第一章、魔王と勇者の息子

一、眠れる獅子

 ここはどこだろう。

 気が付くと真っ白な空間に投げ出されていたソルは、己の腰に帯刀された見覚えのない剣に首を傾げた。

 直前の記憶を思い出そうとして、頭に鋭い痛みが走った。

 双子の姉から借りた戦術指南書を夢中で読み耽っていたところまで記憶がある。

 その先が無いのはきっと、眠ってしまったからだろう。

 いつもであれば、姉と幼い妹が一緒になって起こしに来てくれるのに、二人の気配は勿論、魔王城とは似ても似つかぬ白い空間に、ソルの眉間に深い皺が刻まれる。


「……お目覚めになられまして?」


 例えるなら、頬を撫でる柔らかいそよ風のような声が、ソルの耳朶を優しく震わせた。

 先程まで、何も存在していなかったはずの白い空間の中に、ぽつりと一人の女性が立っている。

 その背中には、身の丈と同じほど大きな翼が広げられていた。


「黙示録の守護者にして、天使長ルーシェルの娘アリアと申します」

「は、はあ」

「魔王ヴォルグと勇者ナギの息子、ソル様で間違いありませんか?」

「そうだけど、」


 一体何の時間なんだ、これ。

 翼の生えた綺麗な女性に詰め寄られている、とどこか現実味を帯びない景色の中に放り込まれている自分の境遇に益々頭が痛くなってきた。


「よろしい。それでは、こちらへ」


 透けるような銀色と毛先だけが金色に染まった不思議な色合いの髪が、ふわりと宙を踊る。

 うっかり、綺麗だなと見惚れてしまったのがいけなかった。


「どうしました?」


 振り返った女性の目とばっちり目が合ってしまって、ソルは慌てて彼女の後を追いかけた。


 ガラスで造られた長い廊下を歩きながら、窓の向こうを忙しなく流れる星々を横目に数える。

 しゃらしゃらと涼し気に揺れる女性の旋毛に向かって、ソルがぼそりと呟いた。


「あのう、ここは一体どこなんでしょうか?」

「どこでもありません」

「え?」

「ここは、どこにも属さない場所。私たちは『箱庭』と呼んでおります」


 箱庭、と女性が零した言葉をもう一度、声に出さずに口にして、ソルは首を捻った。


「どうして、俺をここに?」

「……貴方が三神に選ばれたからです」


 またしても聞き慣れない言葉がソルの耳を打つ。

 質問しようと開いた唇は、しかして言葉を紡ぐことはなかった。

 女性の――アリアの人差し指がソルのそれを塞ぐように触れたからだ。


「順に説明します。その前に、こちらで禊をしていただきます」

「っみ、禊……」

「身体を清める儀式です」


 どうぞ、と通された部屋の中央には、何もない空間から大量の水が噴き出していた。

 滝のような勢いを持ったそれとソルを見比べて、アリアがもう一度「どうぞ」と言った。


「え?」

「ですから、どうぞと言っているではありませんか。お入りください」


 お入りください、と簡単に言っていい水の勢いではない。

 眉根を寄せながら視線を右往左往させるソルに、アリアが瞬きを落とす。


「何かご不満でも?」

「い、いや。これちょっと勢いが強いと思うんだけど……」

