スカーレット・ロジック

東美桜

第1話 怪我と懐かしさ

「きーりーやぁ! いるー!?」

 マンホールの蓋が吹っ飛ぶように投げ捨てられる金属板。VR空間のような内装のMDCオフィスに、ひどい不協和音が響き渡った。地下室に続く隠し階段の扉を放り投げ、ねじれた黒髪の少女がひょこりと顔を出した。何かで額を切ったらしく、顔の左半分がべっとりと血で汚れている。涙目で周囲を見回す少女に、どうでもよさそうな声が投げかけられた。


「……いや、いないっスけど」

「へ?」

「へ、じゃねーっス」

 言い放ち、軍用コート姿の少女がゲーム機を置いた。呆れたように溜め息を吐き、茶色の瞳で黒髪の娘を見下ろす。褪せた橙色の髪を軽く手で払い、彼女はデスクの椅子から立ち上がった。

「霧矢サンは昨日から泊まり掛けで任務行ってるって、朝礼の時社長が言ってませんでした? ってか社長と専務とウチとアンタ以外出払ってんすよ今は」

「……雛乃ひなの、よく覚えてるねー……」

「アンタの記憶力が悪すぎるだけっス! 朝礼終わってからまだ2時間経ってないっしょ!!」

 脊髄反射で絶叫し、雛乃と呼ばれた少女は乱雑に共用棚の扉を開けた。中から医療キットを引っ張り出しつつ、何を言っても無駄か、と独り言ちる。MDCは社員が少ない分、一人一人が受注する依頼の量が他所の犯罪対策会社より多いのだ。本社で待機できる人員が少なくても仕方ないだろう。医療キットの中身を一通り検分しつつ、雛乃は興味なさげに話を続けた。

「まー……昼頃には戻ると思うっすけどね。ってか紅羽くれはサン、何してたらそんなケガするんすか? まーた拷問器具アイアンメイデンで遊んでたんスか?」

「違うよー! レッドカードくんと遊んでたの!」

「どっちにしろ遊んでたんじゃないっスか!」

 必要な物資を適当に掴み、雛乃は半分怒鳴りながらも振り返った。いそいそと隠し階段から這い出る少女……同僚の白銀しろがね紅羽を睨みつける。彼女のブラウスの袖は裂け、赤黒く滲んでいた。ジャンパースカートの裾から伸びる脚も、ところどころ黒タイツが破れている。若干よろけながらも自分の椅子に座り、彼女は目の端に浮かんだ涙をぬぐう。

「ちがくてー。ほら、ちょっとはレッドカードくんをさ、アレだよ。しつけ直しとこうと思って」

「はぁ……?」

 レッドカード……という単語に、雛乃は軽く首をひねった。最近何をとち狂ったのか、紅羽が自身の召喚獣につけたらしい名前だ。彼女の持つ天賦ギフトにより、無から生み出される『飢えし獣』。ただの特殊能力の産物に愛着湧かせてどうするんだ、と雛乃は盛大に溜め息を吐いた。どうせ言っても無駄だろう。

「飼い犬じゃないんすから……はいはい、手ぇ動かないで。袖まくるっスよー」

「オオカミだって犬じゃん。あ、さんきゅー」

 手こそ動かさないままで大人しくしているが、その両脚は子供のようにぶらぶらと揺れている。黒タイツが擦れて痛むのか、時おり痛そうに目を細めていた。やれやれ、と溜め息を吐きつつ、雛乃は紅羽の腕に容赦なく消毒液をふっかける。

「痛! 痛っ! しみるっ!」

「うるせーっス。霧矢サンが帰るまではこれで勘弁っスよ。で、何で急にしつけなんかしようと思ったんスか……返り討ちにされるのわかってたっしょ? 相手は制御不能の猛獣っスよ?」

