5
秋が終わり、冬が来て、高校は早くも学期末を迎えていた。明日からは2週間の冬休みに入る。
けれど休みだからと言ってのんびりともしていられない。朔は早くから、その日程のほとんどを予備校とバイトで埋めていた。
「じゃあ、正月は? 大晦日とかはさすがに空いてるだろ?」
「うん、大晦日と三が日は。他の日も、日によってだけど一日中ってわけでもないから、会える日もあるけど」
「ふうーん…」
あまり納得していない顔で青桐はそう言った。
冬休みに入ると、予備校にも塾にも行かず、バイトもしないと言った青桐からは毎晩同じような時間に電話がかかってきた。今ではスマホが鳴るだけで、表示を見なくても彼からだと分かるようになってしまった。そんな自分に朔自身が一番驚いている。
「はい、もしもし?」
『朔』
スマホ越しの青桐の声は柔らかく、耳に心地よい。
朔は書いていたノートの上にシャーペンを置いて、目を閉じた。
「うん」
『今何してた?』
「今日の復習と、明日の準備」
『真面目だな』
ふふ、と朔は笑った。真面目にやらなければあとで困るのは自分だし、これは性分なのでどうしようもない。
『そんなに勉強して将来なりたいもんとかあるの?』
「どうかな、まだはっきり決まってないけど」
ふうん、と青桐が言った。
「青桐は? 今日は? 何してた?」
『んー…、本屋行ったり、買い物したり。年末だからって親戚が来てうるさいから、なるべく外に出てた』
親戚と聞いて、朔は青桐の従姉の高瀬を思い出した。
彼女は安西の友人でもあり、あれから何度か言葉を交わす機会があった。どこか青桐に似た、綺麗な子だった。
「そっか、賑やかでいいね」
「どこが。面倒くせえ連中だよ。うんざりする」
本心から嫌そうに言う青桐に朔は苦笑した。朔の両親はどちらもひとりっ子だから、親戚づきあいは殆どない。祖父母も朔が生まれる前や小さな頃に他界していた。しかも今年は単身赴任中の父親が正月に帰れなくなったので、母親は明日から父のもとに行くことになっていた。朔も行かないかと言われていたが、今回は断った。
ひとりで迎える新しい年。
賑やかに人が集まる正月というのはどんなものだろうと、目の前の暗い窓を見つめながら、朔はぼんやりと思い描いた。
なあ、と青桐が言った。
『明日はさあ、何時に終わんの?』
「んー、と、…15時かな」
『大晦日休みって言ったくせに』
「ごめん」
言いながら朔は笑った。青桐の言い方は親に約束を破られた子供そのもので、あの完璧な見た目に反してひどく可愛くて、仕方がなかった。
「明日埋め合わせするから」
結局予備校のスケジュールが変更となり、大晦日も授業となっていた。他の日もなんだかんだと予定は合わず、青桐に会うのは実に一週間ぶりだった。
『バイトもなし?』
「ないよ。あれ期間限定の短期だし、今日で終わりだった」
『ふーん、分かった』
それからしばらく他愛のない話をして通話を終えた。メッセージのやり取りだけで事足りるような会話、それでも声が聴けると嬉しいと思う。文章だけでは分からない言葉の持つ色が、胸の奥に暖かかった。
まさかこんなふうに自分たちが──自分が変わるなんて、あの春の日には思いもしないことだった。
また明日、と言ったそのとたんに、こんなに寂しくなるなんて。
***
翌日、予備校の授業を終えた朔は、急ぎ足で人混みの中を歩いていた。
まいったな、と嘆息する。
時計を見るともう約束の時間は過ぎていた。
授業は年内最後ということもあってか、大幅に時間をオーバーして終わった。クラスの友人たちへの挨拶もそこそこに駆け出してきたけれど、とっくに間に合わないのは分かっていた。
怒ってるんだろうなあ。
待ち合わせたのは駅の反対側にあるカフェのチェーン店だった。年末の買い物客でごった返す中、ひとりで一時間も待たせてしまった。何件も来ていた着信に急いで送ったメッセージは既読にはならなくて、ますます朔の心は焦っていく。
駅の構内に入り、反対側に抜けるほうが早い。改札から溢れ流れる人たちを避けながら、朔は足を動かした。次第に駆け足のようになるが、思うように進めず、人いきれにくらくらとしてくる。正面の開口部の向こうにカフェの入り口が見えたときにはほっと朔は息を吐いた。
急がないと。
