第7話 真桑瓜騒動ぞっ


 その後も、俺たちの関係は、表立ってはなにも変わらなかった。

 俺の予想を裏切り、直治どのはあからさまに小蝶を口説くこともなく、ただ、物売りから甘いものの一つも買って渡すに留まっている。だが、手元不如意の直治どののこと、その回数も決して多くはない。

 これでは思いなど伝わらぬ。

 複雑な思いとともに、そう思っていたのだが……。


 ただ、それが罪もない事件に繋がったことから、直治どのの思いは工房で知れ渡ることになった。


 そろそろ夏のことゆえ、直治どのが瓜売りから黄蘗きはだ色も鮮やかな真桑瓜を丸ごと一つ奮発し、それを小蝶に渡そうとしていた。

 右京には結構畑地もあることから、申し分なくみずみずしいものが売りに来られているのだ。

 ただ、受け取った小蝶とて、他の者と分け合って食べるので、自分は甘いものを切り分ける役を頼まれたとしか思っていないのだが……。



 直治どのは、いそいそと工房横の井戸に真桑瓜を沈め、冷やしだした。見ている俺としては、微笑ましいというか、健気というか、その一方で腹立たしいというか、忌々しいというか、複雑極まりない感情が湧く。

 工房の棟梁として、「俺も、俺も」と同じことができるわけもない。したとしても、全員に対してであって、小蝶のみに対してなど、できるはずもない。


 それはともかく、そのあと直治どのが手水ちょうずを使いに立ったところへ、間が悪く信春が帰ってきたのだ。

 「暑くなったなぁ」などとお気楽に呟きながら、信春は冷水を飲もうとして、井戸の中に吊るされている真桑瓜に気がついた。


「誰のものかな?

 一欠け貰うぞ」

 との声と同時に、止める間もあらばこそ。

 刀子が差し込まれ、くり抜かれた一欠けが信春の口に収まった。


 そこへ直治どのが戻ってきたのだから、不穏なものにもなろうというものだ。

「今、なにをしたっ!」

 齢十四の人間の出す声ではない。

 直治どの、城主の息子ともなれば、戦場での下知の声の出し方というものも知っているのだろう。


「あ、いけなかったか?

 なら、早く言え」

 と、信春め、平然と返したものだから話はややこしくなった。

「新しく買って返せっ!」

「なんでだ?

 まだ、ほとんど手はついておらぬぞ。

 切り分けて食えばよいではないか」

「許さぬっ!」

「なんだ、瓜一つで大げさな……」

 あとはお定まりの言い合いである。


 とはいえ、年長で身体の大きい信春が、ことつかみ合いともなれば、武士の子である直治どのにはまったく歯が立たぬ。直治どのから手が出ることはないゆえ、ゆえに、言い争いにとどまるのはありがたいことではある。

 ともかく、武士の子、それも城主の子ともなれば、どれほどの種類の稽古を積み重ねているのか、底が知れぬ。


 その直治どのだが、俺や信春にはこのように物が言えるのに、小蝶に対してはほとんど話せぬ。絵のことなら話せるのに、それ以外のこととなると、壊れかけの水車のように舌の回転は覚束ぬ。

 話せないから口説けぬ。それを自らわかっているゆえに、物売りから甘いものを買うのだ。

 こう話を並べると、なんともしょうもない話である。

 だが、そこは直治どのも必死なのだ。だからこそ、ここでは信春のつまみ食いに対して引けぬ。


 だが、手強い直治どのに手を焼いた信春はこともあろうに……。

「……直治、わかったぞっ。

 この瓜は、小蝶どのに渡したかったのだろう?

 最近、お前、なにかと小蝶どのに甘味を渡しておるものな。

 お前、小蝶どのに懸想しているのか?」

「この、うつけがあっ!」

 直治どのの顔色は蒼白から一瞬で赤く染まり、六つも歳上の信春を面罵し、とりあえず黙らせた。というより、論争の中身を変えた。信春が、そのまま黙っているはずがないのがわかっているからだ。

 

 俺は、頭を抱えた。

 そもそも信春よ、そのようなことを問うのに、なぜいつものとおりのでかい声で聞く?

 小蝶は挙動不審となって礬水どうさの鍋をひっくり返し、盛大に湯気を噴き上げる。

 信春と直治どのは、互いがうつけかどうかで揉めているし、もう、仕事に差し支えること、夥しい。お前たちは二人共、十分にうつけではないかっ!

