第50話 一度きりの人生

 とある建物の一室に置かれた執務机の書類へ目を通す、ひとりの男性。


 これまで幾度となく同じようなことを繰り返してきたのだろう。

 動かす手の動きには淀みがなく、ひたすらにサインを書き続けていた。


 そこに響く扉の叩かれる音。

 彼は声色も変えることなく淡々と答えた。


「入りなさい」

「失礼いたします」


 扉を隔てて聞こえたその声から判断したのだろう。

 高齢の男性は手を止め、書類から扉へと視線を向けた。


 入ってきたのは20代前半の女性。

 薄い銀色が入った金髪の職員だ。

 女性は男性に向け、軽く一礼してから入室した。


 執務机の前まで来た女性職員は報告を始めた。

 しかし聞かされる内容は、彼の心を大きく揺さぶるには十分すぎたようだ。


「……そうか……。

 やはりハルト殿は、西を目指す・・・・・か……」


 深刻な表情とは裏腹に穏やかな声色ではあったものの、彼の言葉には相当の重みを感じさせるものがあった。


「……よろしかったのですか?」


 呟くような言葉が女性から発せられた。

 それが何を意味するのかを理解できないはずもない彼は、彼女に答える。


「この町に留まればどうなるのか、火を見るよりも明らかじゃからの。

 これが最良としか思えぬことに情けなさを感じるが、それでもいちばんはハルト殿の安否じゃ」


 まるではぐらかすようなハンネスの言葉に、思わずカーリナの表情には苦笑いが出てしまった。


 そうではない。

 そういったことを言おうとしたわけでは……。


 同時にそれを分かっていて答えた上司に対し、はっきりと言葉にしていいものかと彼女は考え込むように口をつぐむ。


 視線をハンネスに向けるも、彼と視線が合った彼女はすぐに逸らしてしまう。

 そんな彼女の気持ちを理解している彼は、煮え切らないカーリナに訊ねた。


「こう言いたいんじゃろ?

 "ハルト殿の力になるべきでは"、とな」

「……それ、は……」

「よい。

 その気持ちも、痛いほどに分かるつもりじゃよ。

 ……じゃがの、アウリス・・・・が西の果ての調査をハルト殿に依頼したのならば、我らにできることなどないに等しい。

 それがどういった結果を導くのか、正確なところまではワシにも見当がつかんが、少なくともこれまでの追放者・・・・・・・・とは違い、ハルト殿であれば別の結果を示してくれるやもしれない」


 だが、その意味をカーリナも理解している。

 そうなれば、自身がどうなるのかも。


 それに、"恐らく"という曖昧なものではあるが、いくらハルトが強かろうと魔王に勝てるとはとても思えない。

 その姿すらも想像できなかったカーリナに、ハンネスは訊ねた。


「それよりも、お主はよいのかの?」


 思いがけないハンネスの言葉に表情が凍り付く。

 この方はどこまで見通しているのだろうかと、時々恐ろしさすら感じた。


「最初で最後かもしれない機会じゃ。

 ハルト殿と共に行きたいと言われても、ワシは反対などせんよ」

「……ですが……」


 暗い表情に重々しい声色。

 彼女らしからぬ言動だろうと、それを注意したりはしなかった。


「一度きりの人生。

 悔いの残る生き方はしないほうがよい。

 本来は、そうあるべきじゃからの」

「……変わられましたね、ハンネス様……」

「そうかの?

 ……いや、そうかもしれんの」


 その理由も何となくだが理解できたハンネスは、窓から見える青々とした空を見上げながら言葉にした。


「口の形と言葉が合っていない。

 あれは間違いなく異世界人の特徴じゃ。

 アウリスはハルト殿に西の調査を依頼するという形で希望を託した。

 そうしたい気持ちも、期待を持ったことも分からなくはない。

 だがの、ワシにはそれすらも実を結ぶとは限らないと考えておる。

 あまりにも小さい種に加え、この世界の土壌もすでに廃れつつある。

 そんな状況下で異世界人である彼だけに我々の責務を押し付けるようなことは、あってはならない。

 この世界のことは、この世界の住民が片を付ける必要がある」

「ですが、我々に魔王の討伐はどれだけ強かろうと現実的に不可能です。

 ハルト様が勇者様であるのならば、彼にこそ唯一の可能性があるのでは?」


 カーリナの言うように、この世界の魔王を倒すことができるのは勇者のみ。

 そう言い伝えられている点から判断するにはあまりにも曖昧な伝承ではあるが、それでもこの世界の住人に適わない以上、ハルトの手助けしか自分たちにはできないと彼女は考える。


 だが、それこそが間違いだと彼は言葉にした。


「別の世界から来たものに自分たちの世界を救ってもらう。

 ここに恥も外聞もなく言葉にすることなど、あってはならない。

 我らの世界は、我ら自身がどうにかするべきなのだ」


 彼はいつになく強い口調で言葉にした。

 それだけ信念があることなのは彼女も知っている。

 数年どころの付き合いではないのだから、その考えも理解してるつもりだ。


 それでも言わざるを得ない。

 "そんなことは、もう不可能だ"と。

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