二四六九十一

只の葦

二四六九十一

 私の名前は桃源坂 夏美とうげんざか なつみ。探偵を自称する高校生さ。私の住むこの胡桃くるみ町の平和を今日も守っている。近所のおばあさんの買い物の手伝いや迷い猫の捜索、花見の場所取り、部活の助っ人までなんでもござれだ。この町の人々の笑顔を見るのが私の生甲斐だ。

 でも少しだけ欲を言えば、もっと探偵らしい働きをしてみたい!偶然事件現場に遭遇して、第一発見者として警察の捜査に参加したり、事件の真相に迫る私を犯人が消しに来たり、犯人を待ち伏せしている時に背後を取られたと思ったら、理解のある警察官の仲間が差し入れを持ってきてくれるとか体験したい!


 そんな私の思いとは裏腹に、胡桃町は平和だった。春には桜並木が人々の背中を押し、夏の前には紫陽花が梅雨を楽しみにさせる。秋には過ぎ去った暑さを惜しむように、紅葉狩りが流行る。冬は炬燵が家族を繋ぎ合わせ、子供たちはこの時期だけの友人と遊ぶ。私の愛するこの町は、探偵なんて必要としていなかった。

 この事件が起きるまでは……。


 下校中の女子高生を狙った通り魔事件が発生。被害者はすでに二人。普段腰の重い胡桃町警察署も、連続通り魔事件に発展する兆しを感じてか、血眼で捜査を進めているらしい。事件は常に夕方で、場所は決まって三丁目の曲がり角で起こる。被害者たちはいずれも背後から切りつけられている。そしてこの事件の奇妙なところは、誰も犯人の姿を見たことが無いことと、衣服だけが綺麗に袈裟切りにされていることだ。つまり被害にあった女子高生たちは、全員怪我も無く生きている。だが身体的な外傷は見られないものの、心の傷は計り知れない。突然姿の見えない何者かに切りつけられる恐怖によって、自宅から出られなくなった生徒もいる。


 許せない。胡桃町の平和を乱す者は、この高校生探偵、桃源坂 夏美が成敗してやる。

 幸い私も被害者と同じ女子高生だ。私自ら事件現場に赴いて犯人を誘き出す。いわゆる囮捜査だ。必ずその正体を暴いてやる。


 私は普段着ている制服を身に纏い、夕方に三丁目を歩き回る。事件以来、この時間にこの辺りをうろつく人影は居なくなった。だから余計に私が狙われる可能性は高くなる。そして私からも犯人は目立つ。

 曲がり角に差し掛かる度に後ろを振り返り、怪しい人影を探す。私の方がよっぽど不審な行動をしているが、この町の平和の為に理解してもらいたい。

 私だって何の準備も無くここにやって来たわけではない。事前の聞き込みによって、今日この日に犯人が現れる可能性は高いと踏んでいる。

 聞き込みの中で、真っ先に尋ねたのは胡桃町警察署だったが、当たり前に門前払いを食らった。理解ある警察官の仲間が差し入れを持ってきてくれると言う夢は、まだ叶いそうにない。その代わりに、被害者たちに接触を試みた。


 一人目の被害者は、柚子河ゆずかわ女子高校に通う高梨 紗季たかなし さき。冬と春が手を繋ぐ二月二十八日の下校途中に、彼女は背中から切りつけられた。


「通り魔の話?何カ月も前に警察の人に話したけど……」


「胡桃町を愛する者の一人として、そんな悪党をのさばらせている訳にはいかないんだ。どうしても高梨さんの協力が要る。聞かせてくれないだろうか」


 私の熱い思いが伝わったのか、高梨は快活に笑った。


「桃源坂さんだっけ?あんたみたいな熱い人私好きだよ。でもね、あれは単なるかまいたちだと私は思ってるんだよね」


「かまいたち?」


「そうそう、風でスパッと切れちゃうやつ。私いつも友達と一緒に帰ってんだけどさ、米谷って奴。あの日も二人で帰ってて、切られたのは私だけ。私も米谷も犯人に全く気が付かなかったし、普通にかまいたちかなって。警察の人にもそう言ったよ」


