第六章 道の最期に

最終話 最後の口上でございまする


 つい先日、手前に向かい、父、松栄が申しました。

「このままだと死ぬるぞ、源四郎」

 と。

 大阪城、聚楽第と描き終わるなりの立て続けの仕事にて、顔色が悪くなっているのを見抜かれたのでございます。


 父に言われるまでもございません。

 手前の身体のことは、手前が一番わかっております。

 取り掛かりました東福寺の天井画、これが手前の絶筆になることでございましょう。

 もはや、養生したとてそう長くはございませぬ。

 ですが、死の床につくその寸前まで、絵筆を握っていたいのでございます。


「はや、弟秀信に家督を譲りしこの身、長男の光信も大成しつつあり、次男の孝信も良き才を持っております。

 こうなれば、思い残すことはなく。

 それに、昨年のご今上の内裏の障壁画、命を賭しても描きあげたかったのでございます……」

 手前の言に、父は黙り込んだのでございました。




 手前どもが尾張に行ったのは、はるか昔のこととなり申しました。

 そして、織田様にお会いしたことが、その後に様々なことが起きるきっかけとなったのでございまする。

 それが、手前の絵筆を握る手を導き続け、描くことを止めさせぬのでございます。

 その様々なことの中でも、特に大きく二つの故由がございます。


 一つ目でございますが……。

 手前が織田様のために心血を注いで描きし安土城の障壁画は、本能寺が織田様と共に焼け落ちるに次いで焼け落ちてしまい、戦国の世とは申しながら果てしなき虚しさを覚えさせられたのでございます。

 幼き頃から京の町衆になった後まで通い続けた本能寺、そして織田様の作りし安土の城は、共に永遠に残るのであろうと思っていたからこそ、手前の虚しさは果てしないものにございました。


 その後に描いた関白近衛前久様のお屋敷の障壁画、大阪城と聚楽第の障壁画、それについても手前は、永遠に残るとはとても思えぬようになったのでございます。

 せめて、聚楽第の唐獅子だけは生き延びて欲しいなどと願うことは、果てしなき我儘なのでございましょうか。一度、神仏に問うてみたいものでございます。

 そして一作だけでも後の世に残ればと、手前は物狂いしたように描き続けたのでございます。




 そういえば、手前が尾張に行った後……。

 信春は七尾に帰り、そこでかなりの作を残したようにございます。

 その後に再上洛して我らに一時顔を見せたものの、そのうちに長谷川等白を名乗り、派を立てたのでございます。

 その際に信春の才を認め、京の町衆に至るまで引き上げてくだされたのは千利休殿でございました。

 とはいえ、それは密かに手前の心配の種になり申しました。


 千利休殿の茶の席は手前も呼ばれたことがあり、この上ない心地良きものと思ったものでございます。

 しかし、それゆえに利休殿の茶を受け継げる者がいるのかと、不安を覚えたのもまた事実でございます。茶の心というものは、見えるものでも、手本としての粉本を作れるものでもございませぬ。

 つまり、信春の絵と同じなのでございまする。


 このような飛び抜けた才を持つ者たちは、本来はそれを後世に受け継がせるために、不断に力を注がねばならぬのでございます。

 なのに、飛び抜けた才を持つ者たちは、おのれの道を極める方にばかり目が行き、粉本作成などには力を注がぬのでございます。

 千利休殿と信春は共に天賦の才がありすぎるゆえに、そこを手前は心配するのでございます。


 そう考えると、かえすがえすも祖父、狩野元信の才は全能に近き神の如きものでございました。派を立てて画法を完成させ、それを粉本という手本で後世に伝える手段を完成させ、派を支える扇絵の商いをも完成させと、三本の柱を独りで作り上げたのでございますから。

 

 つい先日も、公家の勧修寺様から仙洞御所対屋の障壁画について御下問があり申しました。狩野の元にいた長谷川等伯とは、障壁画の下命ができる相手か、とのこと。いつの間にやら信春は、等白から等伯に名を変えていたようでございます。

 そこで手前は、正直に申し上げました。


 長谷川等伯にご下命されれば、狩野に勝るとも劣らぬ素晴らしきものができましょう、と。

 ただし、障壁画は描けば終わりというものではございませぬ、とも。

 人が暮らす建物の中にある以上、破れることもあれば水や料理の汁が掛かることもございます。派としての力がないと、その修繕までの対応をし続けられるものではございません。

