第33話 問い

 リザは頬を強張らせた。よく考えれば分かることだが頭になかったのだ。鳥肌を立てながら身構えるが、彼女の声が飛んできた。


「嘘!」


 サロメは唇に血を滲ませながら笑う。


「他にあるなら、手を踏まれた時点で出していたはずよ。そうしなかったということは大方、調べられてもいいようにコートに仕込めるのがナイフ一本だったのでしょう?」

「……俺は撲殺でも絞殺でも構いませんよ」

「まあ、そうよね」


 数回咳きこんでサロメは身体を震わせた。喉に血が絡むような、嫌な咳の仕方だ。口の中から赤い唾液が零れだす。風に赤い髪が大きくたなびいた。


「それを言われるとお手上げ。死因が変わっただけね」 

「予定より苦しい死因になってしまって、申し訳がないです」


 オリヴィエは左手を下ろしたまま、ゆっくりとサロメの方へと近づいていく。


 彼女は立ち上がろうとしたが、ずるずると崩れ落ちてしまった。ふうふうと荒く呼吸している。蹴られた鳩尾と打ち付けた背骨が激しく痛むようだ。


 ろくに動けない彼女を見下ろしていたオリヴィエは、くるりと振り返った。土で汚れたコートが風に揺れる。彼は呼吸さえ感じさせずぼうっと立っていた。


 柔らかな目元で、しかし狼が兎を見るときのようにリザを見ていたのだ。


「とても、寒いですね」


 オリヴィエは言った。ひどく唐突だった。


「この国は寒くて、指先まで凍ってしまいそうです」


 オリヴィエの声はいたって穏やかだった。彼だけ別の場所にいて、別のものを見ているようにさえ思えた。


 彼はサロメのスカートを踏まないように俯きがちに歩み寄ってきた。一歩ずつ丁寧に距離を詰めてくる。左手は下げたままで、身体の横でぶらぶらと揺れていた。


 あと数歩分を残して、彼は両足を揃えて立ち止まった。腕を伸ばせば届いてしまうくらいの距離で、彼はふと視線を上げた。


「リザさんは、フランスが好きですか?」

「……突然、なんですか」


 リザは絞り出すように答えた。しかしなおも返事を促されたから、リザは「私はただの使用人です。そんなこと訊かれたって何も分かりません」と返した。


「俺は好きですよ」


 オリヴィエはかかとをあげて、下ろす。靴音がコツンと鳴った。


「俺が守らなければいけないラインがはっきりするんです。全部には手が届かなくても、フランスに生きる人を、せめてここに生きている人だけでも守ろうと、そう思えるんです。だから俺はあなたたちだって守れるなら守りたかった。今の今だって心から思っています」


 彼は目を伏せた。彼が嘘を言っているようにはとても思えなくてリザは唇を力ませた。何の言葉も返せずに黙りこんでいるとサロメが鼻で笑った。


「切り捨てられる私たちからすれば、そんな感傷、たまったものじゃないわね……」


 サロメはドレスを握りしめながら、嘲笑うように「ああ……むかつく」と息を吐いた。


「他人に奉仕することで幸せならそれで結構。感謝されたいならそれでもいい。だけどそうじゃないって言うなら、どうしてあなたは身を削ってまで、顔も知らない誰かのために人を殺せるのかしら」

「…………」

「答えられないのでしょう? あなたってそういう人間よね」


 ひゅっと鳴るか細い声が、針のように耳に刺さる。


「機械みたいに人を選り分けて、わけも知らない義務感に振り回されてる! 自分のことは勘定に入れていないし、自分が一番自分のことを分かっていない。分かろうともしない。愛情と嫌悪の違いも知らない。感情にも蓋をする。苦痛も見ないふり。ただ多数のために動いていればいいだけ! ……ねえ、それって究極の現実逃避よ」


 サロメは億劫そうに咳をして、短く息を吸った。灰色の瞳が射抜くように真っ直ぐ、彼だけを見据えていた。


「私、やっぱりあなたのことが大嫌いだわ」


 オリヴィエは振り向いて、つとめて明るく言った。


「それでも俺は、あなたのことも好きですよ」


 それがすべてだとでも言うように、彼ははっきりと言いきった。迷うことなくはっきりと。


 彼は視線をリザに戻すと、もう一歩前へと踏み出した。リザは身構えたまま足を引いたが、狭い車内に逃げ場はなかった。彼の腕が伸びてくる。リザの首を絡めとろうとする。


 腕を振りぬいて払ったが、無駄な抵抗だとでも言いたげに彼はもう一度同じように、真っ直ぐに伸ばす。リザの手首は掴まれていた。


「……っ! やめ、て!」

「動かないで。すぐに終わらせます」

「離し……っ!」


 オリヴィエの手――赤黒く染まっている左手がリザの首に触れた。血が滴っている。リザが身体を引くと、彼が身を乗り出してくる。短く切りそろえられた丸い爪が皮膚に食い込んだ。


 そして喉を圧迫するように、ぎゅうっと、力が込められたのだ。


「――あ、が」


 言葉にはならなかった。痛みと、胃からこみ上げてくる吐き気が嗚咽になって口をつく。


「あ、あ……ぅ、あ」


 緩やかに首を絞められて口がぱくぱくと動いた。いつの間にか解かれていた手でオリヴィエの腕を掴んだ。肌をむしるようにひっかくが彼は顔色一つ変えない。


 リザは足をばたつかせた。膝を曲げて脛のあたりを蹴飛ばすが、やはり力は緩まなかった。何度も何度も蹴りつけたがますます息が苦しくなるだけだ。


 そうだ、彼は左手を気にしていた、と思いだしてきつく握りしめてみる。さすがにオリヴィエの瞼がピクリと動いて、引きつるような息を零した。しかしそれだけだ。彼は下唇を噛んで呼吸を殺した。


