8


 勢いよくカーテンを開け放される音で青桐は目が覚めた。薄暗い部屋の中が一瞬で白い光に満ちる。

 目を刺す眩しさに唸り、顔を顰めてシーツに顔を押し付けた。

「いい加減に起きろ!」

 聞き慣れた声が苛立ちもあらわに怒鳴った。青桐はうるさい、と呟いて体を小さく丸め、ぐしゃぐしゃの布団に潜り込む。

「ちょっ…っ! 潜り込むな!」

「…せえな、帰れ」

 布団を引き剥がされそうになり寝穢く抵抗すると、わざとらしいため息が頭の上に降ってきた。

「ああ、ああ、そうですか。ふーん、ほんと鬱陶しい。来るたびに思うけど、あんた、いい加減にしなさいよね」

 相変わらずべらべらとよく喋る口だと思う。

 皆可憐なその見た目に騙されるが、容姿に似合わず母方の従姉の由生子はせっかちで人の言葉尻を奪うようによく口が回った。

「帰れよ」

「帰るわよ」

 何を分かり切ったことをと呟かれてさらに苛立ちが募る。

 けれど顔を見るのも嫌なのでそのまま貝のようにじっとしていると、軽い足音がドアのほうへと向かって行った。

「テーブルに置いてあるから、後はご勝手に」

 ドアのかすかに開く音に足音が止まった。

「それといい加減掃除すれば」

 じゃあね、と言って勢いよくドアが閉まった。もっと静かに締めれば少しは可愛げもあるのにと青桐は苛立ちのままに思った。



 由生子が言ったように、リビングに行くと、テーブルの上には大判の白い封筒と、食料で膨れ上がったビニール袋に置かれていた。冷凍食品でも入っているのか、ビニールの表面には結露が浮いて、テーブルに小さな水たまりを作っていた。

「くそ…」

 勝手に買って来たのだから勝手に冷凍室に放り込んで帰ればいいものを、わざと毎回こんなふうに放置して帰って行く。自分が帰っても青桐がすぐに起き出さないと分かっているからこそ、これは由生子の嫌がらせ以外何ものでもない。

 濡れたビニール袋を下ろして冷蔵庫の前に行き、横着に袋を引っくり返して中身を全部冷凍室に入れた。空っぽだったそこが見る間に埋まっていく。冷凍餃子に冷凍麺に冷凍ピザ。レンジに入れてボタンを押すだけで食べられるものばかり。由生子は嫌いだが、青桐の好みを──というよりも無精をよく分かっていて、余計に腹が立った。お互い生まれたときからの長い付き合いだ。いい加減縁が切れて欲しいと思うけれど、こればかりはどうしようもない。

 入れ終わって立ち上がる。空になったビニール袋を丸めてゴミ箱に投げ捨てた。ふと、何気なく見た時計はもう昼を指している。

 青桐は深いため息をついて、リビングに置きっぱなしにしてあるスマホを取った。着信が入っている。定期連絡だ。面倒だと思いながらも封筒を手に取り、通話を押した。



「それじゃ、俺はこれで」

「はい。ご苦労様でした」

 見送りを断って部屋を出る。それでも廊下に出て頭を下げている年配の男はこの会社の役員だ。苦い思いを噛み締めながら、努めて普通に青桐も会釈を返して、エレベーターへと向かった。計ったようにエレベーターはすぐにやって来て、開いたそれに青桐は乗り込んだ。

 自然と深いため息が落ちる。

 ビルを出ると外は夕暮れ前の色をしていた。

 茜色の街の中を歩く。外に出るのは二週間ぶりだ。少し前まではあんなに暑かったのに、もう吹く風はどこか冷たかった。

 角を何度も曲がり、大通りから外れていく。大きな公園が見えてくれば、その先には行き慣れた小さな建物があった。古い煉瓦造りのそこは、元は海運業者の持ちもので、積み荷を保管する倉庫として使われていたようだ。側には割と大きな川が流れていて、堤防の下へと下りていく古い石積みの階段が今も残されている。そこは危険だからと、今は立ち入り禁止になっていた。

