7
エレベーターを降りて正面の自動ドアをくぐると、もうすっかり暗くなっていた。春も終わり、早い夏の訪れを思わせる少し温い風が朔の髪を揺らした。
先に出た細川が、少し離れた暗がりの中に立っていた。
朔が目を向けると、相変わらずじっと見つめてくる。
「私の言ったこと信じる?」
朔は何と答えるべきか迷った。
エレベーターの中で細川に言われたことは正直戸惑いのほうが大きかった。
信じるとか信じないとか、それ以前に。
「なんで、…どうして俺に?」
「藤本くんがかわいそうだから」
細川はそう訊かれるのが分かっていたかのように早口に答えた。
「とにかく、教えたからね」
もう用はないと言わんばかりに、細川は背を向けた。歩き出したその背に朔は声を掛けた。
「細川さんは青桐が好きじゃなかったの?」
細川の足が止まった。
頭が揺れ、わずかに横を向く。でも振り返らない。
「…前はね」
細川はぽつりと言った。
「でも、私もう彼氏いるし。大体あんな人だと思わなかった。サイテーだよ」
藤本くん、と続ける。今度はしっかりと朔を振り向いていた。
「早く離れたほうがいいよ」
再び歩き出した細川が、外灯の光る夜道をまっすぐに歩いて行く。
早く離れたほうがいい。
青桐くんは玩具にしてる──藤本くんを。賭けているんだよ、高瀬さんと。
これは遊びなの。
どうすれば自分を好きにさせられるかを。どこまで許されるかを。
だから離れたほうがいいよ。
捨てられるまえに。
それが細川がエレベーターの中で朔に言ったすべてだった。
「……」
朔は細川が歩いて行ったのとは反対のほうに歩き出した。
彼女の声がずっと頭の中で回っている。
家までどうやって帰り着いたかあまりよく覚えていない。玄関の鍵を開けたところで、ああ家だと、気がついた。
帰って来たんだ。
ドアがやけに重い。
「…ただいま」
暗く静まり返った家。
外は暖かいのに母親のいなくなったひとりの家は冷たくて、こんなことにはもう慣れているはずなのに、言いようのない寂しさが込み上げた。玄関の中に入るなり、朔はひどい疲れを覚えてその場にしゃがみ込んでしまった。
制服の上着に入れたスマホが震えている。
青桐からだとすぐに分かった。
細川の言葉が頭から離れなくなった。
思い当たることがないと、言い切れないこともあるからだ。
「朔?」
顔を覗き込まれて、はっと朔は顔を上げた。
ずっとそこにいたのに、ようやく焦点があったみたいに目の前の青桐がはっきりと見えた。心配そうに眉を寄せている。
「どうしたの? どっか具合悪い?」
「う、ん…大丈夫。ちょっと、ぼおっとしてた」
「疲れてる?」
「んー…そうでもないよ」
大丈夫、ともう一度言って笑うと、青桐は眉を寄せたままじっと朔を見つめた。テーブルの上、青桐の前に置かれたランチのプレートは端に寄せられた野菜を除けば綺麗に空になっていて、朔のほうはほとんど手付かずで残っている。
今日は日曜日で、青桐から誘われて街に出ていた。このあとはまた予定もなく、ぶらぶらと歩くだけの一日。
そうだった。
楽しみにしていたのに。
凝視し続ける青桐に朔は苦笑した。
「ほんとに。そんな心配しなくても」
「するに決まってるだろ」
青桐は怒ったように朔の言葉を遮った。そして自分の皿からフォークを取り、朔の皿の中のハンバーグに突き刺した。ひとくちふたくち食べただけのそれを手早くふたつに分けて、片方を自分の皿に入れぱくりと口に入れた。
「あ、それっ」
そっち、食べかけなのに──
「ん?」
止める間もなくあっという間に食べてしまった青桐を、朔は複雑な気持ちで見つめた。
朔が口をつけたものを青桐は何の躊躇もなく口にする。
今までもよくあることだった。
いつものことだ。
いまさらなのに。なのに…
細川に言われたからか、ひどく気持ちがざわめいてしまう。
「朔、それだけでいいから食べて」
朔の皿を青桐が目で示した。
「…うん」
「食べないと元気出ないよ」
皿の中のハンバーグは、ひとくち分ほどしかない。
フォークに刺して口に入れた。
じわりと感じた美味しさに、自分が思うよりもずっと体のほうは食べ物を欲していたことに気がついた。そういえば、おとついからあまり食欲が湧かず、ほとんど食べていなかった。
朔は青桐の皿を見た。
