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 それから朔は、青桐に対してあまり気負わなくなっていった。

 身構えることなく話をし、自然と笑うことも増えていた。

 たったひとつ、考え方を変えるだけで、物事はまるで違った世界を見せる。

「それで、ここは──」

 青桐の指がノートの上を滑った。書き連ねられた数字に埋もれた方程式のひとつを、数学が苦手な朔のためにゆっくりと解きほぐして教えてくれる声は穏やかだ。

 授業の合間の休み時間、ふたりは一緒にいることが増えていった。今までは授業が終わると青桐から逃げるように教室を出ていた朔も、最近は自席で過ごすことが多くなり、青桐もまた、そんな朔の変化に呼応するように、クラスメイトの輪の中から抜け出しては朔の傍にいた。今では朔の前の席が、休み時間中の青桐の定位置になっていた。

「だから、この値を代入して、それで」

「あ…、そうか」

 青桐の教えてくれた通りに数字を入れ替えて解いていくと、あんなに分からなかった問題が、するりと理解できた。固く複雑に絡み合った結び目を解くように、それは難しそうに見えてとても単純なことだった。

「うんそう。それで二乗してくの」

 言われた通りに数字を動かせば、探していた答えが導かれる。

「できた」

「そうそう、うん、出来てる」

「やった…、ありがとう青桐」

 朔の机に頬杖をついたまま、青桐は微笑んだ。開いている窓から秋の少し冷たい風が入り、柔らかそうな髪を揺らした。

「アオ、藤本、次移動だって」

 声を掛けられて朔はそちらを向いた。クラスメイトの丸岡、青桐と仲の良いグループのひとりだ。

 最近はよく朔にも声を掛けてくれる。

「あーさっきのとこやってるの? 僕も分かんなかった」

 丸岡はそう言って朔のノートを上から覗き込み、へえこうやるんだ、と感心した声を上げた。丸岡が見ているのはページの端に書き込まれた青桐の字で、計算式を分解して分かりやすく解説したものだった。

「さすがアオ、藤本いいなあ、そのノート貸して?」

「いいよ」

「駄目」

 朔の返事に被せるように青桐が言い放つ。見れば頬杖をついた顔は少しだけ嫌そうに顰められていて、さっきまでの笑みがすっかり消えていた。

「なんだよ、けちだなあ。ていうか僕は藤本に聞いたんだけど」

「朔はまだやってんだろ。俺のノート机から取って持ってけよ」

「ここの解説がいいんだって」

 普段には見せない素っ気ない青桐にも怯まず、丸岡はにこにこと笑っている。付き合いが長いのか慣れているのか、そんな彼を見てじゃあ、と朔は言った。

「写真撮る?」

「あ、それだね」

「朔っ」

 思いつかなかったと目を輝かせた丸岡とは反対に、青桐は机に身を乗り出して上目に朔を睨んだ。綺麗な顔だけに迫力はあるけれど、そんな青桐に朔は苦笑する。

「いいだろ? だってこれすごく分かりやすいし、丸岡の気持ち分かるよ」

「さっすが藤本ー」

 言いながら上着のポケットからスマホを取り出した丸岡は、素早く写真を撮った。この学校は授業中スマホや携帯を取り上げることはしないが、その代わりネットは完全に遮断されている。それに影響を及ぼさないその他の行為は黙認されていた。入学当時は不満を訴えていた生徒たちも、日々それに慣れてしまえば何の支障もなく過ごせているから不思議なものだ。

「はーい、ありがとー」

 カシャ、と小気味よい音とともに丸岡がにこっと朔に笑う。朔も笑い返すと、青桐がガタッと音を立てて椅子から立ち上がった。

「もういいだろ。朔、移動しよ」

「あ、うん」

 二の腕を引っ張られて朔は慌ててノートをとじた。それを見ていた丸岡が小さく笑った。教室にはすでにまばらにしか人がいない。

 何気なく廊下に目を向けると歩いていた細川と目が合った。

 彼女はびくっと慌てたように目を逸らし、走り去った。

 あれから細川は朔と目が合うたびに同じ反応を繰り返していた。特に話すことがあるわけでもないが、なにか心に留まるものを感じながらも、仕方がないかと朔はそんな態度を諦めていた。

