第25話 逃走劇
隠し部屋は地下通路に繋がっていて、二人はランプだけを手に、着の身着のままで駆け抜けた。通路は近くにある森まで繋がっていた。二人はオリヴィエに知られることなく屋敷から脱出したのだ。
だが行く当てなどない。真夜中、寝巻のままで逃げてきたサロメは、腕をさすりながら歩いていた。どこかに隠れなければ、薄着で一夜を明かすことはできないし、何よりオリヴィエにも見つかってしまう。行き先などたった一つだった。
「――で、ひとまず僕のところに転がり込んだ、と」
腕を組んで仁王立ちする少年――ジルは仏頂面だった。
「いつからうちの仕立て屋は隠れ家になったんだっけ……?」
「便利に使ってごめんなさい! でもすごく便利だったので!」
「オブラートに包んでもらっていい?」
リザは上着を羽織ったまま全身全霊で頭を下げた。それからくしゃみをしたので、ジルは諦めたように首を振った。
リザが選んだ行き先は、ジルの仕立て屋だった。
仕立て屋の明かりはすでに消えていた。だが裏口の扉を激しくノックされ、ジルが目をこすりながら扉を開けたのだ。事情もろくに説明できず、身振り手振りだけしているリザだったが、ジルは「とりあえず中に入れば」と言った。
二人は奥の工房へと連れられた。そこであらかたの出来事を話してはみたが、ジルは眉間にしわを寄せるだけだった。
「何がどうなったらそうなるんだ」
ジルは視線を外すとテーブルの方へ向けた。椅子に座ってホットワインを飲んでいるサロメを見ると、分かりやすくを眉をひそめた。
「出たな、サロメ・アントワーヌ」
「今はバラノフよ」
視線だけで火花を散らし始める二人を止める手段はない。リザは「すみません、すみません……」と力なく頭を下げるだけだった。サロメは笑い、ジルは目つきを鋭くする。次第に激化していく争いだったが、扉から顔を出した店主によって一時休戦することとなった。
「もう夜も遅い、眠った方がよろしいでしょう。空いている部屋へ案内してやりなさい」
店主は皺のある手で二階を指さした。ジルは大げさに肩をすくめた。
「そこの女だけ叩きだしちゃ駄目ですか」
「……ジル、本気の目で言うのはやめなさい」
「ちょっと言ってみただけですよ。とりあえず二人とも、ついてきて」
ジルは片手をひらひらと振った。
ジルに連れられて二階へ上る。二階は住居になっていて、空き部屋の一つで寝るように告げられた。ベッドとソファが一つずつあるだけの質素な部屋だった。
サロメが先に部屋に入って、リザも続こうとしたが、肩をつんと突かれて立ち止まった。
「ちょっといい?」
ジルが小声で言う。リザは扉を閉めると廊下に残った。
「どうしたんですか?」
「もうちょっと詳しく聞いておこうと思って。師匠も訊きづらそうだったし」
ジルは壁にもたれかかった。
「で、何に巻き込まれているわけ?」
彼は横目にリザを見る。両手はポケットに突っ込んでいる。リザは二度首を振った。
「私も何が何だかさっぱりで。突然軍人が押しかけてきて、そのまま攫われそうになって、たまたま見つけた隠し部屋から脱出して、ここまで逃げてきまして……」
「大冒険じゃん。それで身に覚えがないとか、あり得ないでしょ」
「それがまるっきりないわけでも、ないというか……。でもやっぱり覚えがなくて……」
「意味が分からん」
ジルは天井を仰ぎ見た。あまりの荒唐無稽さに考えることをやめたらしく、目は虚ろだった。リザもそうしたい気分ではあったが、今はやめておこうと思った。
ややあって、ジルはリザの肩を軽く押した。
「まあ、詳しいことは明日に。今日は早く寝なよ。何かあったら僕が叩き起こしてあげるから」
ぐんぐんと押されるから、リザは自然と部屋へ向かい始めていた。ジルの口調はいつも通りぶっきらぼうではあったが、どことなく温みのあるものだった。彼なりに気を遣ってくれているのだろうと分かるのは、リザが彼の友人であるからだ。
「……ありがとうございます」
「どうも。謝礼に期待しておくからね」
「了解です。サロメにきっちりとお願いしておきますよ!」