「だって仲良くなりたかったんだもん!」

「バカだこいつ」

 ひときわ派手に消毒液をぶちまけ、雛乃は何食わぬ顔で言い放った。紅羽の絶叫は軽くスルーして、病的に白い腕に包帯を巻きつける。

「所詮ただの天賦ギフトじゃないっスか。仲良くなろうっていう発想がまずわからんっス」

「えー!? 折角の天賦ギフトだよ!? しかも激レアな生物召喚だよ!? 仲良くなっといた方が楽しいじゃん!」

「それこそバカの発想っスよ……ネッコ愛でるゲームやってんじゃないんスから」

「それにねー、あたしもあたしなりにいろいろ考えててさぁ」

 他人の話を聞いているんだかいないんだか。肩をすくめ、雛乃は包帯をきつく縛った。もう片方の袖をまくり上げつつ、半目で紅羽を眺める。当の彼女はぼんやりと中空を見上げ、片手を握っては開いてを繰り返していた。その瞳には例によって光がないが、普段よりも暗さが増しているような気がして。


「……こないだの依頼、あるじゃん。あたしたち六人で異世界の人とバトったやつ」

「あー……」

 一週間ほど前、とある筋から舞い込んだ依頼。社内から六名を選抜し、異世界の人間と代理戦争を繰り広げろ――というものだ。雛乃はその日に別の依頼が重なったため、専務と常務と共にアナザーアースにとどまっていたのだが……と、雛乃は軽く思い返す。依頼完遂後は、千草がハンバーガー恐怖症を発症した以外は特に何もなかったはずなのだが……。

「アレがどうしたんすか?」

「やー、アレ終わってすぐの頃は何にもなかったんだけどさ……なんか遊んでるうちに、ちょっと悔しくなっちゃって。あはっ」

「……は?」

 片手の指を動かして遊んでいる紅羽は、パッと見では悩みなど何一つなさそうだ。だが、その声はどこか夕暮れの波の音のようで。光のない目をふっと細め、彼女はどこか自嘲するように笑みを吐き出した。

「この感覚なつかしーけど……好き好んで味わいたくはないなあ」

「皆そーっスよ……」

「美味しくないし」

「文字通り味わってどうすんスか。はいはい逃げんな」

 肩をすくめ、雛乃は改めて消毒液を手に取った。こっそり椅子から腰を浮かせる紅羽の頭を軽くはたき、血まみれの腕に消毒液を振りかける。

「だっ! ……もー、痛いって!」

「はいはい応急処置応急処置。……つか霧矢サン、何でこんな時に限って任務行ってんすか。あいついればさっさと治してゲームに戻れんのに……ったく」

 ぶつくさ言いつつ、雛乃は消毒液の蓋を閉めた。包帯を掴み、右腕にも巻きはじめる。飽きたのか、紅羽は片手を自分のデスクの引き出しに突っこんだ。例のジャーキーを引っ張り出し、一本かじり始める。全く呑気なこって、と雛乃は視線を明後日の方向に逸らした。その茶色の瞳に、オフィスの奥の扉が開くのが映った。


「二人とも、ちょっと大人しくしてて。これから来客があるわ」

「あ、しゃちょー」

「お疲れ様っス」

 金髪のツインテールを揺らし、ゴスロリ姿の少女が自動ドアをくぐる。弱冠15歳にしてMDC社長を務める少女、高天原たかまがはらゆい。軽く頭を下げる雛乃とは対照的に、紅羽は呑気に声を上げた。

「ねー、霧矢いつ帰ってくるの?」

「昼前には帰るから、それまで待ってなさい。それより今日のお客様は裏社会でもかなりの影響力を持つ方だから、くれぐれも失礼のないように。ってか紅羽、その顔面どうしたのよ……とりあえず、いらっしゃる前に血くらいは拭いておきなさい」

「はーい。ってか誰なの、そのお客様って?」

「そういえば、うちのオフィスに来るのは初めてね。もしかしたら話くらいなら聞いてたかもしれないけど」

「……そんな有名な方なんスか?」

「ええ。聞いて驚きなさい」

 マリンブルーの瞳をふっと細め、唯は両腕を広げた。尊い人の名を告げるように、堂々と口を開く。


「――すめらぎ 純姫すみひめ。指定暴力団・皇会すめらぎかいの若頭よ」

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