まだラストダンスは踊らない

月花

第1章

第1話 劇場


 奪われることにも慣れてしまえば、ずいぶんと楽な人生だった。


 リザ・ルーセルの生涯には何か特別なことがあったわけではない。リザはただの貧しい平民で、絶望するほどの不幸はなければ、悲劇と言えるほどロマンティックでもなかった。だが願ったささやかな幸せもなくて、粛々と過ぎていく日々は漠然と不幸せだったのだ。


 リザに訪れた最初の不幸は、きっと優しい母親がリザを残して眠ってしまったことだっただろう。その次は父親が荒れてしまったことで、さらにその次はリザが小さい頃から働きに出なければならなかったこと、そして今は気の強い同僚に睨まれていることだ。


 次から次へとやってくる不幸に抵抗するのはとても疲れる。

 

 だからリザは諦めることにしたのだ。諦めて、慣れてしまえば痛みなどやってはこなかった。


 それでも時々は目を奪われてしまう。眩しいほどの世界に。


 忙しなく動き回っていたリザはふと足をとめた。呼吸も静かになって、しばらく糸が切れたようにぼうっと立っている。薄暗い舞台裏で、しかし突然巻き起こった拍手にはっと振り返った。片手に持ったトレイの上に乗った水のグラスが揺れた。目の前にある分厚いカーテンの向こうはきらびやかな劇場の舞台で、リザはカーテンの隙間からもれる光を見ていた。


「――」


 アリアが響き渡った。カーテンの向こうには想像もできないくらい華やかな光景が広がっているのだろう。


 だが劇場の下働きであるリザには、舞台で光を浴びる権利などなかった。彼女の仕事は、薄暗い舞台裏で役者の世話をすることと、上演が終わった後に掃除をすることなのだ。






 十九世紀、パリの一角にあるポルト・サンマルタン劇場。


 リザは短くため息をついてからテーブルにグラスを置いた。かれこれ五時間働き詰めだったが、ようやく休憩を取れることになっているのだ。リザは舞台袖からすり抜けるように出て、従業員室へ向う。


「リザ!」


 やっと休憩だ、と扉を開けようとしていたところで背後から声をかけられた。リザは指をぴくりと動かしてからゆっくりと振り返った。脳裏をよぎったのは嫌な予感だ。


「なんですか、ナタリアさん?」


 目の前に立っていたのはリザより一回り年上な女性だった。彼女は笑みも浮かべることなく、靴音をカツカツ響かせながら近づいてきた。


「あんた今から休憩なんでしょ? 手空いてるならちょっと手伝ってほしいんだけどいい? もうすぐ幕が下りるからばたばたしてるの。あんたもいてくれないと回らないのよ」


 早口にまくしたてる彼女はリザと同じ下働きだ。身に付けている質素なドレスは下働きの制服だ。


 ナタリアは手を腰にやって急かすようにリザを見ていた。きつい目元に、リザはとっさに何か言おうと唇を開きかけが、すぐにやめてしまう。視線を足元に向けた。


「……はい、大丈夫です。私は何をすればいいですか?」

「次の衣装を移動させておいてちょうだい。ドレス二着ね。あと小物の準備も。悪いねリザ、休憩だったのに」

「いえ。お互い様ですから」


 ナタリアは満足げに唇を吊り上げたかと思えば、踵を返して行ってしまった。肩の力を抜いてはーっと息を吐く。彼女はいつだってあの調子で、リザがろくに言い返さないことをいいことに大変な仕事ばかり言いつけるのだ。理由は分かりきったことで、リザはナタリアに嫌われていた。


「せっかく休憩だったのになあ……」


 リザはぼやきながら舞台裏へと戻った。もう幕の終わりが近いのか人が入り乱れていた。リザは身体をよじりながら隅へと向かう。ぽつんと置かれた木の人形はドレスをまとっていて、縫い付けられた宝石は薄暗い明かりを反射してきらきらと輝いていた。リザは手を伸ばすと順番に脱がせていく。一人隅で奮闘していると、足音が近づいてきた。


「リザ、手伝おうか?」


 いつのまにかずいぶんと近づかれていて、頭上から声が降ってきた。はっと見上げるとそこにいたのはアロイスだった。彼もまた同僚の一人で、うす汚れた従業員服をまとっている。だというのに整った顔立ちやすらりとした身体はよく目立つ。