「…そっち」
「ん?」
「その青桐の残したの、食べていい?」
皿の端に残された青桐の嫌いなもの。付け合わせだったレタス、キュウリ、人参、色とりどりの野菜が綺麗に選り分けられて盛られている。
青桐は目を丸くした。
「は? こんなの食べんの?」
「うん。食べたい」
自分の皿を差し出すと、青桐は戸惑いながらもそれを丁寧に移してくれた。フォークを手に取った。朔が食べるのをじっと青桐が見つめる。
「まずくない?」
「美味しいよ」
どれも新鮮でみずみずしくて、とても美味しかった。フォークで口に運び、ゆっくりと噛み締める。全部全部、青桐の嫌いなものだ。
こんなに美味しいのに。
嫌われている。
「…え、…朔…?」
気がつけば、視界は水の中のようにゆらゆらと揺らめいていて、どうしたんだろうと朔は思う。
「さく、さくっ、どうした?」
「…え?」
顔を上げた拍子に揺らめいていたものが零れ落ちた。
頬が温かく濡れて、それが涙だと分かった。
朔は泣いていた。
ガタッ、と青桐が焦ったように椅子を引いた。
「やっぱり具合悪いんだろ、そんなの食べなくていいから、もう出よう」
「大丈夫」
腰を浮かせ、腕を取って立ち上がらせようとする青桐に、朔はゆっくりと首を振った。
「だいじょうぶ、どこも痛くない」
「朔」
「ちょっと…、気が抜けたのかも。週三日はきついのかな」
冗談みたいに誤魔化して微笑むと、青桐はまた椅子に座った。朔は食べることを再開した。涙は止まらずに、ぽたぽたと落ちていく。
傍から見れば滑稽だろうな、と思った。
きっと笑われているだろう。
周りの話し声が耳に付く。
でも止まらなくて、朔はただ皿の中だけを見つめてひたすら手を動かした。
向かいにいた青桐が椅子を動かし、そっと寄り添うように横に来た。頬杖をつくふりをして体を傾け、周りから庇うように朔の顔を自分の体で隠したことに朔は気づけない。
「…美味い?」
「うん。ごめん」
「なにが?」
顎に溜まった涙を拭われる。覗き込む目はただひたすら朔を心配していて、優しかった。
これが全部、演技なんだろうか。
みんなみんなそうなんだろうか。
嘘だった?
細川の言ったことを朔は信じていない。
でも、もしも。
もしも──そうだったら?
たった一度植え付けられた疑念は朔の中に根を下ろし、摘み取っても摘み取っても、あとからあとから芽を出していく。
そうではないと断言できないことも確かにあるからだ。
例えば、青桐はなぜ朔に突然話しかけてきたのか。
なぜいつも朔の問いに答えをくれないのか。
なぜ──
疑い出せばきりがない。
もしも本当に今までのことすべて、細川の言った通り青桐の遊びだったなら。
朔はある日突然突き放される。
最初に話しかけてきたあのときのように、何の前触れもなく。
きっと、冷たい目で見られ、避けられて。
「朔?」
「──」
ぎしっと、心が軋んだ。
嫌だ。
嫌だ。こんなに、こんなにもう──
最後の欠片をフォークで掬ったまま、じっと動けずにいると、そっと手を掴まれた。
「朔、もう出よう?」
ぎこちなく首を動かすと青桐の顔がすぐそばにあった。
「もう帰ろう? 送るから」
朔は首を振った。
まだ帰りたくない。
「じゃあ、他のところ行く?」
「ん…」
頷いてじっと見つめていると、青桐は泣きだしそうな顔で微笑んだ。
途方に暮れたような目に、ごめんと朔は思った。
そんな顔は青桐には似合わないな。
「どこ行こうか。映画とか?」
「…うん」
青桐と一緒にいたい。
離れたくない。
ずっとこんなふうに過ごしていたい。
青桐、と朔は呼んだ。
「なに?」
「この間の、卒業したら一緒にって、…あれ、本当?」
「ほんとだよ」
息が苦しくなる。傍にいると嬉しいのに胸が痛い。一挙手一投足が、その言葉のひとつに意味を求めてしまう。この感情を何と呼ぶのか、朔はもう知っていた。
「俺も、そうしたいな」
あのときは驚きばかりで返事をしなかった。
青桐が目を瞠った。
「…ほんと?」
「うん」
青桐を信じている。
これからも信じていたい。
だからこそ確かめなければ、と朔は思った。
嘘ではないことを確信したい。
怖い。でもそうしなければいつまでもこの濁った渦のような疑いの中から抜け出せない。
けれどどうやって?
