつもあたしをみてくれて、きをつかってくれてありがとうございます。

 みらいからきて、ここまでぶじにいきてきたのは、うじはるさまのおかげで、いくらおんがえししてもたりないくらいです。

 すこしでもおんがえしできるように、もっともっといろいろなことをまなんで、うじはるさまのかしんとして、はずかしくないようになりたいです。

 うじはるさまは、たみをいつくしむこころがあるやさしくりっぱなくんしゅだとおもっています。

 だめなくんしゅじゃ、ありません。

 いっしょに、おだけをまもりたい。そうおもえるりっぱなひとです。

 あたしはそのためだったら、なんだってします

 これからも、ながいつきあいになりますけど、よろしくおねがいします

 雫澄」


 慣れない文字と筆で何度も途中で筆を休めたのであろう、読みにくく震えた文字がたくさん並んでいた。


 だが、それだけ澄が必死にこの一筆をしたためたことは氏治に伝わってきた。


 そして、澄が書いてすぐに渡せなかったのも何となく理解できた。


 この手紙を渡すのは、恥ずかしかったのだろう。


 練習のつもりと思っていたら、いつの間にか本音を書きつらねていたのだろうから。


「澄……すまん!すまん!わしは、わしは何でお主の事を守れなんだ!お主が守ろうとした小田家は、小田の地は!わしと一緒に守ってこそだろうに!なのにお前が倒れては!」


 ぽろぽろと氏治の顔を涙が伝った。


 一番側で自分を支え、守ってきた澄。


 そんな立場になっていたからこそ、こうして刃に倒れてしまった。


 そして、もっと名君であれば澄にこんな苦しみを与えずに済んだ。


 そんな無力さと悔しさからの涙だった。


「明智、澄のことは、頼むぞ」


 とぼとぼと席を立った氏治の背中を見送ったところで、光秀は大きく息をついた。


「雫殿、あなたはどこまで見えているのでしょうか」


「う、氏治さま……ダメじゃないですか……ったく。これじゃあ、本当に滅んじゃうよ……小田家」


「雫様、お目を!? う、うわごとでありましたか……」


 一瞬、澄が目を覚ましたかと思った光秀であったが、目の前の隅は先ほどと変わらずか細い寝息を立てるばかりだった。


「こんな時まで、大殿のことを」


 膝に置かれた手が、思わず震えた。


 光秀は、改めて澄と氏治の結びつきの強さを知った。


 光秀の医学の師によれば、人間の五感の中で間際の際まで残るのは聴覚だという。


 もしかしたら、先ほどの氏治の言葉が澄にも聞こえていたのかもしれない。


「澄殿は自分の身体に回る毒と戦いながらも、大殿のことを、小田家のことを心配なさっているのか……」


 もはや、これは忠義という簡単な言葉で示せるものではない。


 光秀の持ち合わせる言葉では表現できないほどの、強すぎる結びつきだった。


「私にできることは、雫殿をなんとかすることだ」


 まずは澄の目を覚まさせることが、今の自分になすべきことだというのは光秀自身十二分にわかっていた。


 目を覚ました時にいくら叱責されても、嫌みを言われてもかまわない。


 澄が光秀に少し距離を置く理由は、おそらく彼女が持っているこれから500年間の歴史のことなのだろうことはわかっている。


 だが、それがどうしたというのだろう。


 今の光秀にとっては、澄が生涯をかけるに足りると決めた主なのだ。


 自分がこの先どのような起こす運命だとしても、今の主であるに澄に主として惚れたのだ。


 ――この方となら、争いの少ない世を、民が笑って過ごせる日の本が作れるかもしれない。


 その時を思い返してみれば、こんなことで挫くわけにはいかなかった。


「光秀さま」


「左馬之助。どうした?」


「予想通り、小田家中大変なことになっております」


 代理で家臣たちの表情に参加させていた左馬之助のただならぬ様子に、光秀は危機感を感じた。


 左馬之助は明智一族の中でも戦になると勇猛一騎当千の荒武者ではあるが、普段は何があっても動じず冷静沈着である。


 しかし、今はどうだろう。


 その彼が、明らかに体を震わせて汗をにじませているではないか。


 そして、彼の口から告げられたのは光秀にとって信じられない言葉だった。


「此度の黒幕、このままでは家臣筆頭、菅家政貞さまになりそうでございます……」

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