第28話 馬鹿
「……寒い、暗い、怖い……!」
足音を殺しながら進んでいった。
日ごろの行いがよかったのか、はたまた運が良かっただけか、廊下の端まで誰とも出くわすことなくたどり着いた。リザは立ち止まって視線を左右にやった。目の前は階段になっていて、上と下に続いているのだ。
目を閉じて耳に集中すると、どこからか人の声が聞こえてきた。リザはぎゅっと目をつむる。どこからかよく分からない。
「とりあえずサロメを見つけなくちゃ」
リザは大きく足を踏みだした。
「こういうのは地下って相場が決まってるんだよね……」
下への階段を選んだリザはそろりそろりと降りていった。窓から差し込む光だけが頼りだ。足元は暗くておぼつかないが、手すりは埃まみれで触れられたものではない。
踊り場で一度立ち止まって、リザは革鞄の中に手を突っこんだ。中を探って銃を握る。引っ張りだしておぼつかない手つきで構えてみれば、余計に緊張感が増した。腕が震えそうだ。
階段を降りきったリザは壁にもたれかかった。
人の、呼吸の音が聞こえる。
どうやらはずれを引いたらしい――リザの額には冷や汗が浮かんでいた。
顔を出せばお互いが見えるであろう距離で、リザは動くことができなかった。迂闊に戻ることもできないで、ただ気配をひそめている。
響くのは声ではなく呼吸だけ。苦しんでいるようにも思えるそれにリザは息を呑んだ。壁の向こうで何が起こっているのか確かめたいが、けれどその場に釘付けになっている。
「――はっ……」
リザが瞬きしたのは次の瞬間だった。
どこか聞き覚えのあるような、女性の声だった。
まさか、とリザは唇の端をひきつらせる。
「……動かないでください!」
リザは壁の影から躍り出た。ざっ、と砂埃の上を靴が滑る。すぐさま銃を突きつける。両手を真っ直ぐに伸ばして銃口を向けた。焦点が合うよりも早く、銃の引き金に指をかけていた。
「動いたら撃ちま――」
リザなりの精一杯の虚勢だった。しかしリザが最後まで言い切ることはなかった。
目の前にいたのは、リザが尾行していた男とサロメだった。
牢屋が並んでいるが、なぜかサロメは柵の外に出ている。そしてあろうことか、男の首に腕を回してキスをしていたのだ。
突然主人のキスを見せつけられたリザは盛大に首を傾げた。
「……何をしていらっしゃるんでしょう?」
サロメは唇を離すと、目つきを鋭くした。
「ちょっと、雰囲気を壊さないでよ」
「す、すみません」
リザは慌てて回れ右して帰ろうとしたが、いやいやそうではない、と途中で目を覚ます。
「……何がどうなってるのかさっぱりですけど! やることは一つですよね、これ!」
リザは迷うことなく駆けだした。男は身じろぎしたが、サロメにぴったりと寄り添われているし、襟を掴まれているから動くのが遅れた。その間にリザは距離を詰める。素早く男の背後に回り込む。
そして銃を力いっぱい振り下ろしたのだ。
「がッ」
銃身が頭に命中した。男はうめき声を上げながらあっけなく倒れていった。サロメはぱっと腕を上げると、灰色の目を見開いていた。
「割と思い切りがいいのね、あなた……」
「力仕事で鍛えた私の腕力、みくびらないでください」
「精神の方を言ったの。誰があなたの腕力の話をしているのよ」
サロメは足元に倒れこんでいる男を見下ろした。
「こういう解決法は粗暴で私好みじゃないわ。しかも後で情報を抜く算段だったのに、気絶させてしまったし……。でもまあ、いいわ。そんなことよりもっと大切なことがあったわね」
サロメはリザの方へ視線を移すと、わざとらしく笑った。
「それで?」
ずかずかと詰め寄ってくるサロメに、リザは後ずさりした。満面の笑みを張り付けているが、目はほとんど笑っていなかった。
リザは「あはは……」と苦笑いで誤魔化そうとするが、そんなもので逃げられるほど甘くはない。サロメはリザの頬に手を伸ばすと、つねり上げた。
「どうして、リザが、ここに、いるのかしら?」
「いたたたたたた」