リザは扉のノブをひねって押し開ける。軽く手を振ってから、部屋の中へ引っ込んだ。
こんな非常事態に眠れるはずがない、と思っていたリザだが、予想は呆気なくはずれた。
ソファに腰かけたリザは、最初こそ手を組んで神妙な顔をしていたが、十分後にはこくこくと舟をこいでいたのだ。あまりにも図太い。緊張感に欠けているのではないかと思った。だから下がってくる瞼に抵抗もしたが衝動には抗いがたい。結局リザはソファに横たわり、眠りに落ちていた。
ベッドを占有していたサロメといえば、身体を横たえていただけで一睡もできなかったようだ。目の下に薄いくまを作っていた。
サロメはベッドのふちに腰かけたまま、前髪をかき上げた。
「リザ、昨日の今日でよく眠れるわね……。ある意味感心するわ」
「正直、自分でもどうかと思いましたよね」
日が高くなった頃に、ジルに呼ばれて工房へと戻った。
メイク道具がないから今日のサロメは素顔だ。いつもより幼く見える彼女だったが、この事態に呑気なことは言っていられず、大人しく顔を出した。身に付けているのは仕立て屋から後払いで購入したドレスだ。
工房で待っていたのはジルだけだった。彼はテーブルについている。無言で前の椅子を示すので二人も同じように腰かけた。音のしない部屋で、真っ先に口を開いたのはジルだった。
「バラノフって言っていたけど、それってバラノフ公爵で間違いないよね」
ジルが手にしているのは新聞だった。
「これ、今日の新聞。この記事だけ読んでくれる?」
ジルは広げられた新聞紙の中央を示した。歳の割にはごつごつとした指先を辿り、二人で覗きこむ。リザは少しだけ腰を浮かせる。二人同時に読み始めたが、リザは文字を読むのが遅いから一文字ずつ丁寧に追っていく。リザが読み終わるよりも前にサロメが声を上げた。
「――バラノフ公爵が失踪!?」
リザは勢いよくジルを見る。サロメは黙ったまま読み進めていた。灰色の瞳だけが忙しなく左右に動いている。
「夜、人が出入りしていたことだけが分かっている、と」
「それって、まさか……」
「私たちと同じことが起きているみたいね。公爵は私たちより先に連れていかれたんだわ」
サロメは細く息を吐いた。
「もう殺されているのかも」
彼女の言葉はあまりにも無慈悲だ。リザは机に手を付いて立ち上がった。テーブルの上に乗っていた空のカップが音を立てた。
「そんな……! まだ、分からないじゃないですか!」
「でも生きていると考える方が難しいわよ」
「……っ」
「リザだって本当は分かっているんでしょう?」
痛いところを指摘されては、息を呑むしかない。リザは背を丸めたまま手元を凝視していた。横髪がはらりと視界に落ちた。サロメは力なく首を振ると、軽く背をのけぞらせた。
「……これで何となく見えてきたわね」
天井からぶら下げられたランプがちかちかと瞬いた。昼でも薄暗い工房に影が伸びる。
「バラノフ公爵は軍にとって不都合な人間だった。でも証拠がなくて、表向きには対処しきれなかった。だから今回、秘密裏に拉致された。……数日とは言え、彼の妻である私にも疑いがかかったと言うわけね」
サロメの指が軽く机を叩く。
「大方、ロシアへの手紙ね。あれがフランスの情報を漏洩していたんでしょう。それも故意に」
「ロシア側のスパイってことですか!? でも私たちは本当に何も知らないのに……」
「疑いがある、というだけで理由は十分みたいよ」
沈黙していたジルはすっと腕を伸ばした。机に広げられていた新聞を引き寄せると、適当に折りたたむ。
「今朝、外に出たついでに、君たちが前に住んでいたアパルトマンを通ったけど――ずっとうろついている男がいたよ。見張られていると思う」
ジルはじろりと睨むようにサロメを眺めた。
「ずいぶんな厄介ごとになってるね。僕やリザが巻き込まれるのは不本意なんだけど?」
「……少なくともリザは私のものよ。あなたに口出しされる筋合いはないわ」
彼女の目は冷ややかだった。また緊張の糸が張り巡らされる。サロメは椅子を引くと、静かに立ち上がった。衣擦れの音をさせながらジルを見下ろした。
