第20話 狂気


 バラノフの名前を手に入れたサロメに敵はいない。


 すべての目的を果たすために、彼女は豪奢なドレスを身にまとった。その場で振り返ると、ドレスの裾が舞い上がった。白い靴がちらりと顔を出す。編み上げた赤毛を飾る髪飾りが揺れた。ぼうっと外の景色を眺めていた彼女はもうそこにはいなかった。


 彼女は艶やかに微笑んだ。


 音楽サロンの招待状を片手に、彼女は悠々と歩く。誰もが瞬きを止めるような美貌を振りかざしながら、広間を真っ直ぐに突っ切った。


「ごきげんよう」


 とある貴族の館で開かれたサロンで、彼女たちは再び顔を合わせたのだ。


 音楽を主題にした社交界――招かれているのは貴族や文化人だ。音楽サロンの名にふさわしく、中央のピアノは優雅なワルツを奏でていた。ピアノを取り囲むようにして話をしていた客たちは、誰ともなく振り返った。そして二人の顔を見るや息を呑んだのだ。


 サロメの目の前には、険しい目元のイザベラがいた。


 広間中の視線を集めたサロメは、スカートをつまんで一礼してみせた。


「改めて名乗らせていただくわ。私はサロメ・バラノフ。夫はバラノフ公爵。――お久しぶりね、ティエール伯爵夫人」


 対面するイザベラは唇を噛んでいた。彼女の鼻の頭は赤くなっている。ショールが肩から滑り落ちた。彼女は唇を噛むと、吠えた。


「……どうせ身体で手に入れた爵位のくせに!」

「愛し、愛された結果よ」

「馬鹿馬鹿しい。汚らわしい娼婦に愛なんてあるものですか!」


 イザベラの顎が震えていた。爆発しそうな感情を押さえ込もうと全身を力ませているが、彼女の目はすでに敗北を悟っていた。


 彼女のささやかな抵抗を、サロメは鼻で笑った。


「ねえ、気分はどうかしら? 汚らわしい娼婦に見下されるのは、さぞ最低な気分でしょうね」


 サロメはいたずらっぽく笑みを零すと、横髪を耳にかける。艶のある仕草にイザベラは歯を食いしばっている。


 サロメはくすっと声を零すと、足を前に踏みだした。イザベラはつられて足を後ろに引いた。だがサロメはヒールの音を響かせながら、彼女の隣へと身体を滑りこませた。サロメは唇を耳元に寄せる。二人の影が一つになった。


「次はあなたの夫に愛してもらおうかしら」


 頭を溶かすような、甘やかな声が耳の奥についた。


「……ああ、でも駄目ね。私、今より下に行くつもりはないもの」


 イザベラの目が見開かれた。次の瞬間、彼女は腕を振り上げた。


 ――殴られる!


 遠く離れた場所にいるリザは口を開けた。右手をとっさに伸ばす。だがとても届きはしない。リザは前のめりになったまま固まっていた。靴先がカツンと音を立てただけだった。


「サロ――」


 リザの声はどよめきへと消える。


「っ、ふざけるな――」


 イザベラは顔を赤くしている。喉の奥で噛み殺したような声が響き渡った。イザベラの腕は振り上げられたままカタカタと震えていた。殴らなかったのは、貴族としての最後の矜持だ。


 イザベラの細い喉が上下している。ふうふうと荒い呼吸が口をついてでる。


「おまえは、おまえたちは、人の心を弄んでいるだけの女じゃないの」


 甲高い声が大広間を貫いた。


「これを汚らわしいと言わないで、何と言うのよ!」


 いまだ振り上げられた拳はサロメを捉えている。顔に当たれば傷になってしまうだろう。


 しかしサロメが怯むことはなかった。むしろその瞳は輝きを増していて、直視するにはあまりにも眩しすぎた。


 サロメはイザベラの手首を柔く掴んだ。指がするりと肌を這って、イザベラは肩を跳ねさせた。彼女はすぐに払おうとする。しかしできずに硬直している。サロメは視線だけを彼女に投げかけた。