「そういや午後は文化祭決めだっけ」

 思い出したように丸岡が言う。

 冷たい風が窓のカーテンを揺らした。

 もうそんな季節かと朔は思った。



 秋の終わりにある文化祭は、クラス・委員会・部活と分かれていて、生徒はその内のどれかひとつに所属して行うことになっている。所属は希望制だが──人数が余っているところは選択の余地があるが、はじめから人手のない委員会のほうはほとんど強制的に委員会が優先となる。そんなわけで朔は図書委員会、意外にも帰宅部でどこにも入っていない青桐は、必然的にクラスに所属することになっていた。

「毎年この時期は時間足りないよなあ」

 図書館内で委員会が行われ、解散の号令と共に立ち上がると、前村がため息まじりに言った。それに朔も頷いて、手元の資料を纏める。

「つーかうちの出し物あんなんでいいわけ?」

「うーん…」

 どうだろうなあ、と朔は首を傾げた。普段委員会活動に消極的な上級生たちがこういう時に限って積極性とリーダーシップを発揮した結果、半ば強引に決まった出し物は定番中の定番、図書館喫茶だった。もっと他になかったのか、とは朔も言いたいところだ。

「いいわけあるでしょ、コスプレよコスプレ」

「うーわビックリした…!」

 朔と前村の間に割って入った安西がにやりと笑う。さっきまで向こうにいたはずなのにいつの間に忍び寄っていたのか。

「人目をはばからず堂々とコスプレできるなんてこんな素晴らしいことはないよ」

「出たよ、コスプレマニア」

「ふふん」

 朔は目を丸くした。

「安西さんってそうなんだ」

「そう! でも自宅でしか披露しないけどね。インスタ専門」

「こいつ凄いぜ? 衣装も自分で作って本格的」

「へえ」

 らしいといえばらしいが人は見かけによらないものだ。

「見て驚くなよ?」

 勝ち誇ったように安西が指をピッと立てて唇の端を持ち上げた。朔は喫茶の裏方担当なので衣装はないが、安西のコスプレは見てみたい。ちなみに衣装のテーマはゴシックと吸血鬼だった。上級生たちの個人的な趣味がいかんなく発揮されたゆえの決定だ。

「前村も見事変身させてやるから」

「へいへい」

 見映えの良いふたりは接客担当だ。きっとすごく似合うだろう。小突き合うふたりに朔は声を立てて笑った。

 文化祭まであと一カ月半、忙しない日々になりそうだった。



「じゃあ朔は表に出ないの?」

 うん、と朔は頷いた。

 その日の帰り道、青桐と肩を並べて歩いている。

「俺は裏でパンケーキ焼いたり、ドリンク作ったりとか、そういうのだよ。貸出カウンターを改造して簡易厨房にするんだって。ちょっと楽しそうだろ」

「ふーん…」

 秋の日暮れは早く、まだ17時前だというのにもう手元が暗かった。

「クラスのも面白そうだね」

「まあ…普通だろ」

「そう?」

 部活や委員会に所属していない──または選択肢のある──クラスの約半数が参加する出し物は、食べ物の屋台だ。出すものは和風ということで、メインは白玉団子とあんみつだそうだ。大変そうだけれど楽しそうだ。

「俺は、朔と一緒がよかった」

 ぽつりと青桐が言った。

「朔と一緒に色々やって、朔が吸血鬼のコスプレしてるのとか見たかったのに」

「俺じゃ似合わないと思うけど」

 それに裏方だから着ることはない。

 少し沈黙があったあと、青桐が言った。

「委員会とか、やめればいいじゃん」

「何言ってるんだよ」

 委員は一年間割り当てられた役割で、部活やサークルとは違い、辞めたいからと言って辞められるものではない。そんなことは青桐は分かっているだろうに、時々青桐はそんなことを言うようになった。