踏み出した足で誰かの体にぶつかった。すみませんと謝って、取れかけたマフラーを押さえて構内を抜ける。
カフェは全面ガラス張りで中がよく見える作りだ。さっと見回して、多くの人でひしめき合っている店内の奥に、朔は青桐を見つけた。どこにいても目立つ容姿はこんなとき便利だと苦笑して、入ろうとしていた女性グループの後に続いて中に入った。いらっしゃいませ、とにこやかな声が飛び交っている。
「青桐…」
小さなテーブルがずらりと並んだ店の中の狭い通路を人や荷物を避けながら進み、朔はこちらに斜めに背を向けている青桐に声を掛けようとして、聞こえてきた声に足を止めた。
「へえ、そう」
聞き慣れた声。青桐だ。
「そう、私たち
「ああ、そうだねえ」
笑っている。
青桐は隣に座っている女の子ふたりに話しかけられ、笑っていた。
斜め後ろからでもよく分かる。
彼女たちは目を輝かせていた。
「待ってるのって、男でしょ? 同級生?」
「男ならいいじゃん、2対2だし。きみの友達なら恰好よさそう」
「ほんときみイケメンだねー」
楽しそうな会話に、朔は立ちすくんでしまった。
どうしよう。
声を掛けられない。
俺が現れたら、青桐は気まずいかも。何より、女の子ふたりの視線が朔は怖かった。どちらも派手で、自分たちの美しさを十分に自覚しているタイプの子だ。朔の苦手な相手だ。
このまま気づかれないように、外に…
一歩足を引いたとき、青桐がポケットの中を探った。スマホを取り出そうとしているのか、握った手を引き抜こうとしたとき、不意に顔がこちらを向いた。
「──朔っ」
がたん、と椅子を揺らし、目を大きく見開いて青桐が立ち上がった。あ、と思ったときにはもう、朔は腕を取られていた。
「何して──遅かったから心配して」
「…あ、うん、ごめ」
そう言いながら、視界の端には青桐の体の向こうにいる彼女たちが見えていた。ふたりともこちらをまじまじと見つめている。
「やだ、なにその子」
ぷっ、と朔の正面に座っている女の子が笑った。
半身に振り返っている子もヘンに顔を歪めていた。
「それきみの友達? 待ってたのその子?」
ありえなーい、と甘い声をしてふたりがくすくすと笑い出した。居た堪れなくなった朔の背中を冷たい汗が伝った。
「青桐、あの、俺」
あの様子から、もしかしたら遊びに行くのかも。その子たちと一緒にいるのなら自分は邪魔だろう。もう帰るから。そう言おうとして腕を引けば、逆に力を込められて引き寄せられた。
「もう、俺…」
押し殺した笑い声が突き刺さる。
そんな朔を目を見開いたまま見下ろしていた青桐は、いきなり彼女たちを振り返った。
「るっせえんだよ、ブスが」
その場の空気が凍り付いた。
女の子ふたりは笑んだ唇の形のまま、ぎくっと体を強張らせた。ついさっきまでにこやかに笑っていた男の変化に見る間に顔が青褪めていく。周りのざわめきがボリュームを絞ったように音を失くした。
さあ、と朔の血の気が引いた。
まずい。
「あお…」
「腐った目で見てんじゃねえよ。くせえんだよ、おまえら」
「青桐!」
腕を引くと、はっとしたように青桐が瞬いた。ゆっくりとこちらを振り返り、朔、と唇が動いた。
「もう行こう、ほら…!」
朔はそのまま青桐の手を取って、狭い通路を引き摺るようにして出口に向かった。後ろは振り返れない。
振り返りたくもない。
ガラスのドアを押し開けたときも、まだ店内は静まり返っていた。
どくどくと胸の奥が痛い。
心臓が今にも肉や皮膚を突き破り、飛び出してきそうだ。
「朔、朔」
青桐が何度も名前を呼ぶ。
でも振り返らなかった。
店を飛び出して青桐を連れて走った。人気のないところに来て、ようやく朔は手を離して振り返った。
「なんで、なんであんなこと言うんだよ! 相手女の子だぞ! ちょっと考えろよ…!」
そこは少し離れた公園だった。大晦日の午後とあってか、あまり人はいない。公園の端の木立の陰に着いたとたん、朔は我慢しきれずに青桐に怒鳴っていた。
「あんなひどいこと──」
「先に言ったのはあいつらだよ」
「でも普通に話してただろ? 青桐だって笑ってた」
「それはその前の話でしょ。ていうか、俺は朔を待ってただけだし、あんな知らねえ女とかどうでもいいんだよ」
「でも、だって…っ」
笑ってた。それに、誘われてた。
嬉しそうにそうだねって返事してたじゃないか。