「あら、こんにちは」

 建物の入り口を入ると、声が掛かった。受付で案内をしている女性が顔を綻ばせていた。

「こんにちは」

「ごゆっくり」

 にこやかに言われて頭を下げた。いつも来ているので、顔は覚えられていた。

 受付ホールを抜け、自動ドアをくぐる。数えきれないくらいの本が目の中に飛び込んでくる。本の匂い。さわさわと静かに動く人の気配。

 ここは区内にある図書館だった。

 一年中空調の効いた独特な空気を吸い込むと、青桐の体から一気に力が抜けていった。いつも、思うよりも緊張している。会社に行った後は、特に。父親の部下は皆、にこやかに青桐に接してくれはするが、それは表向きのことだ。

 今日のあの役員もそうだ。

 きっと──いや、もうどうでもいい。

 深く息を吐いて考えを断ち切ると、青桐は整然と並ぶ書架のほうへ歩いた。歩くたびに視線が物陰へと飛ぶ。面影を探すように揺れるのは、仕方がなかった。

 

 

 朔が青桐の前からいなくなって六年が経った。

 あのときすぐに追いかけていけなかったことを後悔しない日はない。

 朔に説明をしなければならなかった。けれど掛けた電話は何度鳴らしても繋がらなかった。メッセージもメールも、あらゆるものを送ったが、そのどれにも返事は来なかった。何度か訪れたことのある朔の自宅マンションは、まるで人の気配がなかった。

 完全な拒絶に焦燥は募ったが、打つ手はなかった。

 連絡も取れず、自宅に行っても会えず、予備校にも朔は姿を見せなかった。そうこうしているうちに夏休みは終わってしまい、ようやく会えると思って行った学校に、朔はもういなかった。

 彼は夏休みの間に学校をやめていた。問い詰めた朔の担任の話に寄れば、家族の事情ということだった。

 家族の事情?

『ああ…、おまえは仲が良かったよな。あのな、もうあれだから言うけど、実はな』

 そこではじめて、朔が春からひとりであのマンションに暮らしていたことを知った。

『そんな…、なんで』

 聞いてない。

 そんなこと知らなかった。

 何も聞かされていなかった自分にショックだった。

『おれも急なことで驚いたよ』

 朔はきちんとこの高校を卒業する気だったのにと担任は残念がっていた。

 どうしたんだろうなあ、とぼやく担任に、自分のせいだと思った。俺のせいだ。

 俺が──、──俺の。

『どこに──、どこに行った、かは…』

『悪いな』

 担任は困った顔をするだけで、何度聞いても教えてはくれなかった。

 それからの日々をどうやって過ごしてきただろう。何もかもがどうでもよくて、すべてを放り投げるように生きていた。気がつけば青桐は二十四歳になっていた。今何をしているかと問われても、一体何をしているのか自分でもわからない。唯一自分を世間と繋げているものは、六年の間に思わぬ形でなってしまった小説家という肩書と、父親の会社の名ばかりの役員と言う押し付けられた仕事だった。



 閉館時間までいて、外に出るともう夜の暗さになっていた。

 夜は、いつのまにかやって来て、青桐を不安にさせる。辛くて苦しい夢を望んでもいないのに見せてくれる。

 どうせなら幸せな夢がいい。朔にもう一度会えるなら、なんだっていい。なんだってする。夢でもいいから、笑っている朔に会いたかった。

 この六年間、ずっと、ずっとそれだけを願っている。

 まだ叶わないけれど。

 堤防の上から暗い川面を見下ろしていた青桐はふい、と踵を返した。寄って帰るところはもうひとつ。今はもう覚えてしまった道を、間に合うように足早に歩いた。

 やがて見えてきた明かりにほっとすると、青桐はその店に入り、いつも買うものだけを買って、帰宅した。


 

 そうしてまた、夢にうなされて真夜中に目を覚まし、ぐずぐずと眠れない夜を過ごした。


***


 あまりいい顔じゃねえな、と青桐は前に座る男の顔を見て、コーヒーを啜った。

 人の顔色を昔から窺うのが得意だ。どんなやつも口に出さない気持ちを、無意識にその表情の中に表している。

 青桐の原稿を読む目の前の担当の顔は、少し期待外れだという顔をしていた。

 まあ、そうだろうな。

「…うーん、…そうですねえ」

 担当は言いにくそうに言葉を濁した。ページを繰る手は途中で止まっている。その先を言わない彼に目を上げて促すと、青桐の迫力に気圧されたように、少しばかり気弱なところのある担当の彼は、ええと、と困ったように前置きした。

