第25話

───十九日火曜日。快晴。



 車内はいつもと違う色が漂っていた。

 路上へ出られる晴れやかな青か、それとも別の一件である不安と期待を混ぜ合わせて出来たブルーか、微妙に異なる色を交互に思い浮かべると、適度な緊張が申し込みに来たあの日を彷彿させ、教習所までの道程が遠くも近くも感じられた。


「こんにちは~」

 気が付くと受付の女性の声が私を迎えてくれていた。

「こんにちは・・」


 確かにその後に続く声はいつになく新鮮に聞こえもしたが、私は素っ気なく挨拶をし、普段と何も変わらぬ素振りを見せる。それが仮に路上へ出られる喜びに満ちた顔でも、彼女には変な誤解を招かせる気がしたためだ。だからあえてしばらく目を合わせることも避けよう。扉を開ける前はそんなことも考えていた。

 しかし、いつもの習慣なのか、つい視線を送ると、それを察したように彼女の瞳が重なり合う。私は思わず息を呑んだ。きっと冷ややかな眼差しに見えたからに違いない。

 たまらず私は目を逸らす。どう見てもそれがメモの返事としか思えなかったからだ。それでも私は恐る恐る彼女に視線を戻した。


 すると、今度は微笑み交じりの顔で見つめ返して来るではないか。一瞬、事態が把握出来ずに、どう表情に現していいか困ってしまった。

 とは言え、来た時とは比べ物にならないほどの安心を得たのも確かで、何もなかったような素振りでファイルのある場所へと歩く。

 機械の音が先ほどの出来事をかき消すように響き、やがて引き出されたファイルを手にすると、本日路上に出るために必要な資格が目に留まった。


 仮免である。


 修了検定の後、置いて行くよう言われた教習手帳にホチキスで止まっていた。

 仮免には原本と同じ写真が貼られ、手帳には路上と押された判が赤く目立っている。長椅子に腰を下ろしてから、それらを見たり触れたりし、どこを走るかなどと初めて来る大型の路上に楽しみを募らせた。

 五分前のチャイムが鳴り響く中、教習カードを取りに行く時も、あえて彼女に視線を送ることもせず、至って平然たる素振りを続ける私を、またしても驚かせる出来事が起こったのである。

 

自分のカードがバインダーに無かったのだ。


 焦る気持ちを抑えながらも、もしや路上や彼女のことで浮かれ、時間でも間違えたのかと真剣に考えてしまった。もしそうであったなら、とんだ笑い話だと顔に焦りの色を滲ませれば、

「お待たせしました」

 と、彼女の白い手と共にピンク色のカードがカウンターの上に差し出される。

 今回は先ほどとは比べ物にならないほどの安堵に襲われたため、それを受け取ろうとすることで頭はいっぱいで、なぜ彼女が小声で言ったのかも掴めなかった。


(用意するのが遅れたのか~・・・・だけど焦ったな~)


 などと目に映るカードに手を伸ばしながらも、それが二重に見えるほど激しい動揺であったのかと、無意識に近くのバインダーに並ぶカードを眺めた。

(やっぱり目の錯覚かぁ~)

 と、また視線を戻せばこれが不思議なもので、私には二枚あるように見えて仕方がないのだ。同じ色でわかり辛いが、目を凝らすと微妙なずれが確認出来る。恐らく遠巻きからでは一枚に見えるのではないだろうか。

 

 そう思った瞬間、私はハッとした。


 そして直ぐさま目を走らせるものの、ディスプレイを見つめたまま、知らぬ存ぜぬを決め込んだ彼女はこちらを見ようともしない。その時、ようやく遅れて出て来た意味がわかった気がした。

 これは目の錯覚等ではなく、確かにカードは二枚なのだ。もちろん下に隠されているのは彼女からの返事である。 危うくつまらぬことを訊くところだったと、自分の鈍さに腹の中で笑い、カードを手にその場を離れ長椅子へ向かった。