「言われて当然のこと言ったんだよ? 言い返して何が悪いの」
「だから…っ」
言い返そうとして言葉に詰まる。青桐の眉間に皺が寄った。
「じゃあ俺は黙ってれば良かった? 朔を侮辱されて? なんで? なんでそんなことしなきゃなんねえんだよ!」
「青桐…」
違う。
そうじゃない。
そうじゃなくて。
違う。
「……」
息を吸い込んで、吐いて、ゆっくりと朔は言った。
「…俺は、青桐が人を傷付けるのが嫌だよ」
青桐の目をまっすぐに見て、言い聞かせるように話す。
「誰かに恨まれたり、憎まれたり、怖いとか冷たいとか、ひどいとか、そんなふうに思われるのが嫌だよ。俺がどうとか、そんなんじゃなくて、ただ…」
ただ。
「青桐が、…青桐は本当は違う。優しいのに、誰かにそんなふうに思われるのは嫌だ」
皆に愛されている青桐が嫌われるのは嫌だった。
言うだけ言って大きく息を吐き出し、朔は俯いた。青桐は何も言わなくて、ふたりの間に沈黙が降りる。
怒ったかもしれない、と思うと心がひやりとした。
一週間ぶりに会ったのに、喧嘩のようになってしまった。
足の下の降り積もった枯れ葉がかさかさと音を立てる。風で何枚かが飛んでいく。
こんなはずじゃなかった。
今夜は、除夜の鐘を一緒に聞きに行きたかったのに。
青桐と。
約束だったのに。
「……」
小さな声に顔を上げると、青桐は顰めた顔をしていた。
「分かった…もう、しない」
そうしてじっと、窺うように朔を見つめた。
「朔は、俺が嫌われるの、嫌なの?」
朔は頷いた。
「うん、嫌だよ」
「嫌われた俺は…きらい?」
まさか。
朔がその問いに答える前に青桐が言った。
「でも、朔のために言ったんだよ」
「うん」
分かってる、と朔は言った。
「朔を馬鹿にするから、俺、我慢できなかった。だから…」
「うん、分かってるよ」
何か不思議なものを見るように、青桐の目が朔の動きを追って緩く揺れる。朔は一歩近づいて動く瞳を捉えた。じっとその底を覗き込み、青桐、と呼びかけた。
微笑むと青桐が驚くのが分かった。
「…ほんとはさ、ちょっと嬉しかった。言ってくれてありがとう」
「…っ」
「でも、もうしないで欲しい」
くしゃりと青桐の顔が歪み、縋るように抱きついてきた。
「…うん」
朔はよろめきながらその体を受け止めた。肩に顔を埋めた青桐が強く額を押し付けてくる。朔の背中に回された手が、しがみつくようにコートを強く鷲掴んでいた。
叱られた子供みたいだと、朔はその背に腕を回し、そっと手のひらで摩った。
「遅くなってごめん。授業長引いて」
引っ張られ過ぎたコートが肩からずれ、シャツが濡れた感触に、青桐が泣いているのだと分かった。
涙に湿った吐息が首筋にかかる。
嫌いにならないで、と青桐が呟いた。ならないよ、と朔は答えた。
なれるわけがない。
こんなに──こんなに。
こんなに…
ねえ、と朔は言った。
「俺お腹空いて…なんか食べようよ」
「ん」
こくこく、と青桐が幼い仕草で頷いた。
「…うん、行く」
「ん」
朔の胸の奥で、小さく痛みが走った。青桐だけを責めるのは本当は違う。
朔はあの瞬間、気づいたのだ。
カフェで青桐が彼女たちといるのを見た、あのとき。朔は自分が嫉妬していると自覚していた。
誰も見ないでと言いたかった。笑わないで、話しかけないで。知らない誰かじゃなく、俺を見てと叫びたかった。
その気持ちを押し隠して、朔は青桐の背中を撫で続けた。通り過ぎる人が何事かと目を向けてきても、気にはならなかった。
「ふは、真っ赤」
「見るなよ…」
しばらくして顔を上げた青桐の目が真っ赤になっていて、拗ねたような照れた顔が、どうしようもなく愛おしかった。
長く尾を引く除夜の鐘が、深い夜の中に響き渡る。
澄み切った冬の空気に、吐きだした白い息が溶けていく。
大きなかがり火の中を、多くの人がゆっくりと同じ方向に進んでいた。
「朔、手」
はぐれないように、と差し出された手を、朔は迷うことなく繋いだ。
「あっちで甘酒配ってるって」
行こう、と言われ朔は頷いた。温かな手、繋いだ温もりを忘れたことはない。
今も。今でも。
鐘がまたひとつ鳴った。
今日が去り、年が明けた。世界は新しい年を迎えた。
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