 高梨の友人である米谷 亜美よねや あみにも話を聞いたが、答えは同様だった。私の初の事件は、単なる自然現象で終わってしまうのか?いや、危険な通り魔がこの町に存在していないと言うことを、大いに喜ぶべきだ。存在しない悪党を追いかけるのは今すぐやめて、塩野しおののおばちゃんの肉屋に行こう。サクサクの衣に包まれたチーズ入りコロッケを買って、河川沿いの土手から眺める胡桃町の平和を噛みしめよう。

 私がそう単純な人間であれば、通り魔も枕を高くして眠れただろう。


 二人目の被害者は、私と同じ茄子野なすの高校に通う栗原 加奈くりはら かな。事件以来引き籠ってしまった生徒だ。そんな状態の彼女から、当日の詳細について尋ねるのは心苦しい。私は栗原家の前まで行きはしたものの、インターホンを押すことなくその場を後にした。

 栗原が襲われたのは、桜の花びら降る四月三十日。一人で下校しているところを襲われた。制服の背中の部分が突然ぱっくりと切り裂かれ、彼女はパニックになった。背中をむき出しにされている恥ずかしさと、襲い来る恐怖に逃げ惑い、泣きながら家に帰ったと言う。この話は、栗原のクラスメイトであり友人の、酒川 優紀さかがわ ゆうきから聞き出すことができた。


「加奈ちゃん本当に可哀そうなんだよ。今もずっと怯えてるの。特に風が強い日とか、未だにパニック起こすらしいんだよね」


「風?」


「そうそう。襲われた日にね、突然風を感じたんだって」


「つまり、栗原を切り裂いたのはかまいたちの様な自然現象だと思っているわけだね?」


「んー、私も最初はそう思ったんだけど、そんな強い風じゃ無いらしいのよね。なんかこう撫でるような、そんな風。それが余計に不気味に感じたんだって」


 かまいたちとは、つむじ風の様な突風が引き起こす現象だ。肌を撫でるような風で切り裂かれては、今頃町中が血の海になっている。やはりあの三丁目にだけ存在する秘密があるはずだ。

 もう一つ気になるのは事件が起こる日付だ。高梨が襲われたのが二月二十八日、栗原がひと月置いて四月三十日。五月三十一日には事件が発生していない事から、通り魔はひと月置きに出没する可能性が高い。

 故に今日、六月三十日に囮捜査に乗り出したわけだ。


「こんにちは。探偵さん」


 振り返るとそこには一台のパトカーが停車していた。車体には胡桃町警察署の文字。


「梅村さん」


 彼女の名前は梅村 明うめむら あかり。胡桃町警察署で働く女性警官だ。以前町のボランティア活動に参加した時、梅村さんと出会った。地域のパトロールをする中で、私の話を小耳に挟んだらしく、私の探偵業についてあれこれ聞いてきた。


「探偵さんも通り魔に興味があるの?」


「この町の平和を守るのが、私の役目です」


 梅村さんの顔が僅かに強張るのを私は見逃さなかった。


「いいえ。それは私たち警察官の役目よ。あなたが地域の為に貢献していることはよく知っているわ。町の人たちからも愛されてる。でも今回は探偵の出番はないの。大人しく家に帰りなさい」


 小さな子供に接するような優しい声は崩さずに、どこか私を見下すような雰囲気を醸し出している。所詮はごっこ遊びだと思っているのだろう。私の事を「探偵さん」と呼んでくれているのも、心の奥では馬鹿にしているのかも知れない。


「馬鹿にしてるんでしょ?」


 自分が口にしたのかと思った。


「え?」


「良いのよ、馬鹿にしてくれて。私は警察官なのに町の平和を守れなかった。二人も被害者を出してしまった。だからこれ以上誰も傷ついて欲しくないの。私と同じ、町を愛するあなたなら分かってくれるでしょ?だからお願い、今日は帰って」


 私は静かに頷くと、その場を後にした。梅村さんは車内から「気を付けてね」と声を掛けながら、周辺のパトロールの為にパトカーを走らせた。その影を見送りながら、私は足を止める。三丁目の曲がり角。

 梅村さん、ごめんなさい。私が梅村さんの立場だったらきっと同じことを言っただろう。この時間にここを歩く女子生徒を見かけたら、何が何でも帰るように説得する。これ以上誰の涙も流させたくはない。その気持ちはわかる。