「ああ。そう言えば、魔族の方にとって聖水は毒でしたね。すみません。うっかりしていました」

「うっかりじゃなくない? というか、これ聖水だったんだ!?」


 魔族の血が流れるソルにとっては、是非とも遠慮したい代物であった。


「仕方ありませんね。それでは、こちらを」


 アリアは不快感を隠そうともせず、重い溜め息を吐き出すと、パチンと指を鳴らした。

 どこからともなくサイドテーブルが出現し、続いて白い液体が入ったワイングラスがことりと音を立ててサイドテーブルに着地する。


「天使が産まれた後の白百合の花弁を煮詰めたものです。聖水には劣りますが、これなら貴方でも飲めるかと」

「……また、うっかり何かを一緒に混ぜたりしてない?」

「失礼な。先程は本当に失念していただけです。黙示録の守護者が、何度も失態を犯したとなれば、天界の笑いものにされてしまいます」

「あ、そう」


 キッと鋭く睨んだ彼女の眼を、ソルはこのとき初めてきちんと視界に収めた。

 金色と紫、異なる色合いが淡く混ざり合い、故郷の夜明けの空を思い起こさせる。

 アリアが差し出したワイングラスを受け取ると、ソルはそれに鼻先を寄せた。

 説明されたように百合の花の香りがする。

 芳醇で甘い匂いに、思わずくしゃみをしそうになるのを何とか堪えると、勢いが大事だと言わんばかりにそれを一息で飲み干した。


「……うげえ、」

「うげえ、とは何です、失礼な」

「不味い」

「まあ、お世辞にも美味しいとは言えませんわね」

「そういう情報は先に聞きたかった」


 味の評価はさておき、腹の底がカッと熱くなったような気がして、ソルが腹に手を置くと、アリアの手がその上に重なった。

 何を、と聞くよりも先に彼女が満足そうに笑ったのを見て、禊とやらが完了したことを悟る。


「禊が終わりました」


 アリアが厳かに告げると、部屋が変わった。

 瞬きを落とす暇もない、あっという間の出来事である。


「待ちくたびれたわよ、ソル」


 疲労困憊と言った様子で己を呼んだ存在に、ソルが白目を剥く。


「め、女神サラ?」

「そうですよ。皆の女神、サラです」


 はーいと上質な革張りの椅子に腰かけてこちらに手を振る女神に、遠慮がちに一礼を返す。すると、鋭い舌打ちと共に低音が響いた。


「名乗りの前に『駄目な』を付けろ、このポンコツ」


 アリアと同じ金色と紫が美しい調和を生み出している不思議な光彩の瞳を持った男性が、サラを睨んでいる。その表情は怒っているときの父親を彷彿とさせた。


「まあ、失礼ね。いくらお兄様の創造物だからとは言え、生意気がすぎるんじゃない?!」

「黙示録を貸してほしいと泣きついてきた分際で。よくもまあそんな態度が取れるものだな」


 二人の間で火花が散っている。


「お父様、落ち着いてください。おじい様と女神メディ様はどちらに?」

「二人なら呆れて帰ったぞ。この『駄目な』妹の世話を頼むと言い残してな」


 やはり、男性はアリアの父親らしい。冷たい光を宿した眼に、関係のないはずのこちらまで胃がキリキリと痛み始めたような気がしてきたソルは、そっと彼らから視線を逸らすと女神サラの前に膝を折った。