青桐の手がそっと壊れ物を扱うように、朔の指からフォークを抜き取った。食べられなかった最後のひとつが皿の上に取り残される。
肩を抱かれるようにして立ちあがり、店を出た。青桐はずっと、朔の手を強く握ったまま離さなかった。
***
感情が揺さぶられていたのはほんの少しの間だけで、朔は次第に落ち着きを取り戻していた。
細川の話の真偽をどうやって確かめればいいのか、考えつかないままに時間だけが過ぎた。
これがゲームなら、終わりはどこにあるのだろう。
終わるときの覚悟を朔は心のどこかでつけておかなければと思っていた。
「ああもう、あっついねえ、藤本お」
「今日今年最高気温だって」
「ちょっとやめてやめて言わないでーっ」
手近にあったプリントの束でぱたぱたと扇ぎ、安西はうんざりした顔をした。空調は効いているはずなのに、急激な気温の上昇のためか、校舎内はどこか熱がこもったように暑かった。
「明日っから夏休みだってのに、なんで私らはこき使われてんのかねー」
空き教室に押し込まれている図書館の蔵書の修理をするのも図書委員の仕事の内だったが、今日は終業式を終えたあとでの作業と言うこともあってか、作業に出て来たのはたった4人だった。委員長である安西は当然として、あとはよく事情を知らずに来た一年生がふたりと朔だけという有り様だ。その一年も作業が1時間を過ぎたところで用があると言って帰ってしまった。
結局はいつもの顔ぶれだ。
「おーやってるやってる」
暑いからと開け放していた扉から顔を覗かせたのは久しぶりに見る前村だった。
「前村くん」
「藤本、久しぶり」
「前村! 手伝え!」
「いーやこっちも忙しいの」
あ、と朔は思い当たった。
「進路相談?」
「そそ、今進路指導室開放中。二年の連中が結構来てるんだわ。三年のも並行してて渋滞だよ。図書委員は相変わらずだねえ」
「何だよ、冷やかしかあ? 帰れ帰れ」
しっしっ、と手で追い払う安西に、前村はにやっと笑った。
「俺ら今から休憩なの。なんか買いに行くけどおまえらも行かね? 購買まだやってんぞ」
「行くっ!」
がたた、と椅子を蹴るように安西が立ち上がった。
「ほらっ藤本も行くよ!」
「はいはい、分かっ…、──あ」
立ち上がりかけた朔は、あ、と思い出した。
鞄を青桐に預けたままだ。財布を取り出すのを忘れていた。
「ごめん、財布取って来るから、先行ってて」
「えーどこ置いたの」
「青桐に鞄預けてて。今日進路指導で残ってるから」
終わったら合流して、いつものように一緒に帰る約束だった。遅くなるからと言ったのだが、鞄を持って待っていると青桐が譲らなかったのだ。仕方なく朔は預けたが、あれは先に帰られたりしないようにという青桐の予防線だったのか。
青桐は最近、以前にもまして朔から離れなくなっていた。
はああ、と安西が呆れた。
「あいつ相変わらずだねえ、キモ」
「安西さん…」
「あーそういや高瀬もそうだっけ」
安西が思い出したように言う。彼女は男女問わず苗字を呼び捨てで呼んだ。友人の高瀬も例外ではない。前村が頷いた。
「あーいたいた。青桐くん、高瀬さんの次だったからなあ、そろそろ終わってるか? 多分今日最後だろ」
「なにそれ、親戚で前後とかウケるね」
「仲良さげじゃん」
「どうだかねえ」
他愛のない会話をしながら所蔵室と化した空き教室を出た。あとで購買で落ち合う約束をして、朔は進路指導室がある方へと階段を下りた。
廊下の先から声がしていた。
誰かと誰かが話している。ふたり分の声だ。
進路指導室の隣の教室の扉が半分ほど空いていた。そこは相談室の向かいで、順番待ちの生徒のための待合室だ。声以外には誰の姿もない。前村が今は休憩だと言っていたから、委員も指導を受けに来た生徒も皆、どこかに行ってしまったのだろう。手前の廊下の壁に添って並べられたパイプ椅子の上には、何人かの鞄が置かれたままだ。
あ、と朔はその中に自分の鞄を見つけた。持ち手に傷があるのですぐに分かる。青桐のものと一緒に置かれていた。
青桐はどこだろう?