「だって、そうしたら…木曜も一緒に帰れるだろ」

「そんな理由で?」

 朔は笑って横を振り返った。

 藍色の夕暮れの中にある青桐の横顔、俯いていたその視線が、ゆっくりと朔に向けられる。

「俺には充分すぎる理由だけど」

 まっすぐに朔を見てそう言った青桐に、胸がどきりと音を立てた。けれどそれを隠すように、朔はかすかな笑みを浮かべた。

「最近は木曜も一緒だろ」

「…そうだけど」

 唇をわずかに尖らせた青桐は、ふい、と前を向いた。

 機嫌を損ねてしまったかと思ったけれど、これは違うと今までの彼の態度から朔には分かるようになっていた。

 寂しがり屋なのか、青桐は案外ひとりでいることが苦手なようで、度々こうして朔に甘えるようにする。付き合いの長い──小学校からの付き合いだと聞いた丸岡にも、きっとこんなふうにしているんだろう。高校からのまだ日の浅い付き合いのクラスメイト達には見せない姿を、時折朔は可愛いと思うようになってしまったことは青桐には内緒だ。

 今のように甘えられて、胸の奥が軋んだようになることも、誰にも言えない。

「今日も一緒だから、毎日だよ?」

「うん」

 子供を宥めるように顔を覗き込むと、青桐が頷いた。

 今日は夏に行ったアイスの店に寄る約束をしていた。今だけ期間限定でチーズケーキを出しているから行こうと、再三青桐から誘われていたのだ。

 機嫌を持ち直したらしい青桐に笑いかけると、彼は嬉しそうに目を細めて朔を見た。


***

 

 前村の言った通り、時間はいくらあっても足りないほどに、あっという間に過ぎ去って、無事に文化祭の当日を迎えた。よく晴れた気持ちの良い日だった。

 しかし、当日にはトラブルがつきものというのは何事にも定説だ。

 秋晴れの今日という日も、それを覆すことは出来なかった。

「──…っ」

「───」

 図書館喫茶の入り口で、青桐が目を丸くして固まっていた。

 朔はいたたまれずに手にした盆を胸に抱え込む。

「──ナニそれ」

「な…、なにって…」

 目を合わせられずに俯いていると、ひどく冷めた声がすぐ上から降って来て、恥ずかしさで死にそうになった。

「ナニそれ──なんで朔がゴスロリになってんの」

「──」

 真っ黒の衣装にあしらわれた白いレースが恥ずかしすぎる。膝上の短いスカートの裾にひらひらとした繊細な生地が翻り、そこから伸びる脚はあろうことか網タイツだ。エナメルの黒い靴、足首のリボン、長い髪のウイッグの前髪はまっすぐに切りそろえられていて、幅広のレースのリボンで覆われた頭頂部から垂れ下がった長いリボンの端は(名前があるらしいが朔には覚えられなかった)、顎の下できゅっと綺麗な蝶々結びにされていた。

 は、恥ずかしい…!

 しかし朔は、何も好きでこんなことになっているわけではない。

「あーら、ようこそ青桐。…どうよ? 私の力作の藤本は」

 朔の背後から吸血鬼の定番、ドラキュラのコスプレを完璧に着こなしている安西が現れた。髪を撫でつけ男装の麗人と化した安西は、同じくらいの身長の朔を、後ろから肩に腕を回して抱き寄せる。

「安西さんっ」

「ふふふ、びっくりするほど可愛いでしょう…?」

「花、おまえ…」

 花、は安西の下の名前だ。安西を睨みつける青桐に気を取られて朔は気づかなかったが、安西は青桐を挑発するようににやにやと笑っていた。

「さあ僕の仔猫ちゃん、お客様にご挨拶して?」

 耳元でわざと低くした声で囁かれ、すり、と頬擦りをされて、朔は真っ赤になった。いくら普段から距離が近くその気がないと分かっていても、異性との接触は朔にとってほとんど初めてに等しい。

