第2話 立場
「ただいまー」
午後17時30分頃、裕子が余力を使い切るかのようにか細い声で帰ってきたことを知らせた。裕子は、朝から夕方まで近くにあるスーパーのパートとして働いている。今は母の仕事が家族唯一の収入源だ。しかし、数年前は裕子が働かなくてもそれなりに裕福な家庭だった。
父の正敏は以前勤めていた大手企業で出世コースまっしぐら、将来の安定が保証されていたのにも関わらず、その会社が突如、倒産した。
その理由は明かされておらず、「社長が会社のお金を持って逃げた」だの「この会社は犯罪に手を染めていた」だの様々な噂が飛び交い、この町で生きづらくなった正敏は、会社が倒産直後に身を隠してしまい、未だに行方が分からない。
正敏がいなくなってからは、裕子と弟の悠人との3人暮らしの生活が始まった。収入を失ったため、すぐさま裕子は近くのスーパーに電話をしてパートとして働きだした。だが、母一人で稼げるお金なんて限られた額しかなかった。
これから3人で生活していくには康太がバイトをして稼ぐしかなかった。康太の通っていた高校はバイト禁止だったため、先生に見つからないように高校から少し離れた居酒屋で働き始めた。
バイトは初めてで分からないことだらけ。お覚えも悪く、店長にいつも怒られてばっかだった。注文を聞き間違えたり、グラスを足を滑らし割ったり、自分の無能さが身に染みて分かってきた。
日に日にバイトに行くのが辛くなり、ストレスばっかで嫌になっていった。
そして、忘年会が連日行われる年末のある日、15名の団体様が来た。いつも通り、康太はお皿と割り箸を両手いっぱいに持って、座敷の扉を足を器用に使って開けたら、そこにいたのは居酒屋で1番会いたくない人たちだった。
「お前、石川だろ?」
朝、いつも校門前で登校してくる生徒に鐘を鳴らしたような低くこもった声で挨拶する学年主任の先生が鋭い目つきで言ってきた。
朝のチャイムまでに学校に着かず遅刻してきた生徒を捕まえて放課後掃除をさせる先生で、目を付けられたら面倒臭いから、できるだけ関わらないように学校生活を送っていた。
「あ、はい」
終わった…。学校生活の終わりを告げるチャイムが聞こえたように思えた。
「生徒がバイト禁止だっていうのは分かっているよな?」
「明日、お母さんと一緒に学校へ来なさい」
「わ、分かりました」
そこから全くバイトに身が入らない。自分だけ重力が2倍になったぐらい身体が重く、床に突き刺さるのはでないかと思うほどだった。
次の日、康太は裕子と一緒に学校へ向かった。いつも賑いのある教室は冷蔵庫のように冷たく、暗く感じた。
少し待っているとガラガラと歪む引き戸を引きながら学年主任の先生が入ってきた。
そして重たい体を椅子に叩きつけるように座り込み、口を開いた。
「お母さん、本校の生徒はバイト禁止だということを知ってましたか?」
「はい。知っていたのですが、私の稼ぎだけでは家計が厳しくて、そんなときに壮太がバイトをしてくれると言ってくれたので、甘えてしまいました。申し訳ありません」
先生の圧をかけてくる喋り方に、裕子は萎縮しながら、か細い声で答えた。
「そうだったんですね、それは大変ですね。勝手にバイトしていたことは許される事ではありませんが、そのような実情を考慮して、バイトを許可します」
家庭の事情を知った先生は阿修羅のように表情が一変して柔らかい声で答えた。それを聞いて裕子は安堵していた。
「ありがとうございます。ご厚意に感謝します」
大人は幾つもの顔を持っていることをこのとき知った。これを知れたのも自分が大人になっていっている証拠なのかもしれない。
小学生の頃は何一つ悩みもなく、世の中の流れ、周りの大人のことは考えたこともなかった。
毎日が夏休みのようで海外旅行によく行っては思い出の写真を友達に自慢したり、家に呼んでみんなが持っていないゲームをやったりしていた。学校では、みんなに慕われ、クラスの中心的な立ち位置だった。
そんな自分とは正反対な悠人は、根暗でいつも独りぼっちだった。学校からすぐ帰ってきて、勉強するか習い事をしに行くかの毎日を過ごしていた。
そんな悠人を見て、そんなことをする必要がないと思っていた。お金があれば、友達もできるし、楽しいことはなんだってできた。
だが、今になってやっと気づいた。正しい行いをしていたのは間違いなく悠人であり、全く逆の立場になってしまった。
悠人は、高校で学年トップの成績で、特待生として東京大学に全額授業料免除を受けて、入学した。
一方で康太は、大学進学を考えていたが、頭がそこまで良くなかったから、免除などは受けられず、母に進学できるほどのお金はないと大学進学を拒否された。急いで就職に切り替えたものの、面接では落ちまくり、結果今の状況となった。
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