「けれど、あなたに迷惑をかけるつもりはないわ。ここが割れるのも時間の問題。もって二日か三日でしょう。その前には出ていくから安心してちょうだい。……世話をかけるわね」
サロメはそれだけ言うと、背を向けて工房を出ていった。疲れているはずなのに背筋はピンと伸びたままだ。布地の隙間からちらりと見える肌が美しかった。彼女のためにデザインされたのではないか、と思うほど彼女にふさわしいドレスである。
ジルはやはり肘をついたままで彼女を見送った。階段を上る足音がうっすらと聞こえはじめると、彼は大きくため息ついた。
「あー、やっぱり気に食わない」
ジルは両手で頭を抱える。わしわしと髪をかき乱すと上目遣いにリザを見た。
「何回会ってもイライラするんだよね」
「性格が合わないんですかね?」
ジルは「うーん」と軽くうなった。
「どっちかっていうと同族嫌悪に近い感じ? 自分を最優先にしているのがよく分かるから、見ていて苛立つんだよ。なのに線引きするのは上手いから、こっちが踏みこむのを許さないし」
ジルはカップに手を伸ばした。持ち上げたところで中身がないことに気が付いて、ジルは無言のまま立ち上がった。
リザは膝の上でゆるく拳を握っていた。もう部屋に戻ってもいい頃合いだが、もう少しジルと話していたいような気もする。サロメも一人になりたいだろう。たぶん夜に眠れなかった分、今休んでいるはずだ。
リザはしばらく工房にいることに決めた。
席を立ったジルは両手にコップを持ってきた。中で甘ったるそうなホットチョコレートが波打っていたから、リザは少しだけ笑ってしまった。以前と同じで、また媚を売られたらしい。
ジルと交わした会話は他愛のないものばかりだった。最近何をしていたかだとか、サロメへの愚痴だとか、肩が凝っただとか腰が痛いだとか、どうでもいい話ばかりだ。それが心地いい。
「ちょっと仕事してもいいかな」
軽く頷き返すと、ジルは針に糸を通した。そして長く伸びた白い糸で布を縫い始めた。ジルは案外大きい手のひらをしているが、指先は繊細に動く。伏せられた目は澄んでいた。
ぽつりぽつりと話を続けていたが、リザは小さくあくびを漏らした。
「なんでかな。見ていたら眠くなってきちゃいました……。ちゃんと寝たはずなのに」
「ようやく落ち着けたんじゃない?」
ジルは手を止めると視線を投げかけた。
「寝てくればいいよ。どうせあの女もリザを待っているだろうし」
リザはぼんやりとし始めた頭に彼女を思い浮かべた。彼女が部屋に戻ってから二時
間経っているが、まだ眠れなくて不満げに唇を閉ざしているかもしれない。リザは「ふふっ」と笑ってから立ち上がった。
「私、部屋に戻りますね」
「心配しなくても、夕方になったら起こしてあげるから。ゆっくり休みなよ」
リザは飲みかけのホットチョコレートを置くと、工房の扉を開けた。音を立てないようにゆっくりと閉める。廊下を進んで、二階への階段に足をかける。やはり足音をさせないようにのんびりと上った。
貸し出されている部屋の前までやって来ると、リザは握りこぶしを作った。いつも通りノックしようとしてふと動きを止めた。もしかするとサロメは眠っているかもしれない。リザはノブを掴むと、時間をかけて回した。
「……サロメ」
囁くように呼びかける。返事はない。
やっと眠れたのかと思ってリザは眉を下げた。扉を押し開ける。軋むベッドの上で寝息を立てる彼女の姿を想像していた。薄いシーツに広がる赤毛や、ちらりと覗く細い足首も目に浮かんでいた。
「サロメ?」
だがベッドに彼女の姿はなかった。部屋に人の気配はない。
折りたたまれたシーツの上に置かれていたのは一枚の紙で、流麗な字が刻まれていたのだ。
「…………は?」
呆けた声が落ちる。リザは紙を拾い上げると、震える瞳を動かした。
――謝礼はまた後ほど。世話になりました。さようなら。
サロメはいつだって横暴だ。あれだけ自分の物だと言い張っていたリザのことですら、あっさりと置き去りにしていくのだから。
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