 右手の中には二人だけの秘密が包み込まれている。私は浮かれた気持ちを隠しながらも、些細な感触を楽しんだりした。

 腰掛けてから手帳を陰に記された彼女の文字を瞳に映せば、番号の記されていない教習カードの裏には女性らしい筆跡があり、ほんの数秒の時をその優しい文字に捧げた。

 

こちらを見ている彼女の気配を察したからだろうか。

 私はその内容を一切表情に現さず平然を装い続けていた。しかし、彼女を見ることは出来なかった。ゆとりが無かったのかもしれない。

 結局、路上の開始時間に追われるような形で外へと出たのだが、一度も彼女に視線を送ることは無かった。


(やっぱり・・・・とんだ誤解を招いてしまったか・・・・)


 確率は極めて低かったにしろ、最悪の場合こんなケースも考えられる。いつだったか過らせたことがまさか現実になるとは。正直、残念だった。

 車庫に向かいながら薄ら笑いを浮かべれば、風もない穏やかな空に彼女の声が舞い、その中でまた文字に目を通すと、なぜか清々しい気分にさえなるのであった。



[申し訳ありませんが、この話をお受けすることはできません。勝手なお願いかもしれませんけど、なかったことにしてください]



 それは本来の目的でもある教習そのものを楽しむべきと、私を導いてくれたのかもしれない。

「今日から路上だね。よし、じゃあ行こう」

 路上一時間目の教官は、修了検定を担当した池田さんである。


 良く言えば物静かで控え目、悪く言うなら存在感が薄いとなるわけだが、いずれにせよ私にとって乗り易い相手であることには違いない。

「じゃあ、北から出て行くからコースの端を走るようにして・・・・あ、前の普通車はみんな路上だから、この後に着いて行けばいいよ」

 見下ろす視界からは仮免に合格した人達が、路上教習に向かおうと整列していた。数にして四、五台。慎重に慎重に安全を確かめながら、一台ずつゆっくりと出て行く。まさにならではの風景だ。私もそれに合わせて車を少し、また少しと前に移動して、一定の間隔を保った。

 

 サイドミラーからは後ろに並ぶ数台も確認出来、言葉は古いが、いざ共に出陣と言う光景が何とも楽しく感じられる。こんな余裕も免許を持ち、日頃道路を走り慣れた者の強みで怖さを感じることは無かった。横に乗る教官とてそれは同じで、必要以外のことは何も言わず見るからにリラックスしている。もっともこれは教官により様々だが、池田さんはとにかく物静かなのである。

 やがて順番が訪れ、大きいハンドルをゆっくりかつ力強く回し、一般道に繰り出せば、懐かしい緊張に身体を包み込まれ、知らぬ間に口元が緩む自分に気づく。


 良い緊張だった。


 場内とは別の感覚を掴むまで、多少ギアはぎこちなく車もぎくしゃくするものの、気が付けばそれすら忘れていて、むしろ問題なのはスピード感の違いであると思った。しばらく道なりに走っていた車は、片側二車線の広いバイパスへと入り、より開放的になったとアクセルを踏めば、

「お~、ちょっと出過ぎじゃねぇかい?メーターをよく見て?」

 と、横から呆れたように笑い、

「ここは制限速度五十キロだから」

 と、クギを刺すように付け加える。

 注意を受けたとき、確かにメーターの針は六十をやや回っていた。ついと言うより、それが普段この道の流れるスピードで、周りの流れに合わせただけのことなのだ。

 だが、私は大切なことを忘れていた。


 これは教習車なのである。


 後に車線を左に変更してからは、軽トラックを普通車が追い越すかのように、右車線を次々と車が駆け抜けて行く。その中には実際軽トラックの姿もあった。されど、悪いことばかりではない。どんなにのんびりしていても、教習車は怒られもしないし、後ろから邪魔だとあおられたりもしないのである。これもある意味では凄いことだと感動すらした。一般の車ではこうはいかないからだ。

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