「弄んでなどいないわ。私たちはいつだって本気よ。本気で、愛を奪っているの」

「は、あ?」

「私たちにとっては生きるか死ぬかなの。何もかもが賭けなの。遊びでできるほど楽しいものではないわ。……他人の心に触れることがどれだけ苦しいことか、あなたは知らないの?」


 サロメの指先がくっと曲げられる。灰色の瞳が細められた。


「あなたは本当に、誰かを愛し、愛されたことがある? それとも、爵位は人の愛さえ不自由にしてしまうのかしら」


 ふと気づけば、いつの間にかピアノの演奏が止まっていた。ざわめきも消えている。音の支配しない空間で、サロメの囁くような声だけが人の間をすり抜けた。脳髄に響くような声だ。


「私たちには、私たちの生き方がある。それがどれだけ愚かだったとしても、一度選んだのなら守り抜かなければならないものよ」


 イザベラは睨め付けた。眉がつり上がっている。


「おまえたちに守らなければならないものなんて、あるはずない!」

「生きる道は自分で決めるのよ」

「義務ではないわ!」

「義務よ」


 サロメは断言した。


「ドゥミモンデーヌは何も持っていない。心と身体を売り物にして歩くだけ。男に囲われて、愛でられて、捧げられて、生かされていく。成功すれば貴族でも持てないほどのお金を手に入れるわ。あなたたちが妬むほどにね。札束を湯船に浮かべたっていい。最高の人生よ!」


 笑う。サロメは笑う。


「……でもいつかこの身体は老いてしまうわ。誰にも見向きされなくなる日がきっと来る。それでも私たちは愛を乞うのよ。口紅を塗って、綺麗なドレスを着て、私を愛してって。皺だらけの肌で。たるんだ唇で。かすんだ目で。曲がった背中で、しゃがれた声で。どれだけ惨めだって。誰に笑われたって。地獄に落ちるその日まで!」


 その笑みはいっそ狂気的だ。リザの隣に立っていた貴婦人は眉をひそめたし、真後ろからはがさっと衣擦れの音がした。誰もが悪魔でも見るような目で遠巻きにサロメを見ていた。彼らの目にあるのは軽蔑ではなく、恐怖だ。


 シャンデリアの明かりを一心に受けているサロメは、ふっくらと赤い唇を歪めた。


「ドゥミモンデーヌとして生きていくと決めた日から、私は破滅すると決まったわ。今さら帰る場所なんてありはしない。だからせめて、この道を真っ直ぐに歩いていくしかないのよ!」


 喉の奥を震わせて、サロメは叫ぶ。リザは瞬きできずに彼女を見ていた。鳥肌が立った。


「――っ!」


 イザベラは拳をぐっと握りしめた。手のひらに爪が食い込んでしまうほど強く握って、それからふと力を抜いた。手首がだらんと垂れる。サロメの指が緩んだ瞬間に勢いよく払われた。


「おまえの道は地獄にしか続いていないのよ。愚かにもほどがあるわ」

「それで結構。どうぞ私を地獄へ落としてちょうだい」

「……おまえみたいな馬鹿げた女は見たことがないわ!」


 吐き捨てるように言って、イザベラは唇を噛んだ。


「サロメ・バラノフ。おまえが破滅する日が見ものね」


 呪うような、低く地を這う声だった。


 イザベラはくるりと背を向けて立ち去ろうとした。ざわめきを取り戻した群衆の中に消えようとする。しかしサロメは呼び止めた。彼女はわずかに足を止めたが振り返らなかった。


 憎悪や軽蔑のなかにあっても、サロメは優艶に微笑むだけだ。


「いつか破滅するその日まで、私はすべてを手に入れるわよ」


 ランプの火が揺れる。誰一人として目が離せなくなるほどの美しさで、サロメはそう言い切ってみせた。疑うことさえ許さないとでも言いたげな瞳に吸い込まれそうになる。


 あれがサロメだ。


 あれがドゥミモンデーヌだ。


 誰のものにもならないであろう彼女に、リザはとっくに捕らえられていた。

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