「このドレス、脱がせて持っていけばいいのかな?」

「あ、はい。でも、アロイスさんも他の仕事が……」

「大丈夫だよ。走れば間に合うから」


 アロイスはにこりと笑った。笑みを浮かべたままリザの隣に並ぶ。


「ほら、リザ、ここ持ってて」


 二人で協力すれば袖がするりと抜ける。


「ね? すぐ終わったでしょ」

「いつもすみません。私ばかり手伝ってもらって……」

「リザはここじゃまだ若いんだから、世話焼かせてよ」


 アロイスは悪戯が上手くいった子どものような、幼さの残った表情を浮かべた。誰もがくらりときてしまいそうな爽やかさに、リザは思わずこくんと頷いていた。


 彼は下働きたちの中でも最も人気のある男性で、リザにもいつだって優しいのだ。


「そういえば、君は今から休憩じゃなかった?」

「……手伝ってほしいとお願いされてしまって。あとで休憩を取るので大丈夫です」


 アロイスは「またかあ」と困ったように肩をすくめた。


「リザは強く言えない性格だから少し心配だよ。誰か分からないけれど、僕から言っておこうか? リザばかりに仕事を押し付けるなって」

「そ、そんな!」


 リザは慌てて首を振った。


「私はこれくらい大丈夫ですから……」


 リザが目を逸らすと、彼は困ったように肩をすくめた。


「じゃあ次は背中を抜くから」

「はい――あっ」


 リザは小さく声を上げた。右手にアロイスの左手が覆いかぶさるように触れたのだ。リザは反射的に身体引くと、気まずそうに俯いた。アロイスはくすくすと笑う。


「ごめんね、わざと触れたわけじゃないんだ。そんなに驚かないで」


 リザは頬をうっすらと赤くしたままで頷いた。男性に手を握られるなんて、それこそ子どものころ、父に手を引かれたときの記憶までさかのぼるしかなかったのだ。恥ずかしそうにもじもじとしていると、彼はからかうように目を細めた。


「顔、赤い」

「……っ、怒りますよ」

「あはは。ごめん、ごめんって。僕たち急がなきゃいけないんだったね」


 アロイスは肩をすくめると、一人でてきぱきとドレスを脱がせ始めた。リザも我に返ったように手を伸ばすが、そのときどこからか視線を感じた。嫌な感じがして思わず振り返る。


「――あ」


 視線が重なった。ナタリアだった。


 彼女は少し離れたところに立っていて、鋭い目つきでリザを睨みつけていた。


 彼女の目はほとんど敵意で爛々としている。リザは指先まで固まってしまって動けなかった。ナタリアはアロイスに恋をしていて、だからこそ彼に世話を焼かれているリザは目の仇にされているのだ。


「どうしたの? 誰かに呼ばれた?」

「い、いえ。気のせいでした……」


 またナタリアを不愉快にさせてしまった。しかも今回は特別機嫌が悪そうだ。


 リザからすっと視線を逸らしたが、もしかしたらまだ彼女に見られているのかもしれない。リザはもう一度振り返って確かめたかったが、それすらも怖くて目の前の作業に集中するしかなかった。黙りこんだまま手だけを動かしていると、彼は思いだしたように口を開いた。


「そういえば、今夜はサロメ・アントワーヌが来ているらしいよ」

「サロメ、アントワーヌ?」

「あれ、知らない?」


 彼は首を傾げた。


「最近有名になってきた高級娼婦ドゥミモンデーヌだよ」


 ドゥミモンデーヌ――裕福な男性の愛人となって囲われ、贅沢の限りを尽くして生きる美しい女性たち。平凡なリザとは関わることもないであろう人間だ。


 リザはネックレスを用意しながら「そうなんですね」と適当に相槌を打った。ドゥミモンデーヌなどどうでもいい。リザの頭の中は、どうやってナタリアの機嫌を取ろうかということでいっぱいだった。しかしリザが上の空であると気付かなかったのか、彼は世間話を続けていた。


「最近は新聞でもサロメの名前を見かけるよ。……今は貿易商人の愛人らしい」

「今は?」

「ちょっと前までは大地主の愛人で、その前も別の誰かに囲われていたんだよ」

「そんなにころころ相手を変えるんですか?」

「仕方ないよ。今までの愛人はみんな、破産させてしまったから」


 破産、とリザは繰り返す。


「ドゥミモンデーヌなら不思議なことじゃない。一体誰がサロメ・アントワーヌの心を射止められるのか、なんて記事が出たくらいだし」


 アロイスは手を止めることない。


「サロメは演劇好きらしくてたまにこの劇場にも来るんだよ。この前サロメを見かけたんだけど、すごかったよ。派手なドレスを着ていて、宝石でいっぱいの髪飾りをつけていてさあ。もう雰囲気が違う。ああ、この人は普通じゃないなって見れば分かるんだ」

「……?」

「彼女は、僕たちとは違う生き物みたいだよ」


 リザは空返事をした。どうせ交わることのない人間なのだから、ゴシップは新聞で眺めるくらいでちょうどいい。


 だが後になって思うとすれば、「その派手なドレスにワインをぶちまけてしまったときはどうすればいいと思いますか?」と訊いておくべきだったのだ。きっと。

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