もう終わったのか、鞄がここにあるなら、まだ中にいるのかもしれない。あいにくと指導室のドアは閉まっていて、確かめることは出来そうにない。
まあ、いいか。
とりあえず財布だけ持って行こうと、朔は自分の鞄を手に取った。
「それでどうなったのかなあ?」
はっきり聞こえた声に朔は顔を上げた。
教室の中から。
声の主は高瀬だった。そしてもうひとりは、──
「なんだよ? どうなったって」
青桐だ。開いた扉の死角にいるのか、廊下からはふたりの姿は見えなかった。
「由也はちゃんと言ってもらえたのかな、と思って?」
「…うるせえ」
楽しそうな高瀬の声とは対照的な、不機嫌な青桐の声。
「だってそれが条件だよ? 向こうから好きって言ってもらえなきゃ。あんたを好きになってもらうっていうルールだもん」
ルール。
『これは遊びなの──あのふたりの』
朔は息を飲んだ。
細川の言葉がこだまする。
遊びのルール。
「それでー、藤本くんからちゃんと言われた? 好きだって」
「──」
青桐は答えない。
あはは、と高瀬が笑った。
「なんだあ、まだ言われてないの? おかしいなあ、もうとっくに言われてると思ってた」
「なんでそう思うんだよ」
朔と話しているときよりも低く強張った声が、まるで別人のようだ。
「だって、藤本くん言ってたよ? あんたといるの楽しいって。よかったねえ」
「いつ聞いたんだよそれ」
「さー? 結構前? クラス一緒だから仲良しだもん」
どくどくと朔の耳の奥で拍動が大きくなる。
楽しそうな高瀬。
普段の彼女も同じようにいつも笑っている。
にこにこして、明るくて。
そのいつもと変わらぬ声で、今は自分のことを笑っている。
(──)
心臓が引き絞られた。
「朔は──」
青桐の声に、朔は立ち尽くしたままぎゅっと目を瞑った。耳を塞ぎたい。でもそれを堪えた。
聞かないと駄目だ。
今聞かなければ。
ずっと確かめたかったことだろう。
こんなことは、きっともうない。
朔はゆっくりと扉のほうに近づいた。
「あのさあ、早くしないと時間切れだよー」
「それはおまえが勝手に」
「いいのかなあ? おまえとか言っちゃって。私、ちゃんと名前あるんだよねえ、あんたとおんなじ漢字入ってて、すごくムカつくけど、名前忘れた?」
「由生子、あのなあ」
「それなりの好条件でしょ? あんたの目的のためだもんね」
「俺は」
「そのために藤本くん選んだんでしょ。あの子おとなしいし、そっちの素質ありそうだし、あんたの見る目があって良かっ──」
「──朔」
青桐の目が開いた扉の前に立つ朔を捉えた。
大きく見開かれた瞳。
アーモンドの美しい目。
どうしてと唇が動いていた。
凍りついた空気を、最初に破ったのは朔だった。
「どういうこと?」
「藤本くん、今の──」
視界の端で高瀬が朔を呼び止めた。何かを言おうとした彼女を、朔は冷めた視線を投げてやめさせた。
答えて欲しいのは彼女じゃない。青桐だ。
青桐に答えて欲しかった。
ゆっくりと青桐の前まで行き、朔はその顔を正面から見た。
「全部、嘘だったのか?」
自分でも驚くほど朔の気持ちは凪いでいた。
「朔、これは…」
青桐が朔に手を伸ばした。
肩を掴まれた。朔は振り解いたりせずに青桐の好きにさせた。
「ゲームだった?」
「違う」
「違う?」
例えば、答えをいつもくれないこと。
思い返せば腑に落ちた。
答えを言わなかったのは──青桐がそのひとことをいつも言わなかったのは、高瀬との条件のためだ。
朔に──朔のほうから、好きだと言わせること。
それがゲームの終わり。
たった、それだけのために。
青桐は。
ぐらりと目の前が揺れた。胸の奥が焼け爛れる音がする。
「だって、今そう言ってたじゃないか。それが目的だったって、それで俺に声を掛けてきて」
「違う、話聞いて、これはっ」
「これは? なに? 今聞いたことが全部だろ」
「朔っ」
「藤本くん、あのね、それは本当だけど、私が」
「──おまえは黙ってろよ!」
顔色を変えて青桐が高瀬に怒鳴った。
「いいから出てけよ!」
「だって…!」
どん、と朔は青桐を突き飛ばした。よろめいた青桐が手を離した。
「…さく」
「本当なんだ…?」
青桐が目を見開いた。
ちがう、と緩く首を振る。
違う?