 列車の走る音が遠くへ消えていく。息が聞こえない。


 白んでいく視界で、リザはオリヴィエの背後を見た。ぼやけてよく見えなかったが、助けを求めるように手のひらを向けた。痺れて白くなった指先が宙を何度か掻いた。


 サロメ、と唇だけが動く。


 彼女は黙って見ているだけの女ではないと、リザは知っていたのだ。


「ぐ、っ!」


 オリヴィエの首がカクンと折れた。彼は前につんのめると、両手に込めていた力を一瞬緩めた。リザはその一瞬で腕を引きはがす。オリヴィエに何が起きたのかは分からない。だが彼の背後にはゆらりと立ち上がるサロメがいた。


 リザはよろよろと数歩下がって襟を握りしめた。定まらない焦点のまま口を開く。


「――はっ」


 リザは息を吸った。ほとんど本能だった。肺を膨らませて、喉に空気を通らせる。鉄の味が広がったが息をして、そして激しく咳きこんだのだ。


「げ……げほ、う、は……げほっ!」


 足が震えていた。気を抜けばそのまま崩れ落ちそうだ。リザは必死に両足で踏ん張りながら、身体を折り曲げた。


 少し遅れて喉の痛みに襲われた。息をするたびに喉が擦り切れそうになって、しかし呼吸を止めれば死んでしまいそうだ。リザは両目を見開いたまま、ぜえぜえと激しく息を吸った。


 本当に、死ぬのかと思った。


 苦しくて、息をすることしか考えられなかったが、今さらになって背筋に悪寒が走った。


 震えを押さえつけるように両腕に力をこめていると、サロメが叫んだ。


「生きてる? 生きてるわよね、そんなに咳きこんでいるのなら! 早く立ちなさい!」

「最初、から……立って、ます!」

「だったらこの状況を何とかしてよ!」


 最後はほとんど悲鳴だった。


 リザは慌てて目元を擦った。目に浮かんでいた涙の膜を拭うと、目の前が鮮明に映った。


 花瓶――土産として公爵から贈られた高級品――を振り回しながら身をよじっているサロメと、後頭部を血で湿らせているオリヴィエがもみ合っていた。


 彼の艶やかな髪はべったりと濡れている。彼が突然手の力を緩めたのは、後ろから奇襲されたからのようだ。


 リザはオリヴィエの腕を抱え込んだ。引きはがそうにも腕に力が入らなかったから、座りこむようにして全身で引きずる。まるで駄々をこねる子どものようでおかしかった。オリヴィエは少し背をしならせたただけだった。


 振り払われてしまったリザは、息を乱しながらまた飛びついた。獣みたいに口を開けて、声にならない声をあげた。


 コートの襟を握って、同じようにして下に引っ張った。今度は首がしまったのかオリヴィエがふらつく。


「いい、加減にして……!」


 大きく足を開く。ドレスの裾が揺れる。


「もういい加減にしてよ!」


 彼の身体がぐらりと傾いた。


 影が落ちてくると分かっていた。だが避けるだけの体力もなくて、リザとオリヴィエは一緒になって倒れこんだ。真っ直ぐ腰から落ちて骨を打ち付ける。リザは反射的に呻いていた。


 座りこんだ二人は黙って身体を震わせた。


 痛みだとか疲労だとか、そういうものが泥のようにまとわりついていた。だから二人は示し合わせたように起き上がらなかった。


 扉のそばで一人立っているサロメも、壁にもたれかかったまま、今にも崩れ落ちそうだ。


 開いた窓から風が吹き込み続けている。吐いた息が白い。不思議と誰も口を開かなかった。しばらく呼吸音だけが車内に満ちていた。指でつつけば弾けてしまう、泡のような静寂だった。


 永遠に続きそうだ、とリザは思った。けれどすぐに、冗談じゃないな、とも思った。


 こんな時間が永遠に続いたら気がおかしくなりそうだ。


 列車は少し移動したが、誰の呼吸も整っていなかった。リザは立ちあがれるかもしれないが、もし動いてしまったら、またあの時間が始まってしまう気がして動きたくない。サロメやオリヴィエももしかしたら同じ気持ちなのかもしれない。


 リザは視線を投げかけた。しかしオリヴィエは背中を向けていたし、サロメはぐったりと俯いていて表情は見えなかった。ゆっくりと目を伏せる。


「……は、あ……っ、はっ」


 肩を上下させて息を吸うことに集中する。


 同時に、どうしてこんなことになったのだろう、とまたあの疑問を考え始めていた。


 一番最初に、オリヴィエに襲撃されたときの疑問だ。ぼんやりと考え始めて、やはり答えは出ないのだろうと思う。きっと運が悪かっただけなのだ。あるいはサロメに出会ってしまった時点で決まっていた未来なのだ。


 リザは声を出さずに「ははっ」と息だけで笑う。


 笑って、目を閉じた。諦めたわけではない。だったらどうにかしてやろう、とリザは天井を見上げる。


 サロメを、そして自分を救うのは、自分しかいないのだ。


 リザは意識して瞬きして、それから深く、身体の隅々までいきわたるように息を吸いこんだ。


 ここは走る密室―――棺桶みたいに狭くて暗い部屋。


 あるのは開いた窓と、外に繋がる鉄の扉だけ。扉の向こうではごうごうと吹雪いている。次の駅までは依然として遠い。二人で抵抗したところで間に合わないだろう。


 命乞いは通用しない。目の前に座っている男の慈悲は、とても身勝手だ。


 このままではどうせ今夜中には死体になるのだ。


 だったら、とリザは肩を後ろに引いた。

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