「しかも男装までして。この私がせっかく気を遣ってあげたのに、それを無駄にするなんてどうかしてるわよ。まったく意味が分からないわ。あなた何考えてるの? 馬鹿なの?」
遠慮もなくつねられた頬に、強烈な痛みが走っている。リザは涙目になりながらサロメの手首を掴んだ。口からは「痛い痛い」しか出てこなかったのだ。
寒々とした廊下に二人の声が響いていた。こんなことで時間を潰しているわけにはいかない、とサロメも気が付いたのだろう。彼女は長くため息を吐くと手を離した。
「まったく、あなたって人間が本当に分からないわね!」
サロメは呆れたように吐き捨てた。リザは赤くなった頬をさすりながら、彼女の目を真っ直ぐに射抜いた。
「それはこっちの台詞なんですけど!」
「はあ?」
サロメが次の言葉を続けようとしたが、リザは遮る。足は大きく開いていた。
「今さら気を遣われたって気持ち悪いだけなんです。大体なんですか。運命を共にしているって、救ってみろって言ったのはサロメじゃないですか。ここまで来たらもう最後まで一緒に行きます。あなたに許されなくても関係ありません、私は勝手について行きますからね!」
リザは真っ向から言い切った。
「――っ」
サロメの瞳が揺れる。動揺を隠すようにそっぽを向いた。
「やっぱり馬鹿よ、あなたは……」
サロメは歩きだした。カツンとヒールの音を鳴らしながらリザの隣をすり抜けていく。髪がふわりと大きくたなびいた。顔は見えなかったが、背中はやけに小さく見える。
サロメはふと立ち止まった。彼女は振り返ることなく低い天井を見上げていた。
「……でもリザが来てくれて良かったわ。ありがとう」
吹き抜ける風に横髪が揺れている。リザは間抜けな声を漏らした。もう一回言ってほしいと言う意味のそれだったが、サロメはもう一歩を踏み出していた。
リザは全身を硬直させていたが、たっぷり息を吸って、笑った。
「それを聞きたかっただけなんです。満足しました」
リザは駆け足でサロメの隣に並んだ。彼女の表情を見てやろうと覗き込むが、彼女は顔を背けたまま手を振った。すげない態度だったが、ちらりと見えた耳が赤かったからリザはにやにやと口元を緩ませた。
廊下に足音が二人分響き渡る。もと来た道を引き返せば一階に戻れるはずだが、サロメは地下を進んでいった。石造りになっている廊下は冷えきっていて、リザは無意識に手をこすり合わせた。
歩くだけでどちらも口を開かなかった。不思議な沈黙が廊下の奥まで続いていた。
「……止まって」
いつまでも続きそうだった静けさを打ち破ったのはサロメだ。
何を気にすることなく悠々と歩いていたサロメだったが、突然立ち止まったのだ。片手を出して制したからリザは前につんのめった。思わず両手を広げてバランスを保つ。体勢を整えてから文句を言ってやろうとしたが、足音が聞こえることに気が付いて目を見開いた。
二人とも止まっているのだから、足音などするはずながなかったのだ。
「それで?」
サロメは腕を組んだ。横目でリザを見遣る。
「まともな勝負になるくらいには手の内があるから、ここに来たのよね?」
リザも視線だけ向けた。
「当然です。サロメはともかく、私は勝ち目がない賭け事なんてまっぴらごめんですから」
「勝ち目のないところから逆転するから興奮するんじゃない。分かってないわねえ」
「一生分からなくていいです、そんなの」
「あなたって本当、ドゥミモンデーヌには向いていないのね」
「私はドゥミモンデーヌの使用人で十分ですよ」
リザは肩をすくめた。
サロメは悪戯っぽく笑みを零してから、正面を見据えた。
「ようやく本命に会えたわ。そっちから出向いてくれるなんて嬉しいわね」
かすかなランプの光を浴びて、彼はオレンジ色に照らされた。軍服の肩のモールがきらきらと輝いて目に眩しい。オリヴィエ・アランは牢屋の並ぶ地下牢でも穏やかな笑みを携えていた。
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