 だが私は他の誰でもない、高校生探偵、桃源坂 夏美だ。今日この場を離れるわけにはいかない。


 日が沈んでいく。何も起きないか……。沈む夕日を正面から浴びながら、これから始まる戦いの日々に思いを馳せる。人通りが無くなったせいで狩場を変えたのかも知れない。そうであれば、今日別の場所で事件が起きているかもしれない。なんと卑劣な犯人か。私との直接対決を恐れて、おめおめと逃げ去るとは。だが、姑息な犯人である程戦い甲斐がある。ここは辛抱強く、じわじわと追い詰めてやる。震えて眠れ。


 背中に風が通る。雨上がりのアスファルトの様な湿った風。鼻を突くかび臭さ。心地よさよりも違和感を乗せたその風は、私を振り向かせた。


 やられた。

 私は地面を蹴ってその場から距離を取り周囲を見渡す。街灯が点きはじめた住宅街には、一つの人影も見えない。私はあらかじめ用意していたパーカーを羽織ると、三丁目を駆け抜けた。

 完全に日か沈むまで探しても、何の手掛かりも得られなかった。私の荒い息と心臓の鼓動が鼓膜を揺らす。

 何と不甲斐無い!心のどこかで油断していた。今日はもう何も起こらないなどど考えるのは、今日と言う日が終わるまでしてはならなかった。私が切り裂かれたのは制服だけではない。心の隙間を縫って、探偵としてのプライドも傷つけられた。

 剥き出しの肌から直接汗を吸ったパーカーの感触が気持ち悪かった。


 翌日私は、友人である柿崎 桜子かきざき さくらこを訪ねた。私と同じ、茄子野高校に通う彼女には、私の探偵活動をいつも話している。桜子はその事に驚きつつも、周囲に言いふらしたりもせず、ただ単に私を変人だと思っている。それに意外と協力的だったりする。以前、猫の捜索が難航していた時には彼女の手を借りた。借りる猫の手を探してもらった。


「そう言う訳だから、桜子にも協力してもらいたい」


「ダルすぎでしょ。通り魔と戦うなんて。警察の仕事取んなって」


 桜子は、ペン回しに夢中で私の方を向いてもくれない。さっきっからペンが一回転する前に手から離れ、あらぬ方向に飛んでいっている。


「私たちの胡桃町が、そんな通り魔風情に脅かされていることが我慢ならない!この高校生探偵、桃源坂 夏美の目の黒いうちは、この町の人々から笑顔を奪わせはしない!桜子もそう思うだろ?さあ、共に悪と戦おう!」


 私は桜子に向かって勢いよく手を伸ばし、握手を求める。

 桜子の手を一回転する前に、ペンが飛ばされ床に落ちる。彼女は床からペンを拾い上げるという、今日十二回目の動作を行う。ペンが一回転する前に床に落ちる。それをまた拾い上げる。

 私は桜子の手からペンを奪い取ると、右手の親指の周りをクルクルと巡らせる。人差し指から小指までの間を往復させ、手のひらから手の甲を一回りさせる。この技は以前、元彼に粘着されていたクラスメイトの飯山 多香子いいやま たかこを救った時に、報酬として教えてもらったものだ。その後、逆恨みをした元彼とその仲間たちが報復にやって来たわけだが、それはまた別の話だ。


「え、夏美ペン回し上手くない?」


 桜子は、今日初めて私の方を見た。


「この高校生探偵、桃源坂 夏美にかかればお安い御用さ」


「マジ?ウチにも教えてくんない?」


「勿論いいけど、その代わり……」


「やるやる!マジ手伝うって!だから早く教えてよ」


 まったく、町の平和を守るというのも、一筋縄ではいかないな。


 来る八月三十一日、桜子を連れて三丁目にやってきた。やはり犯人はひと月置きに犯行に及んでいるようだ。念の為七月にも待ち伏せをしたが何も起こらなかった。だから今日を逃せば次は十月。これ以上の好き勝手を許すわけにはいかない。

 桜子には制服のまま三丁目を歩き続けてもらい、私はパーカーにジャージのズボンと言う出で立ちで数メートル後ろを歩く。歩くと言うか、影に隠れながら後をつけている感じだ。これでは私が通り魔に間違われてしまうが、背に腹は代えられない。桜子の背中に切りかかろうとする輩の顔を、必ずやこの目に焼き付け、あわよくば捕らえてやる。