「いいから、早く言えよ」

「えーと、その、…これじゃあ、話の流れが詰まるっていうか、行き詰まるっていうか…」

「……」

「ええと、…?」

 はああ、と青桐がため息をつくと、びく、と大袈裟なくらいに彼は肩を震わせた。

「分かってるよ、そんなこと」

 いい加減慣れろと思いながら、青桐はテーブルに乗り出していた体を、椅子の背に投げ出した。

「そ、そうですか…、で──ですよねえ」

 乾いた笑いを零す担当にちらりと目を向けた。手を差し出すとまだ残りページがいくらかあるにもかかわらず、彼は青桐の手にそれを返してくる。気が弱く思うこともあまり上手く言えない彼だが、根は素直だ。お世辞を言ったり、上手く丸め込もうとしたり、そういう打算のなさが青桐は好ましいと思っていた。彼のほうはどうだか知らないが。

「すみません、おかわりを」

 通りかかった店員を呼び止めてコーヒーのおかわりを催促した。かしこまりましたと去っていく店員は、青桐を盗み見るようにするのに、決して目を合わさなかった。

 その反応には慣れているので、青桐は気にもせず窓の外に目を向けた。小雨が降っている。

 朝からずっと、外は霧のような雨が続いていた。

「先生は…」

「その先生ってのやめろ」

「あー…、青木さんは」

「青桐」

 ペンネームで呼ぼうとした担当を窓の外に目を向けたまま、青桐は遮った。こほ、と小さく咳をして、彼は言い直した。

「青桐さんは、…この話をどうしたいんですか?」

「どうって?」

「どういうふうに着地させたいのかと…つまり、その、過程がどうなるのか」

「…」

 書いては書き直し書いては書き直しを、もう五度も繰り返している。もっとだったかもしれない。覚えきれていないほど手を加え続けているのにちっとも形になる気がしなかった。

 話の結末は見えている。でもそこに辿り着くために、どう描けばいいのか。

 さあな、と青桐は言った。

「…どうしたいんだろうな」

 自分でもよく分からないのだ。

 おかわりのコーヒーがやって来た。テーブルの上に置かれたカップ。そのそばにはもうただの紙くずになってしまった原稿の束。最近はデータでのやり取りが多いと聞くが、青桐はこうして自分の書いた文章を一度紙に起こして、それを読んでもらうのが常になっていた。自宅に人を入れるのも嫌なので、打ち合わせのときはいつもこうして適当な店を選んで指定していた。

 ぽつりと呟くと、テーブルを挟んだ向かいの担当が顔を上げるのが分かった。じっと横顔を見つめている。やけに長く頬に視線を感じて、青桐はほんの少し居心地が悪くなった。

「もう一回書くよ」

 ため息まじりにそう言ってようやく顔を向けると、自分よりも5つは歳が上な彼は、滲むような微笑みを青桐に返した。一瞬、その面影が探し求めている人と重なって、小さく鼓動が乱れた。

「はい。楽しみにしてます」

 違う。

 似ても似つかないのに。

 朔は、こんなんじゃない。

「ところで青桐さん」

 新しく来たカップを持ち上げたところで、担当は言った。少し弾んだ声に視線を上げると、彼は嬉しそうだった。

「この間のお話なんですが」

「この間?」

 コーヒーをひと口含んで考える。

 この間、なんだっただろう?