何が違う?
やるせなさが込み上げた。
「聞いて、お願い、話」
「…だ」
嫌だ。
「俺は、俺…っ、俺は、朔のこと、…」
青桐が言葉を飲み込んだ。
俺は?
こんな場面になってさえ、青桐はその言葉を口にしない。
こんなときでも答えをくれないのか。
どうして──どうして。
たったひとことじゃないか。
乾いた笑いが漏れた。
感情の読み取れない目を青桐は向けてくる。血の気の引いた真っ白な顔は、後ろめたさからなのか。
朔は後退った。
「もう分かったよ」
「さ…、待って、朔」
「…」
「聞いて、頼むから…!」
「聞きたくない」
もしも、もしもあのとき細川が言ったことが本当だったなら、どうするのだろうと何度も考えた。
青桐を許せるだろうか。
自問自答して、きっと許せるだろうと思っていた。覚悟は決めていたはずだった。けれど、現実になった今、胸の底から湧き上がってくる感情は思っていたものとはまるで違っていた。
きつく手のひらを握り込み、朔は込み上げる感情を必死で押しとどめた。
それでも、悲しみは溢れ出してきて。
「朔、俺の話を」
「嫌だ」
悲しみが溢れてしまう。
早くここから離れないと。
溺れてしまう。
「朔っ、待っ…」
息が出来ない。
追い縋って来る手を朔は堪らずに叩き落としていた。
「ぃ、や…だって、言ってるだろ!」
青桐を思い切り睨みつけた。
「これ以上嫌いになりたくない」
そう言うと、朔は教室を飛び出した。廊下にあった鞄を取る。重なるようにあった青桐の鞄が廊下に落ちたが構わなかった。走り出した途端、高瀬が藤本くん、と呼んだ気がした。
「あっ、藤本お、探したよー。どーし…」
廊下の先に安西がいた。遅いから探しに来たのだと分かった。
朔は声を出せなかった。
安西が朔を見て息を呑んだ。
「泣いてんの?」
朔はその横を走り抜けた。
気がつけば誰もいない場所にいた。
溢れてくる涙がぽたぽたと落ちる。
知らない教室の中で朔は蹲っていた。
青桐は追いかけて来なかった。
それが答えだと思った。
ゲームは終わったのだ。
もう終わりだ。
優しかった時間も何もかもが嘘だった。こんなに好きになってしまって、もうどうしたらいいのかわからなかった。
でも、今なら言える。
思うのだ。
あのとき、もっと冷静に、もっとちゃんと話を聞くべきだったと。
後悔は役に立たない。
あんなふうに別れるべきじゃなかった。
あんな言い方をするべきじゃなかった。
嫌いだなんて言わなければよかった。
押し寄せる悲しみにばかり気を取られていた。
あのときの青桐の顔を、朔は今も忘れることが出来ないでいる。
***
闇の中で青桐は目を覚ました。
「───、ッ、さくっ…!」
自分の叫び声にびくりと体が震えた。
伸ばした手は宙を掻いた。
どろりと重く、のしかかるような夜の向こうに朔の姿が消えていく。
──駄目だ。
行かないで。
行かないで、朔。
こめかみを涙が伝った。暗い天井の中心にある照明が滲んでいた。
夢だ。
これは夢だ。
また、あのときの夢を見ていた。
全身が水をかぶったように汗でぐっしょりと濡れていた。
青桐は体を起こし手のひらで顔を拭った。窓に目を向ければ、カーテンの隙間から見える外はまだ暗く、夜明けにはほど遠い。
くしゃくしゃになったベッドの上に蹲る。
いつになったら抜け出せるのだろう。
この悪夢から。
苦しい。
苦しかった。苦しさばかりが募っていく。
「さく…、朔…」
どうして。
あれから時間ばかりが経った。なのに今もまだ青桐の心は、あの夏の日から動けずにいる。
朔が青桐の前から姿を消して、六年が過ぎていた。
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