「ご無沙汰しております。その節は、大変お世話になりました。母に代わり、改めて御礼を申し上げます」

「……見て! ほら、この子! ナギでもこんなことしなかったわよ!」


 嬉しそうに破顔した女神とは裏腹に、アリア親子の目はかわいそうなものを見るそれになっている。


「普段からどれだけ崇められていないのかよく分かるな。仮にも女神なのだから、もう少し威厳を備えれば良いものを」

「キーッ! 私のことはいいから、そろそろ説明してあげなさいよ!」

「それこそ、お前が持ち込んだ案件なのだから、説明するのもお前の仕事なのでは?」

「お前? 今、『お前』と言ったわね? この私に向かって!」


ざわざわと髪の毛を逆立て始めた女神サラに良くない気配を察知すると、ソルは慌てて彼女の手を取った。


「女神様! 俺、質問があるんですけど!」

「何!」

「あ、あのう、何で俺がここに呼ばれたんですかね?」

「……そこから?」

「そこから、とは?」


 先程までの怒りっぷりはどこに落としたと言わんばかりの様子で、眉根を寄せてこちらを見る女神サラに、ソルは困惑を隠せない。


「三神に呼ばれた、としか説明を受けていないので」


 ソルの言葉に、サラは勝ち誇った顔をして男性を振り返った。


「……貴方の育て方が悪いんじゃないの、ルーシェル」

「ハッ。責任転嫁か? ウチの娘は聞かれたことに最低限しか答えなくて良いというオリジンの指示に従っただけだ。混乱させては元も子もないからな」


 鼻を鳴らして女神を抑え込んだ男性――ルーシェルに、アリアが疲れたように溜め息を零す。


「お二人とも、いい加減にしてください!」


 凛とした声が、部屋の中に静寂を生み出した。

 声のした方へと目線を向ければ、銀糸を広げた美しい女性が立っている。


「お母様」


 アリアが助かったと安堵の息を漏らすと、いがみ合っていたはずのルーシェルと女神サラも落ち着きを取り戻していた。


「アマネ」


 ルーシェルが女性の名前を呼ぶ。

 彼女は、ゆっくりとこちらに近付いてくると真っ白な翼を広げて、ソルの前に膝を折った。

 ソルはと言えば、女神サラの前に膝を折っている状態なので、必然的に膝をつき合わせた状態で、眼前の天使と向き合う形になる。


「まずは、お詫びを。突然このような場所に連れてきてしまったことをお許しください」

「え、あの」

「……貴方には、勇者として箱庭を守っていただきたいのです」


――勇者。

 それは、かつて母が呼ばれていたはずの称号だった。

 母は、その名で呼ばれることを嫌っていたけれど、父王は未だに面白がってナギのことをそう呼んでいる。


「俺が、勇者?」


 こくり、と美しい天使は頷いた。

 鴇色の目が真っ直ぐにソルを見つめている。


「勇者から焔の力を引き継いだ貴方にしか出来ないことなのです」


 胸の奥の方がじわり、と熱を孕んだ。

 熱い、と思うより先に、右手から炎が噴き出す。


「これって、」

「私の焔よ」


 サラが眩しそうに目を細めながら言った。


「その焔を制約もなしに扱えるのは貴方ただ一人。だから、ここに呼んだの」

 矢継ぎ早に告げられる言葉の羅列に、ソルは眉根を寄せた。

「こ、こんな焔、今まで出せたことなんて一度も……」

「箱庭に来たことで制限が解除されたのよ。使おうとしなかっただけで、ずっと貴方の身体にそれはあったもの」


 そう言って、女神サラは重い腰を持ち上げた。


「帰るわ。あとのことは、任せました」

「おい」


 引き留めようとしたルーシェルを、アマネが咳払いだけで制する。


「分かりました。……どうかお気を付けくださいませ」

「ありがとう。アマネ。私の子どもたちをよろしくね」

「御心のままに」


 音もなく空気の中に混じって消えてしまった女神の残像を見送ると、アマネはゆっくりと立ち上がった。

 スッと目の前に差し出された細い指先の意味が分からずに首を傾げたソルに「お立ち下さい」とアリアが後ろから声を掛ける。

 アマネの手を借りて立ち上がったソルであったが、斜め前方――アマネの背後で殺気を飛ばしてくるルーシェルを見て、再び座り込みたい衝動が自身を襲うのが分かった。


「まずは、その焔についてご説明します」


 先程まで女神が座っていたものと同じ造りの椅子に座るよう促されて、額に汗をびっしりと浮かべたソルは恐々とそれに腰を落ち着かせた。


「次元の獣についてはご存知ですよね?」

「あ、ああ。昔、母上が退治しているのを何度か見たことがあるから」

「では、その獣に有効なものがあることは?」


 ゆっくりと瞼を下ろしたソルに、天使たちが顔を見合わせる。

 ソルはと言えば、瞼の裏に浮かんだ幼い頃の記憶の中で、母が振り回している大剣を思い出していた。


「大剣じゃないのか? 特殊な魔術印が施されていたような気がするんだけど」

「……半分正解といったところだな」

「半分? 他にも何かあるのか――ですか?」


 ぎろり、とルーシェルに睨まれて、思わず敬語で聞き返したソルに、アリアが苦笑を噛み殺す。


「恐らく、お前の母が使っていた大剣には炎の術印が刻まれていたのだろう。獣が苦手とするのは『聖なる焔』だからな」


 アマネが夫の言葉に頷くと、先程焔が噴き出したソルの右手を指さしながら説明を続けた。


「女神サラ様の焔は正しく『聖なる焔』を意味しています。本来であれば、女神様の焔を扱うために制約を結ばなければなりませんが、どういうわけか貴方には女神様と同じ焔の性質を持った魔力が流れている」


