第9話 これでは人と蛙でござるっ


 俺の願いが織田殿の元でなら叶うという、その根拠を織田殿から改めての御下問されて……。

 俺は、元々の経緯から話すことにした。


「そもそも将軍様は、洛中洛外図屏風、上杉殿への進物とお考えでした。

 この世に静謐をもたらすのは上杉殿と信じていらっしゃったからでございます。

 併せて、関白様も越後に下向され……」

「なるほど、あとは言わなくてもわかる。

 軍神の関東での有様、知っておるよ。

 関白様の言に従わず、京ではなく関東に軍を進めたのだな。ほとほと無駄なことをすると、呆れ返っておったところよ」

「無駄、にございますか……」

 俺もまったく同じ考えではあるが、あえて聞き返す。

 織田殿の考えを聞き出すためだ。


 だが織田殿、俺からあっさりと視線を外し、家臣に話しかけた。

「猿、何年か前に、上杉殿が甲斐の武田殿と川中島とやらで大戦さをしたことは知っておろう?」

「存じております」

「わしが無駄と評した理由、わかるか?」

「わかるつもりでおりまする」

「では、棟梁に説明して差し上げろ」

 これには、俺は正直に言って仰天した。


 織田殿のことを「新しき酒を入れる新しき器を作るに足る者」と俺たちは考え、ここ尾張まで来たのである。

 関白様もそう期待されていらっしゃる。


 だが、その考えは間違っていた。

 織田殿ではなく、織田家中の者皆が揃いも揃って「新しき酒を入れる新しき器を作るに足る者」たち、なのかもしれぬ。

 これは予想を超えている。しかも、俺からしたら良い方向へ、だ。

 閑話休題、このような変異が、なぜこの地では起きているのだろう……。


 俺の驚きに、木下殿の言葉が追い打ちを掛けた。

「は。

 僭越ながら、簡単なことでございます。

 日の本の中心は京。

 その京を中心として円を多数描き、その外側と内側の円の戦いであれば意味があり申します。

 京へ近づく、遠ざかる戦いとなりますからな。

 近寄れば京の権威に近づき、遠ざかればそれはすなわち敗者になるということ。例外は京を押さえた後でございます。そののちの戦さは、外の円へと広がっていくものになりましょう。

 ですが、同じ円の外周上で戦うはまったくの無意味。京に近づきも遠ざかりもしませぬからなぁ。

 越後と信濃で戦うなど、その外周上の戦いに他なりませぬ」


 この国を図に落とし、円を描いて判断する。

 そのあまりに明快な考えに、俺は言葉を失っていた。

 関白様も、お亡くなりになった将軍様も、父と俺も、狩野の中で最もこのような考えに長けた直治どのでさえ、思いつけなかった。

 我らは絵師なのに、図示という我々の本分で、尾張の一武将の、その家臣にさえ敵わなかったのだ。


 俺たちが悩み、先を必死で考えていたことが阿呆らしい。

 俺たちにもなんとなくわかっていたことではあるが、あくまでおぼろげな話である。それがここまで明快に示されると、この図だけでこの世の大名の動きとその成果のすべてが読めてしまう。