 桜子が歩き続ける。もうこの角も三回目だ。桜子の影がどんどん伸びていく。


「ねえ、夏美、今日はもう出ないんじゃないの?」


「ちょっと桜子!振り返らないで!黙って歩き続けて!」


 桜子はため息をつくと、再び歩き出した。

 彼女の長く伸びた影が、角の傍にある電柱の影と重なる。


 私を嘲笑うかのように、日が完全に沈んだ。


 何故だ。何故今日では無い?高梨は米谷と一緒に居たから人数は関係ない。誰にも気づかれることなく一人の背中を切り裂く。発生はひと月置き。ならば何故今日では無いんだ。やはり私が怪しすぎたのか?だが、誰かに見られている気配は無かった。

 桜子は私を励ましてくれるが、この屈辱を晴らすのは勝利以外にあり得ない。私の探偵としての二度目の敗北だった。


 九月一日から二十九日までの間、私は毎日三丁目を捜索した。アスファルトを砕く雑草、崩れかけの塀、電柱の落書き。どんな些細な証拠も見逃せない。必ず十月でケリを付ける。そうでなければ、もう二度と探偵を名乗ることはできない。私自身がそれを許さない。所詮はごっこ遊びだったのだと、無力な小娘なのだと私自身が認めてしまう。私の生甲斐の全てを失うつもりで挑まなければならない。だからどうかこの高校生探偵、桃源坂 夏美にもう一度だけチャンスをくれ。

 九月三十日。桜子にもう一度同じ作戦をお願いした。歩く桜子の後ろを私がつける。桜子の制服の下には鉄板が入っている。衣服だけを切り裂く器用な犯人ではあるが、そのことを信頼する訳にはいかない。それに犯人が使っている何かの道具と鉄板とが触れ合えば、何かの拍子に姿を捕えるのが難しい場面でもきっかけになるはずだ。決戦となる十月三十一日までに、少しの綻びも許されない。何度だって試行して、作戦の完成度を上げていくつもりだ。

 日が沈み始めた。桜子の伸びた影が、電柱の影と重なる。

 このひと月考えても、何故先月では無かったのかは分からなかった。もう飽きてしまったのか。はたまた味を占めて胡桃町の外へ狩場を広げたのだろうか。そうであっても追跡をやめるつもりは無い。たとえ私がこの町の探偵でなくなったとしても、奴との決着は必ず付ける。この高校生探偵、桃源坂 夏美の目の黒いうちはーー

 

 いる。


 おかしい。どう考えても、直前までそこには誰もいなかった。

 電柱の影にいつの間にか男が立っている。所々穴の開いた菅笠に、道着と袴を身に纏い、腰に刀を差した一人の男。いや、侍がそこにいた。侍が居る所だけ雨が降ったかのように湿っている。何日もそこに居たかのように、カビの生えた道着の臭いがここまで漂うようだ。

 侍は桜子の背中をじっと見つめ、腰に差した刀を静かに抜いた。


「桜子!」


 私は叫ぶと同時に、パーカーのポケットに入れておいたソフトボールを投げつける。これは以前、柚子河女子ソフトボール部に助っ人を頼まれた時に身に着けた投球だ。私の手から放たれたボールは、突き刺すような勢いで侍の顔面目掛けて飛んでいく。ボールは乾いた音を立てて塀に弾かれ、明後日の方向に飛んで行った。

 外した?ここぞという所で私は何をやっているんだ。しっかりしろ桃源坂 夏美。お前の肉体も精神も、今この時の為にある。私の中を流れる力の源泉は最早、目の前に現れた侍に対する闘争心では無く、自分自身に対する怒りに変わっていた。

 私は地面を蹴って体を弾く。


「桜子!後ろだ!」


 私の怒号に桜子は振り向くが、電柱の影に隠れた侍は死角になっている。侍は私の方を見ない。桜子の背中から目を離そうとしない。

 侍が電柱の影から一歩踏み出し、ぐっしょりと濡れた草履で桜子の影を踏む。そして静かに刀を抜いた。鞘から抜かれたそれに輝きは無く、まるで錆を叩いて刀の形にしたかのようだ。刃こぼれしたその刀が振り上げられる。

