冷たいナイフとろうそく

星海棗(ひとみなつめ)

第1話  色即是空

ああ、なんで私だけ生きているんだろう。



そんなことを思いながら、今日も満員電車に乗る。すれ違いざまに見える景色、色もない、黒い塊がたくさん詰められた鉄の塊、次から次へと大きなクジラに飲み込まれていく、あ、また黒い塊がたくさん乗せられた鉄の塊が吐き出された、何もかもが同じ世界、変わったものは一つもない世界。


東京で音楽教師をしている私は、生きることに関心が無くなり、ただ仕事をする毎日。楽しみがない訳ではない、好きなものを見ると喜んだりする。そんな私のことを周囲の人は、「お人形さん」と呼ぶ。別にそのあだ名が嫌いなわけではない。


私が他者の前で喜べない理由、それは喜んでしまうと悪魔を呼び出してしまうからだ。いつも心の中で巡っている声。葛藤?そんなもんじゃない。私のすべてを壊した悪魔、いつから住み着いたんだ。いや、私自身が悪魔なのではないか?何度もそう囁き続けている。


≪私は、悪魔だ、そう、人を不幸にしてしまう悪魔なんだ。≫


1995年3月3日雪が降り積もるオーストリアの小さな病院の中


オギャ―、オギャ―、オギャ―・・・


「あら、素敵な女の子ですね。奥様に似てお美しい。この子もきっと奥様に似て素敵なピアニストになるのかしらね。それとも旦那様に似て素敵なバイオリニストかしら。楽しみだわね。」

「そういえばこの子のお名前どうなさるのですか?」

両親の中ではもうすでに名前は決まっていた。

「"雪"に"音"とかいて"雪音"。"ゆね"そうゆねちゃんよ。この子は一面真っ白な大雪の日、みんなに見つけてもらえる、気づいてもらえるそんな雪の日に生まれてきた子。この子は、これから出会うみんなに雪のように優しく接し、みんなの中でも気づいてもらえる、そんな彼女の音を届けてほしい、だから雪音にしたんだ。」

と父は自慢げに助産婦さんに話をしていた。


「素敵な名前ですね。雪音ちゃん。」


ベルリンフィルでバイオリニストとして働く父とウィーンフィルでピアニストとして働く母の間に私は生まれた。周りからは将来有望なピアニストとして期待されていた。父親は基本単身赴任で、私は母親と暮らしいつも私の横でピアノを弾いていた。月に一回、父親がやってくる。


「おお、今日も美しいゆねちゃん~。ナニナニ、今日も元気にしてまちたか~。」

「私達の子だからね。ウフフ。目に入れても痛くないわ。女神さまからの賜物だわね。」

「ほんとに、君は親ばかなんだから。それにしてもゆねは成長するのが早いな。もう2歳か。」

「この子、最近ピアノを触る様になったのよ。私に似てピアニストが向いているかもしれないわ。」


どこの家庭でもするようなたわいのない会話を月に1回行っていた。私は、2歳からピアノを母親から学んだ。母親はすごく楽しそうに教えてくれた、父親も私が成長するごとに褒めてくれた。たまに父が買ってくるオーケストラの楽譜を見ることがいつしか私の楽しみになっていた。父親があまり帰ってこなかったが、それでも普通の家庭と変わらない、愛のこもった家庭だった。


あの事件さえなければ―。



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