 


 ……そこから先は、もうくどくどと話すまでもあるまい。


 結局、棟梁たる俺が双方と小蝶をなだめ、新たな真桑瓜を十も買い、工房全員に行き渡らせることになった。

 予定外のとんでもない出費だ。

 俺だけが損をしているのではないかと思うのだが、この思い、そう外れてはおるまい。



 まあいい。

 ともかく、仕事は仕事である。

 さすがは父で、大徳寺の涅槃図を描きあげた後は、どのようにしたのか、そのまま障壁画の注文まで受けてきていた。描くのはまだ先にせよ、父の商才には恐れ入る。俺にはまだ、とてもこの真似はできぬ。


 工房の方も忙しい。

 小さな絵、扇絵など、描いても描いても終わらぬのだが、これが腕を上げる近道ともなっている。

 信春、直治どの、小蝶は当然のこととして、その他の者も確実に腕を上げていた。否応なしに毎日描かせられる、これはとても大きいのだ。

 近頃工房に出入りするようになった我が弟、秀信も齢十歳にして粉本による絵修行を終えようとしている。近いうちに、秀信も大きな我が力となってくれよう。



 ただ……。

 絵修行の行き着く先は、やはり人による。

 どこまでたどり着けるか、さらに一皮むけるか、それはもう才だけでなく巡り合わせや運というものなのかも知れぬ。


 ここへ来て、信春と直治どのに微妙にだが、明確な差が現れ始めていた。誰にでもわかる差ではない。よほどの手練でなければわからぬし、直治どのは気がついていても、信春は気がついておるまい。

 信春の筆の方が、伸びやかに上を行くようになってきたのである。

 それに対し、直治どのの筆は、相変わらずどこか生硬さが抜けきらぬ。


 それは、二人の心にも大きな影を落とし始めていた。

「そろそろ高弟として、狩野を名乗ることを許そう」

 俺の許しの言葉に、信春は言を左右して逃げの手を打った。


 おそらく信春は、内心、狩野の棟梁たる俺の筆をも超えたと思っているのであろう。

 そろそろ七尾に帰り、そこから新進の天才絵描きとして名を売ろうと考えているに違いない。

 なれば、自ら狩野を超える一派を立てようと考えるであろうし、その際には狩野の画名は邪魔になる。

 相変わらずの信春に棟梁が勤まるかは見ものだが、時流の波に乗れば一気に派を大きくすることもありうるだろう。このような波、なかなかに馬鹿にできないものなのだ。


 それに対し、直治どのは絵筆の硬さがそのまま生き方の硬さにも繋がるようで、狩野の名乗りを素直に喜び、受け取ってくれた。

 これで、直治どのは、いずれかの大名家への仕官の道が拓けたということになる。直治どのなれば、絵描きのみの者として仕官するのではなく、絵も描ける者として重宝されるはずだ。

 まだまだ世は荒れる。

 なれば、出世の機会も多く、どこぞの家老は狩野の名も持っているなどという例すらありうるし、直治どのなれば先が楽しみであろう。


 ただ、それは俺の見るところであって、直治どの本人は、俺に対しても小蝶に対しても引け目を感じているようだ。自分は一派を立てるほどの腕ではないという、その思いが引け目に通じているのだ。

 そして、まだまだ直治どのが幼いと思うのは、「なら信春のような男であれば小蝶の気を引けるのか」という視点がまったくないところだ。信春のような男とともに生きていく方が危ういではないかと思うのだが、その当然の視点がまだないのだ。


 一方で、小蝶は信春の失言以来、自らの心を外から窺わせるような真似をしなくなった。女性がおのれの心を本気で隠そうとすれば、古歌の「しのぶれど 色に出にけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで」などということはないのではないか。



 結局、俺をして、小蝶の件、この先どうするかの決心もつかぬまま……。

 俺を始めとする京の町衆の打った手は、着実に効果を出していた。


 三好長慶殿の嫡男、義興殿が亡くなったのである。

 死因は黄疸と聞く。長くに渡って盛られた砒素の毒が、肝の臓を損なったのであろう。

 同時に町衆たちは、「この件の真相は松永久秀殿による毒殺」という噂を流し始めていた。

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