 上段の構えをした侍と、未だ侍に気付かない桜子の間に私の体を滑り込ませる。桜子の背中に入れておいた鉄板の感触が、今まさに桜子を背に戦っているのだと私に実感させる。

 錆びた刀が降ってくる。私は両手を目線の少し上に構えると、刀を挟み込むように受け止めた。これは以前、塩野のおじちゃんに教えてもらった白刃取りーー

 振り下ろされた刀は私の手をすり抜けた。

 また失敗?いや、明らかに刀を挟み込んでいたのに何の感触も無かった。私の両手も切られてはいない。

 私は体を仰け反らせて、捕らえることのできない刀がパーカーに触れるのを避ける。刀が振り下ろされ、菅笠に隠されていた顔を正面から捉えることができた。その顔は酷くやつれ、青白い。紫色の唇が微かに震え、道着から覗く体には、肋骨が浮き出ていた。

 宣言通り、その顔をこの目に焼き付けてやった。だがここまで来ても、侍は私を見ていなかった。その虚ろな瞳には、桜子の肩から僅かに覗く、焼けるような夕日が反射している。

 空を切った刀が、テープを巻き戻すように再び侍の頭上へと振り上げられる。

 私は右腕を背後に回すと、桜子の腹部を抱え込んだ。こいつの刀は私たちの衣服だけを綺麗に切り裂く。だが私たちは刀に触れることはできない。恐らく侍自身にも触れることができないのだろう。先ほど私が繰り出したソフトボールは、外れたのではなくてすり抜けたのだ。こいつに実体は無い。だとすれば、祖父直伝の合気道も通用しないだろう。桜子を守りながらこの状況を打開するのは難しい。ならば逆に、陸上部で鍛えたこの足で逃げることもできる。


「桜子、今日の夕日は綺麗か?」


「え、別に普通じゃない?」


 そう。何でもない普通の日常こそ、この町の美しさだ。その中にこんな異分子は必要無い。だから今ここで逃げたとしても、それは桜子もこの町も守ることにはならない。私は桜子を抱いた腕に力を込め、彼女の体を浮き上がらせる。

 私が向かうべき所はただ一つ。


「東だ!」


 刀を上段に構えたことでがら空きになっている侍の腹部に向かって体当たりをする。予想通り、侍の体を私たちはすり抜けた。だが、生まれてこの方他人の体をすり抜けた経験など無い。停止しているエスカレーターに乗った時の様な違和感に、桜子を抱えていることも相まって、私たちは地面に倒れこんだ。


「うわっ、何このおっさん。刀持ってんだけど」


「桜子落ち着け。私たちの勝ちだ」


 先ほどとは入れ替わって、侍の影を私たちが踏んでいる。夕日を全身に浴びた侍は、静かに刀を鞘に納める。そして再び電柱の影に隠れることは無く、光の中に消えていった。舞い上がる灰のように、儚く消えていった。


「御免」


 私の耳にはハッキリとその声が聞こえた。


「いったあ。手擦りむいたんだけど」


 桜子が騒ぎ立てる。


「ちょっと何、今のが通り魔?」


 制服を叩きながら立ち上がった桜子は、背中に入れていた鉄板を鬱陶しそうに取り出す。私は痛む体に鞭打って立ち上がる。桜子の下敷きになることに夢中で、受身を取り損なった。桜子が私の服に付いた砂を払ってくれる。その手を掴むと、彼女の瞳を見据える。


「桜子、今回の件はやっぱり君の協力が欠かせないみたいだ」


 桜子は気怠そうにうなじを揉むと、侍が立っていた電柱の辺りを調べ始めた。あの侍は明らかにこの世の理から逸脱している。ならば、その道に精通している人間に頼るのが正しい対応だ。

 桜子の家は代々続く霊媒師の家系で、彼女もその才能を受け継いでいる。彼女自身はそのことを快く思っていないようで、霊媒師の家業について、詳しく聞くことは未だできていない。そんな桜子に依頼をすると言うのは、きっと高くつくのだろう。ペン回しを教えただけでは割に合わないと、後から請求されるに違いない。

 しかし何はともあれ、侍を看破できたのは流石桃源坂 夏美と言ったところか。

 高梨が襲われた二月。栗原が四月。私が六月。そして今回の九月に侍とくれば、共通しているのは「小の月」だ。一年の十二か月の内、ひと月当たりの日数が三十一日ある月を「大の月」、三十日以下を「小の月」と言う。小の月は二月、四月、六月、九月、十一月の五つで、それを覚える時の語呂合わせに「二四六九士(にしむくさむらい)」と言う言葉がある。だから奴はずっと夕日の方を向いていた。