 この意味が分かりますか。

 三人の天使の言葉を、ソルはゆっくりと己に浸透させていった。

 そして、咀嚼した結果、ここに呼ばれた意味を遅まきながら悟らざるを得なくなってしまう。


「この力を使って、次元の獣と戦えということですか」

「その通りだ、小僧。何だ? 存外に頭の回転は速いようだな」

「……一つだけ、疑問があるんですけど」

「言ってみろ」


 ルーシェルが髪色と同じ翼をバサバサと大きく羽ばたかせながら、ソルを威圧する。

 そんな彼に負けじと、ソルがグッと背を伸ばして、言葉を並べた。


「次元の獣は、境界で全て燃やし尽くしたと両親は言っていました。それなのに、どうして俺がここに呼ばれたんでしょうか」

「そんなもの、答えるまでもない。この箱庭で管理している無数の星々を喰らわんと、門を渡ってきたからに決まっているだろうが」

「門は全て閉じたはずです! そんなこと、あるわけが……!」

「ならば、これを視よ」


 お父様、とアリアの咎めも聞かず、ルーシェルが両手を天高く持ち上げた。

 何かが割れる音が反響したかと思うと、再び部屋の内装が変わる。

 今度は、全面がガラス張りで造られた不思議な空間だった。

 夜の中に投げ出されたかのような暗闇に立っていると思えば、青白い球体や、真っ赤に燃えた球体がふわふわと浮かんでいる。


「ここに浮かんでいるのは、全て神々がお造りになられた世界なんですよ」


 アマネが指さした球体は、黄昏色の波を全体に纏っていた。

 その色は、故郷の空と同じ色をしている。


「じゃあ、これが俺の居た世界?」

「そうだ。箱庭では三神の作った世界を全て管理している。黙示録の守護者である、このアリアがな。だが、先日、ある星が急に跡形もなく消えたと報告があった」


 これだ、とルーシェルが足先で示したのは、粉々になった『星』であった何かだった。

 星々の間を漂うそれは最早『星』としての名残はなく、川を流れる枯葉のような存在に成り果ててしまっている。


「ここは緑豊かな星でした。守護者の権限で月に何度か訪れることがあったので、よく覚えています。消え去る数日前に視察を行いましたが、異常は全く感じなかった」


 アリアが表情を隠すように俯きながら言った。

 その声が心なしか小さく震えているように聞こえてしまって、『星』だったものからソルもそっと視線を逸らす。


「そして、それは一つだけに留まりませんでした」


 つい、と上げられた彼女の視線を辿っていくと、天井部分のガラスにキラキラと何かが輝いているのが見えた。


「あれらも全て、三神が造られた星だったものです」

「そして、破壊された星の一部にこれが残されていた」


 ルーシェルの手に握られていたのは、何かの破片のようだった。

 その破片には、くっきりとギザギザの歯形が残されており、それはソルが子どもの頃に見たことがある獣の牙にとてもよく似ていた。


「この際、門を潜ったのかはどうでも良い。問題なのは、箱庭にある世界が全て卑しき獣の餌になってしまうことだ」

「倒し方は、分かります。でも、どうやって見つけるんですか?」


 波を纏った星を横目に、ソルが問う。

 すると、ルーシェルは得意げな顔を浮かべて、自らの娘を見遣った。


「アリアは箱庭の守護者にして、黙示録の守護者でもある。黙示録とはすなわち、世界の理が全て記された書物だ。獣の居場所などすぐに分かる」

「……居場所は分かっても、対処が出来ずにこのような惨劇を招いてしまったのですが」


 面目ないと言わんばかりの勢いで項垂れるアリアをアマネの手が優しく抱きしめる。


「大丈夫。貴女は立派に務めを果たしています。ただ少し、戦う術を知らなかっただけです」

「うぅ、お母様ぁ」

「もう、めそめそしないの。お客人の前なのですよ」

「は、はいぃ」


 宝石のような美しい六つの目が、ソルを射抜く。


「このような物騒な言葉をならべるのは気が引けるのですが――元の世界に帰りたければ、我々に協力してください」


 とても天使とは思えない脅迫めいた発言に、ソルの項を冷たい汗が流れた。


「……拒否権は」

「そんなものがあるのなら、お前はそこに立っていないだろうさ」

「ですよねー」


 はは、と乾いた少年の笑い声も空しく、部屋の外ではまた一つ星が消えかけようとしていた。

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