箱庭-流星の子守唄-

神連カズサ

序章 双子の太陽

 ピクリ、と眠っていたはずのナギの瞼が緩慢な動作で持ち上げられたのを見て、ヴォルグが小首を傾げた。


「ナギ? どうしたの?」


 そんな怖い顔をして、と続けるはずだった言葉は、声もなく涙を流した彼女の姿を目の当たりにした所為で引っ込んでしまう。


「ちょ、本当にどうしたのさ? 何か嫌な夢でも見たのかい?」

「……連れていかれた」

「何?」

「女神が、ソルを連れていきやがった」


 嫌な汗がヴォルグの背中を流れていく。

 必死で息子の魔力を辿ろうと試みたが、薄い残滓となったそれは、城の中でゆっくりと消えかけていた。


「おかしいと思っていたんだ。もう獣は居ないのに、因達羅がいつまで経っても俺の側を離れる素振りを見せないから」


 子犬のような愛らしい形になってしまった所為で女神の元に帰れなくなったなどと適当なことを言って、ナギと一緒に魔界へやってきた彼の眷属にすっかり毒気を抜かれてしまったのが、仇となった。


「呪いが消えたところで、所詮俺たちは縁の輪からは逃れられない。ましてや最初の子どもが双子だ。赤ん坊の頃は吉凶のどちらに転ぶかとヒヤヒヤしたもんだが、十六になって安心しきった頃にこれかよ」


 ハハハ、と乾いたナギの笑い声が虚しく宙に四散した。


「……門を開いて迎えに行こう」

「無理だな」

「どうして、」

「俺が開く権限を与えられたのは『この世界』の門だけだ。ソルは、ここじゃない『別の世界(どこか)』に連れていかれた」


 ヴォルグの胸元にナギが顔を埋める。

 存外に泣き虫なところがあったが、ここ数年でその涙を見る機会は減った。

 衣服が水分を吸って熱く、重くなるのを感じながら、ナギの背を撫でていると、窓の向こうで月が波間の空を静かに泳いでいくのが目に入る。


「きっと大丈夫さ」

「は?」

「だって、あの子は君と僕の息子だもの」

「お前、適当言ってんじゃねえぞ」

「まさか。そんなことで、君は慰められてくれないだろう?」

「チッ」


 鋭い舌打ちが空気を裂いた後、ヴォルグの胸を鈍い衝撃が襲った。


「ルナになくて、ソルだけが持っているものって何だと思う?」

「……」

「二重属性の魔力だと僕は思うんだけど、どうかな?」


 嫌な男だ、とこういうとき、つくづく実感する。


「十中八九、それだろ。獣に有効なのは『雷』ではなく『焔』だ。実際、雷だけでは、足止めが限界だった。それに、付加価値があるとすれば、お前と同じ馬鹿みたいに多い魔力量も魅力的だったんじゃねえか」

「なるほど」

「お、おい、待て。今のどこに興奮する要素があった!?」


 ニヤリ、と笑った夫の顔には見覚えがあった。この顔をしているときの彼は、朝まで離してくれないときのそれだ。


「む、息子が居なくなったっていうときに、そんな気分になるわけないだろ!」

「えーだめ?」

「だめに決まってる! むしろ、どうしてイケると思ったか教えて頂きたいね!?」


 ぐい、と力強い腕に捕まったかと思えば、今度はヴォルグがナギの胸元に顔を埋めてみせた。


「相手が獣であれば、あの子はきっと帰ってくるよ。魔王と勇者の血を引く稀有な子だもの。簡単に死ぬことは僕が許さない」

「……ヴォルグ」


 己ばかりが動揺していると思っていたが、どうやら違ったらしい。この男はこの男なりに、心配と不安で押し潰されそうになっていたようだ。

 馬鹿な男だな。

 素直に心配だとそう告げればいいものを。

 捻くれたところがあるのはお互いさまだったが、言葉に出さない所為で伝わらないことが多いのは、いつも魔王の方だった。


「お前が大丈夫だと言ったんだろう。なら、しゃんとしろ。俺との約束を守ったときのように、もっと胸を張れ」


 きら、と光ったのは、いつかの別れ際にヴォルグから貰ったネモフィラが形を変えた指輪だった。

 すっかりそこが定位置となった左薬指で輝きを放つそれに、ヴォルグの顔がふにゃりと崩れる。


「君に似て、勇猛な子だ。絶対立派な勇者になるよ」

「その呼び方は止めろといつも言っているだろ」

「君だって、偶に僕のことを『魔王陛下』って呼ぶじゃないか」

「それは、臣下としてだな……」

「臣下じゃなくて、『妃殿下』としての自覚を持ってほしいものだね」


 金色の宝石が落ちてしまうのではないかと思うほど、大きく見開かれる。

 次いで、ゆっくりと弧を描いたその瞳の中に、自分が映っているのを垣間見て、ヴォルグは笑った。


「『俺の』魔王は、他の呼び方をご所望かな?」

「いいや。君に呼ばれる『魔王』が一番しっくりくるよ」

「ふふ、バァカ」


 頭の片隅で、息子のことを思いながら、二人は同時にシーツの海へとその身を沈めた。


「無事に帰ってこい」


 小さく呟いたナギの祈りに、ヴォルグは彼女を抱きしめることでしか心を穏やかにしてやる方法を知らなかった。


「きっと大丈夫」


 自分にも言い聞かせるように、そっとナギの耳に言葉を流しこめば、彼女のまろい頬を雫が滑り落ちていく。


「ああ」


 そっと眦に落とされたキスを享受して、ナギは再び瞼を閉じた。

 脳裏に浮かんだ幼い頃のソルの姿にまた胸が締め付けられる。


(どうか、あの子が無事に戻ってきますように……)


 この世に神が存在するのであれば、どうかこの願いを聞き届けてくれ。

 嫌味ったらしく祈りを捧げたナギの姿を、サラは水晶越しにただジッと見つめることしか出来なかった。

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