「夏美、これ」


 桜子は、電柱に書かれた小さな落書きを指さしている。落書きと言うか、書店の文房具コーナーにある試し書きの紙に書かれているような、何の意味も無いぐちゃぐちゃの線がそこにある。


「それが侍の正体か?」


「たぶんね」


 桜子は肩にかけたスクールバックから、卒業証書を入れるような真っ黒な筒を取り出した。筒の蓋を静かに外すと、中からは、筒の色とは打って変わって真っ白な布が這い出てくる。日の沈みかかる薄暗いこの時間帯にもかかわらず、その布の白さは輝いて見えた。

 桜子が聞き取れない声で何事かを呟きながら、電柱の落書きを拭う。落書きを跡形も無く消し去った布は、再び筒の中に納められた。


「桜子、今の落書きは呪いの様なものか?」


「呪いってか、嫌がらせみたいなもんでしょ。かなり程度も低いしね」


 一先ず三丁目を後にした私たちは、戦いを終えた自分たちを労うために、塩野のおばちゃんの肉屋に向かった。私はいつものチーズ入りコロッケを買う。桜子は、先ほどの除霊の報酬として私が奢ると言うと、フランクフルト二本にメンチカツまで付けた。そんなんで夕飯はどうするのだろうか。

 もうすっかり暗くなった公園のベンチに腰掛け、コロッケを頬張る。疲れた体に、チーズの優しい味が染みわたる。


「桜子、今回は本当に助かった。いつかの猫捜索の時も言ったが、君は本当に頼りになる」


「急に改まって何、恥ずいんだけど」


「桜子、次は落書きを仕掛けた奴を追わなくては」


 桜子はうんざりしたようにため息をつくと、すっかり平らげてしまったフランクフルトの串で、ペン回しならぬ、串回しを始めた。私が教えた技の中の初歩の初歩しか習得できなかったが、それでもクルクルと指の間を回る串を見て彼女は満足していた。


「女子高生がこんな時間まで外に居て、しかも買い食い?」


 声のする方に視線をやると、公園の中央辺りに人影が見えた。公園の街灯が逆光になって、その人物を影だけの存在にしてしまっている。しかし、子供に接する様な優しい声が、その人が誰なのかを教えてくれる。


「梅村さん」


「早く帰りなさい。でないと補導しちゃうわよ」


「夏美、行こ」


 桜子に手を引かれ、私たちは走り出した。夏の終わりの涼しい風が頬を撫でる。公園から一分ほど走った所で足を止めた。


「ウチ、あの警官苦手なんだよね」


「そうなのか?梅村さんは良い警官だと思うが」


 桜子はうなじを揉みながら心底嫌そうな表情を作っている。


「あいつなんかかび臭いんだよね。いくら男ばっかの警察署でちやほやされるからって、女磨き忘れてんのはダサいね」


そうだろうか。彼女とは何度か顔を合わせて話しているが、不快な体臭を感じたことなど一度も無い。美意識の高い桜子ならではの嗅覚の様なものがあるのだろうか。

 「さっきの話の続きだけど」と、桜子がフランクフルトの串と、メンチカツを包んでいた紙くずをコンビニのゴミ箱に叩き入れる。


「クソダルいけど、こっからは私の領分かな。探偵様から引き継いでやるよ」


「そうはいかない。ここまで来たら最後まで見届けなくては気が済まない。今の私では力不足と言うなら、桜子の弟子にでもつかいっぱしりにでもなる。必ず君の役に立って見せる」


「あんたって本当にもの好きの変人だよな」


 そう言って桜子は笑う。今回の事件の報酬はこれで十分だ。落書きの黒幕を捕えた時の報酬は、是非とも栗原 加奈の笑顔にしたいところだ。

 私たちはそれぞれの家路についた。完全な解決とはならなかったが、通り魔を撃退した私の足取りは軽い。見上げる夜空には無数の星と一つの月。通りの家々からは、夕飯の香りと、家族団らんの声。いつもと変わらぬ胡桃町の美しい夜だ。私は肺一杯に空気を取り込んで吐き出す。


 私は高校生探偵、桃源坂 夏美。この町で困ったことがあったら何でも言ってくれ。

 君の笑顔が、私の生甲斐だ。

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