 人の暮らす家の障壁画は、「描いた当主が亡くなったから、どうにもならぬ」というわけにはいかぬのでございます。


 信春という男の質は結局変わらず、結果として信春の身に何かあれば長谷川派は保ちませぬ。

 ですが、信春、いや、長谷川等伯殿と呼んだ方がよろしいでしょうな。その長谷川派は、長谷川等伯殿健在の間だけは狩野を超えるほどの大きさになるのでございましょう。

 あくまで、しばらくの間にすぎませぬが。

 これもまた、虚しいものにございます。



 直治どのは、いや、こちらも直治どのなどとはもはや呼べますまい。

 原直治殿は毛利家に仕官し、いつの間にやら身につけていた連歌や茶の湯までを活かして、今や当主の毛利輝元殿の御伽衆とお成りになられました。

 直治殿らしく多芸多才であり、そこを愛されたのでございましょう。

 狩野等顔 とうがんと毛利家では名乗られているようで、狩野の名を許した甲斐があると申すものでございます。


 さらに、先日は文が届いており、懐かしく読んだところ、加増が内定したそうな。さらにそれに加えて、かの雪舟の旧居『雲谷うんこく庵』の管理を任されており、修復が済めば住まいとして与えられる由。

 これは、狩野の棟梁としての手前ですら、まことにうらやむ仕儀にございます。

 この身体がいうことを聞くのであれば、是非にも訪ねてみたき場所でございました。


 さらにその文に記されていたのは、彼の地においていよいよ派を立てるとのこと。派の棟梁となることについて、事細かく教えを請うことも記されておりました。

 手前は、石見太夫に口述させて、与えられる手前の経験は全て知らせたいと思うのでございます。等顔殿の派は西方の彼の地にあり、それが京の我々の商いに害を為すことはありますまい。

 さすれば、まずは百年、直治殿の派が保てばよかろうかと思うのでございます。


 絵の才においては信春に一歩及ばなかったからこそ、直治殿は大成され後世に派を残す。世とは不思議なものにございますなぁ。


 なお、付け足しではございますが、石見太夫も今は狩野の名を許され、おまつと所帯を持っておりまする。子供も生まれ、絵筆を持って遊んでいる姿はなかなかにぐいものでございます。



 ともかく、彼らと過ごせし数年は、我が人生においても、至宝の日々と言ってよいものでございました。

 その結果生み出されし洛中洛外図、今は上杉殿の元にあり申します。


 織田様は言葉をたがえず洛中洛外図をご用命くださり、将軍様の御所に六角殿の菱紋が描かれていることを、殊の外お喜びになられたのでございます。

 さすがにこの期に至り、関白様のお言葉、『成り立ちし京の静謐を守ることにも使える』の意が手前にもわかっておりました。


 上杉殿への進物とされし洛中洛外図屏風が為したこと、それは京を含む北陸の大戦さを二度も未然に食い止めたというものでございます。

 洛中洛外を描いた絵、それを見た上杉殿はまずは喜ばれた筈にございます。この進物によって、上杉殿は織田様と同盟を結ばれ、結果として織田様は四面楚歌の状況から脱せられたのですから。それがまずは一度目でございます。


 ですが上杉殿、この絵を眺め続けるうちに、別のお考えが生まれになったことでございましょう。

 描かれているのは、一時のみ実現した六角殿の守りし御所に向かう上杉殿。

 今であれば、織田殿が守っておいでの御所にございます。

 六角殿が守られていた頃の御所であれば、上杉殿はこの上なく必要とされ、歓迎されたのでございまする。それは幕府だけでなく、関白様を始めとする朝廷からも、でございましたでしょう。


