月は、冷たいスープの中の底

宇土為 名

1


 



 ふわふわとして、いつもどことなく、彼のその言動には掴みどころがなかった。

さく、帰ろ」

 ホームルームの終わった教室で声を掛けられて振り返る。着崩した制服のシャツにゆるゆるに引き延ばしているネクタイ。にこにこと笑う出来すぎた顔。当たり前のように話しかけてくる声。

「今日なんにもないよね、一緒に帰ろうよ」

「…いいけど」

 その肩越しに見えた後ろには、何か言いたそうな顔をした女子がふたり、こちらをじっと窺うように見ていた。

青桐あおぎりは用があるんじゃないの?」

 そう言うと、朔の視線を辿った青桐がちらりと後ろを見やる。女子のひとりがぴくっ、と頬を引きつらせた。

「あー、全然? なんも用なんかないよ?」

「……」

 朔に向き直った青桐の背後で、顔をひきつらせた女子が恨めしそうな顔でこちらを睨んでいた。

 ああ、また恨み買ったな…

「帰ろ、朔」

 屈託のない顔で青桐が笑う。自覚がない分、性質たちが悪かった。青桐はきっとさっき──朔に声を掛けるほんの少し前に、彼女を振ったばかりなのだ。

 似たようなことは前にもあった。

「朔、ねえ?」

 嫌だと言ったらその理由を言うまで青桐は放してくれない。最初の内はその繰り返しだったので、朔は嫌というほど身に沁みて分かっていた。こういうときは頷くのが一番手っ取り早いのだ。仕方がないな、となるべく彼女と目を合わせないようにして朔は頷いた。目の端でさらに強くなった彼女の視線を感じたとたん、それを遮るように青桐がほとんど体を押し付けるようにして、朔の目の前に立った。

「ほんと? やった」

 無邪気に弾む声が教室のざわめきに響く。

 嬉しそうな青桐とは対照的に朔は内心落ち着かなかった。早くここから出て行きたい。

「行こう」

 朔の心の内を悟ったように青桐が朔の腕を引っ張って出入口へと進む。引きずられるように連れて行かれながら、青桐が彼女たちの側を通らなくてよかったと思った。

 青桐が笑って振り返った。

「美味いアイスの店見つけたんだ、そこ行かない?」

 朔は頷いた。

 やった、とまた青桐がはしゃぐ。

 その声に何人かの目がこちらを向いた。

 矢のような視線が背中に突き刺さる。朔は小さくため息をついた。青桐が自分に構うようになってから二カ月余り。いつまでこんなことが続くのだろう。

 早く自分に飽きてくれるといい。

 学校に来るのが最近はひどく憂鬱だ。



 青桐由也あおぎりよしや藤本朔ふじもとさくに話しかけてきたのは、二年に進級した春の、少し長い休みが終ったころだった。

『ねー、藤本ってさ、名前さくって言うの?』

 窓際の自分の席でぼんやりしているところに、上からそんな声が突然降って来た。窓の外に向けていた視線を戻して声がしたほうを見上げれば、驚くほど出来すぎた顔がこちらを見下ろしていた。

 目立つ人だな、と思った。

 でも名前が出てこない。

 誰、だっけ。

 同じクラスなのは分かっている。いつも人だかりの中にいる人だ。

 確か去年も同じクラスだった気がするけれど、名前を思い出せない。

 そもそも話したことがなかった、と思う。

 …いや、あったっけ?