「では、越後から関東に出て戦さをするなど、みずから外の円に遠ざかって戦さをすることになるわけでございますから、外周上の戦いよりもっと悪いということに……」

 俺は、それでも動揺を押し隠して確認を取る。

「そのとおりでございます」

 木下殿の答えは明快である。


 さらに俺は問う。

「一つご教示願いたく。

 その円の中心の京の価値とは、尾張から見て、どのようなものでございましょう。

 普段から京にいるがゆえに、手前にはわかりかねるのでございまするが……」


 それに対しても、木下殿の答えは明快だった。

「富んでいるのでございますよ、京は。

 京を含む山城一国を支配できれば、京より遠い地三国の価値があり申します。

 田畑に頼らず、富が生み出されてくる、これが京の強みでございます。

 京に代わる地は未だ日の本は生み出せておりませぬ」


 なるほど。

 わかりきっていたことだ。

 京でなければ、絵師の仕事は極めて少ない。

 日の本でも、職人が食えるだけの幅広い仕事があるのは京だけなのだ。

 だが、それが見えているとは。

 しかもそれを、武家でありながら、京の持つ力を天使様、将軍様ではないところから言い切った木下殿はやはり只者ではない。



 京の価値とそれを取り巻く同心円、この二つを組み合わせると、織田殿の打ってきた手さえもがすべて読み解くことができる。

 今川殿との戦さのあと、織田殿は三河と同盟を組まれたと聞いている。

 これは、外周との諍いをせぬためだ。つまり、より内側の円に入るための布石である。

 となれば、三河の松平殿は、みずから内側の円に入る機会を放棄したことになる。

 となれば……。

 織田殿が円の中心、京をおさえた後、その立場が盤石になったら真っ先に討たれるのは松平殿ということになろう。


 俺は、ただただ、かつてないほどの寒さで、背筋が凍りつく思いにとらわれていた。

 外は夏の日差しがかんかんと照っているのに、である。

 これが織田殿と相対して語られるのであれば、ここまでの恐ろしさはなかっただろう。

 一家臣に過ぎぬ木下殿が語るからこそ恐ろしいのだ。


 松永殿も恐ろしかったが、所詮は蛙に対する蛇であった。

 木下殿は、蛙に対する人である。

 そのつもりになれば苦もなく蛙を踏み潰し、つもりがなければ無視される。人にとって蛙は捕食対象ですらないのだ。松永殿と木下殿には、それほどの差がある。

 そして、木下殿の主の織田殿に至っては……。


「棟梁、顔に出ている」

 織田様が、面白そうに俺に話しかけてきた。

 ……そうか、木下殿に説明させ、織田様はそれを聞く俺の表情をていたのか。


 この尾張の国には化け物たちがいる。

 おそらくは、関白様の思惑すら超えるほどの、だ。

 もはや、殿をつけて呼べる相手ではない。


「棟梁。

 さすがに察しが良いな。

 では、その上で問う。

 棟梁のその屏風絵には、上杉殿はもう描かれたのか?」

「まだ、にございまする。

 関白様の御意に沿う形で、これから描き足す手はずでございます。

 我が意としては、織田様を描かせていただきたく……」

「上杉殿を描けばよい」

 ここでまた、俺は言葉を失った。

 将軍様の遺命を継ぐ者、これは普通であれば、誰もが欲しがるはずの二つ名ではないのか。


「関白様は、織田様をたのみにされていらっしゃいます。

 上洛にあたり、先代の将軍様のお墨付きも得られようという話ではございますが……」

 ようように言葉を発したものの、織田様に一蹴された。

「要らぬ。

 それに棟梁。

 お主、このようなことをするのは初めてではあるまい。

 前にもどこかで密かな介入をしておろう?」

 人とは、無限に冷や汗をかけるものなのだろうか。背中から脇腹に伝う冷たい汗を無視し、必死で顔に出ぬように努める。


 たぶん、俺だけではない。

 俺の後ろにいる三人も、それぞれに表情を押し隠しているはずだ。三好殿没落の引き金を引いたなど、口が裂けても言えることではない。


 ただ、幾分かでも助かったのは、俺が無駄な言い訳をするよりも、織田様が口を開くほうが早かったことだ。

 おそらくは、無用に俺を敵に回さぬためにである。

 責め立て、口を割らすつもりであれば、黙っていただろう。


「狩野の棟梁ともなれば、自らの絵に自負を持つのはわかる。

 だがな、先ほどの『足利将軍の御内書を受けるに等しい絵』について、棟梁は絵を描くにかかる金の話から入ったな。それから絵の中身の話をし、最後に関白様を持ち出した。

 話の筋からすれば逆であろう。

 まずは関白様を持ち出し、話に箔をつけるはず……」

「いえ、絵師である以上、自ら描いた絵、そのものを語りたいものにございます」

 無礼を承知で俺は口を挟む。

 挟まずにいられなかった。


「まあ、よい。

 そういうこととして、話を戻そうではないか。

 ……もしや、関白様、その屏風絵について、他のことを仰られてはいなかったか?」

「その他のこと……」

 俺は思わず考え込んだが、背後の小蝶の小声での「棟梁」との呼びかけに一気に思考が繋がった。


「関白様は、『成り立ちし京の静謐を守ることにも使える』とも……」

「なるほど。

 これはいずれ、関白様にお目通りできる日が楽しみであるな」

 そう仰って、織田様は再び笑った。


 つまり、関白様と織田様は同じことを考えられていらっしゃる。

 話がここまで来ると、一介の絵師にはちと荷が重い。


「上杉殿を描け」

 それが重ねての織田様の言葉だった。

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