「あ、安西さ…っ」

「かーわいい、藤本、まっかっか…」

 うふふ、と顔を近づけられて、ひいい、と朔は安西の腕の中で仰け反った。被せられた長い黒髪のウイッグがどこかに引っかかっており、外れてしまいそうで思うように動けない。

「離れろ」

 青桐が安西の手を掴み、朔の肩から外した。よろけた朔を青桐が二の腕を掴んで自分のほうに引き寄せる。今度は青桐に囲い込まれるようにされてしまった。周りにいる人の目が痛い。

 腕の中の朔を取られて、安西が呆れた目で青桐を見た。

「なーによ、冗談通じないわね」

「冗談にも過ぎるだろ、嫌がってんだろうが」

「はあ? 過保護かよ」

「青桐…!」

 大丈夫だから、と朔は慌てて言った。

 よく分からないが青桐はひどく腹を立てている。とにかく説明しないと。

「恥ずかしいけど、しょうがないんだよ。今日ひとり休んじゃって」

 元々人手が足りない上に当日に休まれてしまったので、朔が代役を務めることになったのだ。

「だからってなんで女の格好なんだよ」

「休んだのが一年の男子で──」

「だからなんで入れ替わってんだよっつってんの! 衣装逆だろうがっ」

「はあ? 普通にコスプレして何が面白いってんのよ? 馬鹿かあんた」

「なっ…」

「男女入れ替えてこそのコスプレなんだよ、ど素人が! コスプレ舐めんな」

「な──」

「安西さん…っ」

 どうしてこうもこのふたりは顔を合わせる度いつも喧嘩腰なのか。にらみ合うふたりの間に割って入り、朔は事情を補足する。

「青桐、ほんと、俺だけじゃなくて、あのね、前村も女装してるから」

 青桐が朔を見下ろす。必死で言った、そのとき。

「おう、青桐くん! いらっしゃあああい!」

 場違いに明るい声がして、その場にいた全員が図書館内に顔を向けた。

「ようこそご主人様、おひとり?」

 肩幅の広い引き締まった筋肉質な身体に、ぱつぱつの小さすぎるゴスロリ衣装を身に着けた前村が、仁王立ちで手を振っていた。

 チッ、と舌打ちが聞こえ、ものすごい勢いで朔は腕を引っ張られた。

「ちょっと来て朔」

 青桐が朔の手を引き、くるりと向きを変えて歩き出す。朔は焦って声を上げた。

「青桐、ちょっと待って、ほんと、人がいないんだって!」

「そんなもんどうにでもなるから、来て」

「青桐っ、あ──安西さん、ごめん、すぐ戻る!」

 ずんずん進む青桐に引きずられながら後ろを振り返ると、前村と安西が入り口に立ってこちらを見ていた。どうしたのかと首を傾げている前村とは反対に、安西は意味ありげに笑って手を振っている。周りにいる生徒たちも何事かとこちらを振り返っていた。その中に丸岡がいて、はからずも目が合ってしまい、お互いにぎょっとする。きっと青桐を探しに来たのだ。「えっ、藤本? あれ藤本なの?」と聞こえた声は丸岡のものだ。