 何かで一度。

 駄目だ、思い出せない。

『え…、えっと?』

 仮にもクラスメイトにまさか誰でしたっけ、と訊くわけにもいかず、胸元にあるはずのネームプレートを目で探していると、ぱっとそれを手のひらで覆われた。

 あ。

『俺の名前、知らないんだ?』

 知らないわけではないが、覚えていないだけ。

 率直にそう言ったら、きっと怒るんだろうな。

 でも、他に言いようがない。

『ごめん』

 言い訳をすべて投げ出して、朔は素直に謝った。

 一瞬きょとんとした顔をした彼は、次の瞬間ふにゃっと整い過ぎている相好を崩して声を出して笑った。

『ふはっ、そっか、そうだよねえ、ふふふ』

『──』

 朔はその顔に見惚れた。

 整い過ぎている分、笑うとひどく幼く見えた。

 きっとこの笑顔は女の子が放っておかないほど綺麗だ。もしも向けられているのが自分じゃなかったなら、その向けられた相手は一瞬で恋に落ちるかもしれない。

 でも俺は男だし。

『…えと、あの』

『ああ、ごめん、俺ね、青桐。青桐由也』

 ひとしきり笑い、涙の滲んだ目尻を長い指で拭いながら、彼は言った。

『あおぎり』

 ああ、そうだ。そんな名前だった。

 繰り返すと、青桐は嬉しそうに笑った。

『うんそう、名前はね、由也』

『よし、よしや?』

『そう。朔、俺のこと由也って呼んでよ』

『え………は?』

『ね?』

 にこっと笑いかけられる。

 訳が分からなくて朔は混乱した。

 いきなり呼び捨て、いきなり名前呼び?

 今の今まで名前も思い出せなかった相手を?

『……え?』

 混乱しすぎて言葉が出てこない。

 だからまるで気がつかなかった。自分と青桐に向けられていた、周囲の好奇と嫉妬に満ちた視線に。

 


 それは学校の外でもそうだった。

「いいからほら、食べてみて」

 青桐に連れられてアイスクリーム専門店に着くなり、何にする?と言われて朔が選んだのはバニラアイスだった。朔はバニラが好きだ。でもオーダーしている途中で青桐が強引に割って入って来て、お薦めだからとメニューの黒板に書かれてあるカシスのシャーベットを組み合わせてしまった。

「……」

 抵抗する間もなくオーダーは通ってしまって、店員に渡された目の前のそれを、朔はじっと見つめる。

 バニラの濃い白とカシスの紫がかった赤のコントラストが綺麗だった。

 でも、バニラだけでもよかったな。

「ほら、朔。美味しいから」

 仕方なく、朔は小さなプラスチックのスプーンでふたつが混じり合っているところを掬い口に入れた。

「──あ、美味しい」

 舌の上に乗せたアイスは、甘さと酸味がちょうどよく、想像以上に美味しかった。

「だろ、よかった」

 あまりの美味しさに思わずぱっと顔を上げると、テーブルに向かい合って座っている青桐が、嬉しそうに笑っていた。店の表に設置されたテラス席、日除けの白いパラソルの下で、なにも自分相手に振りまかなくてもいいような、眩しいほどの満面の笑顔。

 その笑顔の相手が、なんで俺なのか。

 いつも浮かんでくる疑問に答えはない。

 見惚れそうになって、慌てて朔は言った。

「青桐も、溶けるよ」

 見れば、青桐はまだ一口も食べていなかった。朔が先に食べるのを待っていたのか、彼の前に置かれたプラスチックの容器の端からは、溶けだした緑色のアイスが今にも零れ落ちそうになっていた。

 あ。

 言ったそばから、溶けたアイスが零れてしまった。

「はは、ほんとだ」

 垂れ落ちたそれを、青桐は指先で掬ってぺろりと舐めた。

 青桐のはメロンの果肉の入ったソフトに甘夏のソルベ、高校生にしては高すぎる放課後のおやつだ。それでも、彼が選んだものはしっくりと青桐に馴染んでいて、そこだけが別の世界のようにきらきらと輝いて見える。