「ほら、せ…青桐さんのデビュー作の朗読会──」

「──ああ」

 あれか、と青桐は思い出した。

 どこかの書店だったか何かの企業だったかが主催する小規模な朗読会で作品を使わせてもらえないかと打診があったのは、先月のことだっただろうか。詳細は家のどこかにあったはずだ。すっかり忘れていた。

「それが?」

 青桐が問うと、にこりと担当は笑った。

「まだお時間ありますよね。このあとちょっと、──付き合ってもらえますか?」



 青桐の書いたものが世間に認められたのは、20歳のことだ。たまたま書店で目に付いた、あまり名の知れていない出版社の文学賞に応募して、それが受賞した。受賞作はその後少し手を加えた形でデビュー作として出版された。部数も少なく特に話題にもならなかったが、一部のコアなファン層に受けていた。ネットなどでそこそこ話題に上っていたためか、発売から半年ほど経って、それがある雑誌の書評欄に載った。全国的に有名なその雑誌のおかげか、それから一気に青桐の知名度は上がり、今では小説家と名乗り、食べていけるまでになっていた。

 年に一冊のペースで本を出している。

「あ、ここ、ここですね」

 担当に連れて行かれたそこは、外観は古いのに中は真新しい、住宅街の中にある書店だった。その書店の一階の一部は、小さな別店舗になっていた。

「元々工場だったみたいです。鋳造工場。それを中だけ綺麗にして、最近流行ってますよね。リノベーションでしたっけ」

「ああ…、うん」

 ぼんやりと傘を差したまま、青桐は大きな建物を見上げた。三角屋根の乗った大きな四角いコンクリート。そういえば、よく行く図書館も昔の建物を改造したものだ。

 屋根の横から大きな煙突が突き出ていた。

「ここで──朗読会?」

 こんなところで?

「はい」

 今どき珍しい、重いガラスの両開きの扉に担当は手を掛けた。

「さ、行きましょう」

 畳んだ傘を入口の傘入れに立てた。

 足を踏み入れると、そこは板敷だった。

 ぎし、と足下が軋む。挨拶をしてきます、と言った担当がフロアの奥に行った。そこにいた店員に声を掛けている姿を眺めながら、青桐は店内をぐるりと見渡した。柔らかい光が、つり下げられている数多くの電球から広がっている。

 青桐はそれを追って上を見上げた。

 天井が驚くほど高い。三階分はありそうだ。

「…たっか」

 思わず呟きが漏れた。

 上を向いたまま、すう、と息を吸い込んだ。満ちている本の匂い。その匂いは、青桐を思い出の中に引き込もうとする。彼がいた、あの図書館の匂い。

 苦くて甘い記憶。

「お待たせしました」

 担当が慌てたように戻ってきた。

「よかった、今ちょうど、朗読をされる方がいらしてるみたいですよ」

「へえ」

 渡された詳細はろくに目も通さず放り出したままだ。朗読をする人というのがどういった職業の人なのか、青桐はまるで知らない。

「今回は、代役の方なんです。予定されていた方が急遽出られなくなってしまって」

「ふうん…、どんな人?」

 奥の従業員用のドアに導かれながら、青桐は興味本位で訊いた。

「普段は会社員をされてますが、司書の資格を持った方で」

 司書、という言葉に、何気なく青桐は担当を凝視した。

「もったいないですよね。そんな資格お持ちなのに。あ、どうも」

 担当がドアを開けるよりも早く、内側からドアが開いた。

 五十代ほどのふくよかな男性が、青桐たちに頭を下げた。彼がここの責任者のようだ。

「どうも、わざわざおいで下さるなんて。さ、どうぞ中に。今ちょうど打ち合わせをしていまして」

「はい」

 招かれて担当を先に入れ、青桐は面倒だと思いながらもその後に続いた。中は広く、他にもひとり、壁際に女性が立っていた。会釈をされ、青桐はそれを返した。

「はじめまして、白土しらとブックスの小林です。あの、こちらが青木あおきゆう先生です。先生?」

 担当が青桐を振り返る。背格好が同じなのか、担当に隠れてよく見えないが、スーツの肩が見えた。

「どう、も…、…っ」

 紹介の声に合わせ、青桐は自らも名乗ろうとして、出来なかった。

「──」

 動けない。

 息が出来ない。

 青桐の隣で担当の小林が頭を下げた。

「よろしくお願いします」

 全身が心臓になったように脈打った。

 どくん、どくん、と足が震えた。

 どうして。

 どうして。

「さ…」

「…はじめまして、藤本朔です。こちらこそ、よろしくお願いします」

 食い入るように見つめた視線の先で、ふたりの前に立ったスーツ姿の彼が、そう名乗った。

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