 安西が大声で言った。

「あおぎりいー!10分だけだからなー!」

「…うるせえよ」

 ぼそっと青桐が呟く。

 けらけらと笑いながら安西が続けた。

「藤本お、ちゃんと帰ってくるんだよー」



 たどり着いた途端、朔はドアに押し付けられた。

 そこは屋上に出るためのドアの前の、わずかな広さの踊り場だった。ここは普段殆ど人が来ない。ましてや今日は屋上は封鎖されているので尚更だ。

 下の階の喧騒はよそに、辺りは静かだった。わずかに遠く、人のざわめきが聞こえている。

 朔を屋上へのドアに押しつけた青桐は、両手で朔の肩を押さえたまま頭を垂れ、深く息を吐いた。

 怒りを含んでいるような気配に、とりあえず朔は言った。

「……あの、なんか俺、ごめん…?」

 青桐が目を上げた。剣呑さにぎくりとする。

 じっと朔を見つめた青桐は、やおら顔に手を伸ばした。

 そのまま、ぐい、と朔の唇を乱暴に拭う。

 指先が赤くなった。

「口紅」

「あ…、うん、これ、安西さんが」

 今朝会った途端、衣裳部屋に引きずり込まれてつけられたのだ。

「こんなもんつけるなよ、化粧なんか」

「んっ、ン」

「くそ…、取れねえ」

 ぐいぐいと力任せに指先で拭われて、唇がひりついた。朔が眉を寄せると、青桐は指を離した。

「痛い?」

「いや、大丈夫…」

 腫れてしまったのか、じんじんと熱い唇を舌先で小さく舐めると、青桐が深くため息を吐いて両手で顔を覆い、その場にしゃがみ込んだ。

「えっ、青桐? どうした?」

 慌てて朔はそばに膝をついて肩を揺すった。青桐が唸るように言った。

「朔、頼むから…!」

「え?」

「頼むから──そんな格好するな」

「あ…え…?」

「あああああ…もうっ、もうもうもう…!」

 青桐がぐしゃぐしゃと髪を掻きむしる。おろおろしていると、がしっと体当たりさながらに腰にしがみつかれてしまった。

「わ、わわっ」

 小さな子供が母親に縋るように、全力で抱きつかれて朔はバランスを崩した。尻餅をつき、ドアに背をぶつけた。

「もう誰にもこの姿見せないで」

「あ…でも──」

 文化祭は二日間ある。

 明日は──、安西の顔が浮かんで言い淀むと、腰に巻きついた腕にさらに力が籠った。

「頼むから、お願いだから、見せないで」

 見下ろすと、胸のあたりに顔を埋めた青桐が顔を上げた。

「お願い、朔」

「…なんで、そんな、誰も俺を見たがらないよ…?」

 見られていたのは似合っていないからだ。

 変だから見返されていただけで。

 それだけだ。

「…そんなに変?」

「そうじゃねえよ、そうじゃねえから困るんだよ」

 青桐は眉を顰めた。

「いいから、分かんねえならいいから。とにかくもうこんな服着ないで」

「……」

「朔」

「……わかったよ」

 肝心なところを青桐はいつも言わない。

 理由はいつも空っぽだ。

 朔はため息をついて頷いた。

「もう戻ろうよ」

 すでに10分は過ぎている。丸岡も青桐を探していたようだし、そろそろ戻ったほうがいい。

「もうちょっといいだろ」

「怒られるよ?」

 丸岡くんがいたよ、と言うと、青桐は嫌そうな顔をして朔の胸に顔を押し付けた。

「クラスのほう、放り出してきたんだろ?」

「…どうでもいい、知らねえし」

 不貞腐れた拗ねた言い草に苦笑した。

 ドアの横の小さな窓から差し込む陽の光の中に、きらきらと埃が舞う。

 穏やかで、眠ってしまいそうな緩やかな暖かさ。

 胸の中にある青桐の髪に、何気なく朔は手を伸ばした。ぴく、と青桐の肩が小さく跳ねる。だが朔は気づかずにそっと髪を撫でた。

「しょうがないなあ…」

 想像していたよりも、それはずっと柔らかかった。

 ゆっくりと感触を確かめるように撫でた。

 何度か繰り返したあと、青桐が腕を解いて顔を上げた。リノリウムの床に両手をついて身を起こし、じっと朔を見つめる。

「なに?」

 どうしたのだろうと朔は訊いた。

 その顔が近づいてきて、近すぎるとそう思ったとたん、唇の端に濡れたものが触れた。

「──」

 ──なに、今の。

 舐めた?

 舌先が頬をくすぐる。

 舌はすぐに離れ、濡れたそこを青桐が指で拭った。

「まだついてた」

「……え?」

 何が?

 目を見開いた朔に青桐は微笑んだ。

「おっかえりー藤本お、あっれ、口紅取れてるよ?」

 青桐の言ったそれが口紅のことだったと朔が理解できたのは、図書館に戻った後のことだった。

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