 朔が自分のアイスを掬うと青桐も同じようにした。

 そして優雅な手つきでスプーンを口に運ぶ。彼がすれば、なんでもそう見えてしまうのが不思議だった。

 うま、と言った青桐が、朔のアイスをじっと見つめる。

「ねー朔、そっち、ひとくちちょうだい」

「へ?」

「ほら、いいでしょ?」

「えっ、ちょっ…!」

 青桐の手が伸びて、スプーンを持つ朔の手首を掴んだ。そのまま自分のほうに引き寄せて、スプーンに乗っていた朔のアイスをぱくりと食べた。

 かし、と指先に感じたかすかな振動。

「あ」

 思わず朔は声を上げていた。

「ん! カシス美味いね」

 癖のある長めの髪の間から、上目に朔を見る目がにこっと笑う。

 文句を言おうとした朔は、その無邪気さに諦めた気持ちになって、小さく息を吐いた。

「…もう、あのさ、食べたいなら自分のスプーン使えばいいだろ」

「えーだって丁度良かったからさ」

「そうじゃなくて」

 ゆっくりと手首を放された。

 青桐が口をつけたスプーンで、一瞬迷い、朔はまた自分のアイスを掬った。赤と白の綺麗なコントラスト。諦め混じりに口の中に入れれば、甘酸っぱい味が口の中に広がる。美味しい。

 とても。美味しいんだけど。

「朔?」

 青桐が向かいから身を乗り出して顔を覗き込んできた。

「なに?」

「ごめんね、怒った?」

「怒ってないよ」

「ほんとに?」

「うん」

 それは本当だった。なぜか彼の笑顔を見ると、いつも怒る気力が削がれてしまう。

 しばらく、ふたりとも無言でアイスを食べた。

「さーく」

 呼ばれて目を上げると、頬杖をついた青桐が自分のアイスを盛ったスプーンを差し出していた。

「俺のも食べて」

「え、い、要らな」

「なんで?」

 慌てる朔を見て、青桐が不思議そうな顔をした。

 視線をさまよわせた朔には分かるのに、青桐は全然分かっていないのだ。隣や他のテーブルに座っている同じ年くらいの女の子たちの視線、周りの目を。

 皆、青桐を見てるのに。

 どうして彼は、この空気のざわつきを感じないのだろうか。

「さーく、溶けるから、ほら、あーん」

 唇をスプーンで突かれて、朔の背中を冷や汗が流れた。

「朔、」

「……」

 多めに掬い取ったアイスがスプーンから落ちそうだ。

 ああ、溶ける。

「はい」

「……」

 朔は仕方ないと小さく唇を開いた。

 自分が耳まで真っ赤になっているのが分かる。

 すぐに、わずかに開いたその隙間にスプーンが滑りこんできた。

 甘い、甘いメロンの香りが口いっぱいに広がっていく。

「美味しいだろ?」

「…ん、うん」

 朔はぎこちなく頷いた。

 いつもこうだ。

 背中に刺さる視線が痛い。くすくすと誰かが笑う声がした。自分たちのことを笑われているのかもしれない。

 青桐といると、いつも、消えたくなるくらいに恥ずかしくなる。

「よかった」

 首筋まで赤くなった朔を見て、満足したようににこりと青桐は笑った。

 その笑顔に朔はため息を落とした。青桐に気づかれぬようにそっと。けれど青桐はそんなことはとっくに気づいていると朔は思っていた。

 青桐は一体どういうつもりなんだろう。

 女の子にすればいいことを、いつもこうして朔にしてくる。あの日、声を掛けられた日からずっと。青桐には友達も多い。いつも人の輪の中心にいる。

 たくさんの友達、たくさんの笑い声に囲まれている青桐。なのになぜ。

 なぜ、俺と一緒にいたがるのか。

 青桐にとって、これは何でもないことなんだろうか。

 意味なんてないのかもしれない。

 気まぐれか、暇つぶし。

 どちらにしてもきっとすぐに青桐は飽きる。

 面白い遊びを見つけてそれに夢中になっていた子供が興味を失えば、まるで見向きもしなくなるように、青桐もそうなのだと──朔は青桐の笑う顔を眺めながら、そう思っていた。


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