 しかし、今や、時は逸しました。

 織田様と関白様は共に鷹狩に出かけられたほど仲が良くなられ、そのことは、のちに関白様が木下殿を猶子※とされ、豊臣家を興すきっかけにさえなったのでございます。


 そんな中、上杉殿はもはや必要とされず。

 否応なくその事実を、洛中洛外図屏風をご覧になられるたびに心に刻まれた筈にございます。

 上杉殿は、のちに七尾城を落城させましたが、上洛されることはありませなんだ。

 洛中洛外図屏風は、上杉謙信殿への織田様からの引導となったのでございまする。

 これが、大戦さを防いだ二度目でございます。

 つまりこの絵は、万の単位の人の命を救ったのでございます。


 思えば織田様は上杉殿への進物にするにあたり、洛中洛外図への手前の「州信」の落款印を執拗に求められました。

「わしからの偏諱へんきの印に意味があるのだ」

 と、仰せになられて。

 その意味も今となればよくわかり申します。


 また、織田様はこうも仰られました。

「わしは過去を切り取った記録に興味はない。

 だから、洛中洛外図を手に入れても眺めることはない。

 だが、上杉に送れば、この絵は後々まで世に残ろうぞ」

 と。


 手前は思わず、無礼かとは思いながらも聞き返したのでございます。

「上杉殿への進物とされるから、儀礼の象徴しるしとして残るということでございましょうか」

 と。


 織田様のお答えは口調は穏やかでございましたが、その内容は手前の想像を絶して辛辣なものにございました。

「天下を取る時節を逸した上杉は、もはや鄙の一大名にしかなり得ぬ。

 だからこそ、日の本の中心に近づけず、ゆえにお家安泰。だから残るのよ」

 そう聞かされたときの手前の心情、おわかりいただけるかと思います。

 手前、織田様と話すたびに、このように心胆寒からしめられたのでございました。


 織田様が持って生まれた性としてのお優しさも、このように鋭い思慮によって得られたお答えに覆い隠されてしまうこともしばしばで、それが恐ろしく、また、お側を離れられぬ魔力でもございました。


 ですがその織田様も、手前を睨めつけた松永殿も、上杉殿も、今や皆亡くなられてしまわれました。

 時の流れとは残酷なものにございます。

 織田様も松永様も、大往生とは行きませなんだ。そこがまた辛きところでございます。



 ああ、そうでございますね。

 話を戻さねばなりませぬな。

 ですが、話の流れとしてはちょうどよいやも知れませぬ。


 手前が描くことを止められぬ、二つ目の故由のことでございます。

 繰り返しまするが、つくづくも時の流れとは残酷なものにございます。



 我が妻小蝶は、皆で尾張に行ったのち、すぐに手前の長男、光信を産んだのでございます。

 光信は母の血を受け継いだか、花鳥をぐく描くことについては、世の誰にも負けない絵描きに育ち申しました。


 その後、小蝶は次男の孝信を産みしのち、産後の肥立ちが悪く身罷りました。

 もう、二十年近くも前になりましょうか。

 なにかと手前に絡み、その時々は邪魔とすら感じておりましたが、いざいなくなるとこれほどまでに喪失感を覚えるとは思いませなんだ。

 その心の穴を埋めるために、はるばる豊後国までの旅に出たりもいたしましたが、その喪失感は癒えることなくこの身を蝕んだのでございます。


 手前は、ひたすらに描き続けました。

 手前にとって絵はわざであり、ぎょうであり、ごうでもあったのでございます。それゆえに、絵は唯一喪失感を忘れさせてくれるものでもあったのでございました。

 そして描きに描き、この身で描くことが叶うすべての絵を描き終えたら、手前は小蝶に再び会える。今は、そんな気がしているのでございます。


 在天願作比翼鳥、在地願為連理枝。

 願わくば天に在りては比翼の鳥とならん、願わくは地に在りては連理の枝とならん。

 歳を取るごとに、つくづくそんな言葉が脳裏に浮かびまする。

 それは、再会そのときが近いことを、手前の身体が知っているからでございましょう。



 とはいえ、手前の一生は幸せなものにございました。

 どれほどの子供たちを世に送り出せたかに思い致せば、古今東西、手前ほどの果報者はおりますまい。

 中には海を超え、羅馬ローマ教皇に献上されたものすらあるのでございます。

 それは結果として、小蝶が残してくれたものなのやも知れませぬ。

 また、あの世でそれを、小蝶も喜んでくれているはずなのでございます。



 思い返せば、関白、近衛前久様のお屋敷の障壁画、それが手前と小蝶の二人だけで描く唯一の合作となり申しました。

 小蝶の描く下絵の中で、小鳥たちは縦横に飛び、さえずり、虫をついばみ、その姿は見事なものでございました。手前は手前の絵の中に、小鳥だけはそのぐき姿を壊さぬよう、丁寧に写しとったのでございます。


 関白様は、その下絵をも所望になられました。なので、それを小鳥の数だけ扇に仕立て、一本を除いたすべて献上したのでございます。

 とはいえそのようなものですから落款に相当するものとてなく、いずれは散逸してしまうものにございましょう。


 小蝶の描いた扇絵の数々は当然後の世に残るものではなく、洛中洛外図の下絵も本来残すべきものではなく、すべて処分してしまいました。

 結果として手前の懐に残された一本の扇、その中で梔子くちなしの枝に掴まった一羽の小鳥。

 それだけが、小蝶の息吹を今の手前に伝えるものなのでございます。





 


※猶子 ・・・ 養子

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