第9話 深夜の遠足ぞっ
信春と直治は、夜昼を徹して京から大阪に向けて歩いていた。
疲れ果ててはいるが、この無理があとで効いてくるのだ。
京から大阪を抜け、久米田まで。
直線でも十二里はある。
これを休みなしで荷物を担いで歩くのは、共に上洛のために旅をした経験がある二人でもきつい。
京を出てしまえば、物売りの数もぐんと減る。七分搗き米の握り飯は数を持ってきていたが、最初の夜の間に食べ尽くしていた。
大阪は街が小さく、物売りの数も多くはない。
また、あまり人目につきたくもない。
とはいえ、どうにも空腹に耐えかねて、物売りの固くなった不味い団子を買い占めたものの、それも程なく食べ尽くした。
ついに信春は紙子の袖を引き裂き、口に運ぶ。
和紙は直接食べられるものではないが、それでもネリと呼ばれるトロロアオイの汁が含まれている。噛んでいるとそれが溶け出してくるので、唾に混じったそれを飲み込む。また、ほのかな塩味も付いている。
旨いものではないし、空腹も満たせないが、それでも口に何かが入っているのは救いだった。
通常は柿渋で染め固める紙子を、薄墨で染めたのはこのことを考えていたからなのだ。袖のほのかな塩は、染み込ませた味噌に由来している。
今日明日は、雨は降らぬ。
降ったら
そして、月は細い。
今晩はまだしも、明日の帰り道は糸のように細い月の闇夜を歩くことになる。
決行がこの日なのは意味があるのだ。
大阪を出てさらに南下するが、足元は良くない。ぐすぐすの湿地帯を足を濡らしながら歩き続け、ようやく彼方にこんもりとした丘が見えだしてきた。
ようやく着いたのだ。
この丘は、貝吹山城。三好軍が陣を敷いている。
間違っても近づいてはならない場所だ。
ここへ来て、直治が信春を先導する。
直治は、絵図面から目的の場所に迷わずにたどり着く
直治は城主の子である。一軍を率いる立場になるやもしれぬ。そのときに、初めて足を踏み入れる合戦場で、一軍もろとも道に迷っていたら話にならない。だから、直治はそのような調練の経験もあるのだ。
直治の足取りが慎重になったのに比べ、このような場でも信春は平然と歩を進める。
おのれの描いたものにも、なんの疑問も持っていない信春は、おのれの歩にも迷いがない。
天賦の才とは、蛮勇と紙一重なのかと思わせるものがある。
直治の歩みがさらに遅くなった。
構わず追い越そうとする信春を、直治は腕を掴んで止めた。
「物見の者が出ているやもしれません。
出くわすとあとが面倒」
小声での早口に、闇夜でも信春の驚きが伝わってくる。
おのれの歩く先はわかっていても、戦場での慣らいを信春はやはり知らない。
ゆっくりと歩き続け、西から貝吹山城を回り込んでいく。
東側は、巨大な溜め池があり、進退に窮してしまうからだ。
すぐに、川にぶつかった。
「この川沿いで」
「川は渡らんのか?」
「退路を失いかねません。
それに、荷が濡れると……」
「わかった」
信春は素直に頷く。
やはり、暗闇の中、このような物騒な場所にいるのは怖いというのがあるにせよ、それ以上に直治を信用しているのであろう。
川原も葦の生えているところは隠れる場所に困らない。また、水音が話声も打ち消してくれる。物見の者に出くわす心配はあるが、そうは見つからないだろう。
その葦と、狩野の源四郎の作った竹ひご細工を使って、信春は背中に背負ってきた大判の絵の束を広げ、立てていく。
そして、実はこの描くのに使われた墨も、信春の案により細工があった。
紙は、片面は墨で塗りつぶしてある。
したがって、丘の反対側の畠山・六角軍からはこの紙は見えない、
もう片方の面は
直治も信春と同じく、大判の紙を立ち上げていく。
これも同じく、片面は墨で塗りつぶされている。
さらに、直治は唐人から買った黒い粉を筋状に撒き、準備は整った。
− − − − − − − − −
月の細い夜の物見は恐ろしい。
夜襲の可能性が最も高いからだ。
新月のときは如何に工夫をしても同士討ちが避けられず、満月のときは事前の発見が容易だ。だから襲われる危険は比較的少ない。
だが、今日は新月まであと四日、月は細いが光はある。夜襲日和とさえ言ってよい。
ただ救いとなるのは、ここは周囲に比べていくらかでも高さがある。もともとの古墳であり、今は貝吹山城と呼ばれている。
ここには、三好の軍約七千が陣取っている。
そして、南西を流れる春木川の対岸には、六角軍と同盟を結んでいる畠山軍が陣取っている。
すでに、膠着状態は七ヶ月に及び、「このまま何事もなくお互いに陣を引くことができれば」と夢を見る者が増えてくる頃合いであった。
物見の者たちは、体の底に溜まっている疲れを無視し、暗い湿地帯を見渡し続ける。
「あれを御覧じろ」
ふいに一人が声を立てる。
それを聞いたもう一人の者も目を凝らす。
確かに、今、光が瞬いた。
稲光かと思う瞬きであった。
もう一度稲光があれば詳細が見えるのに、という願いは即座にかなえられた。
「報告!」
「夜襲か!?」
「いえ、ただ、その恐れはあり!」
「どういうことか?」
聞いたのは、この軍の大将、三好
深夜に叩き起こされたにもかかわらず、その双眸は冴えていた。さすがは三好の惣領の弟である。
「畠山に援軍あり」
「旗印は見えたのか?
数は?」
「織田木瓜の
数については夜のことゆえ、確認しきれず。ただ、幟の数三十は下らず。
また、騎馬武者の姿も数騎見えました」
「夜陰に潜んで密かに陣を厚くし、明日にでも攻め入ってくるつもりか」
「おそれながら!」
実休と物見の話に割り込んだのは、三好盛政、実休の前衛を守る武将である。
「物見に見えたということは、畠山の陣よりこちら側にいたということになろうかと存ずる。
合戦中ならともかく、援軍が彼我の間を通ることなどありましょうや?」
確かにありえないことだ。
だが、実休は考えを巡らせる。
「わしも通常であれば、盛政と同じように考えようが……。
また、通常の援軍であれば、起きていることは一つと考えられようが……」
「ということは、どのような?」
「東から来たりて、道に迷えば久米田池に行き当たる。
それを迂回すれば、このような結果になることもあろう。
だが……、問題なのはそちらではない。
尾張の織田は、あの今川を討ち取った奇策、詭道の使い手よ。なにを仕掛けてくるかわからぬ。
その策の一つという可能性は捨てきれぬ」
「……確かに」
そこまで説明して、実休は黙り込んで考えを巡らせた。
「明日、ここ貝吹山城を出て、野戦にて一気にかたをつける。
周囲は平地、野戦であればどのような小細工もできぬ。兵の多寡も、今なら問題にならぬ。こちらは後詰めとして貝吹山城が使えるからな。
また、明日朝なら織田軍も行軍の疲れが残っておろうし、編成に組み込まれることのない遊兵、すなわち死に駒じゃ。その隙を突く。
よいな?」
「はっ!」
「盛政、前衛篠原長房隊、三好康長隊、三好政康隊にもこの旨を伝えよ」
「はっ!」
「夜明けとともに準備し、巳の刻には攻めかかる。
よいな?」
「はっ!」
この判断は拙速であろう。
だが、実休は思う。
兵道は拙速を尊ばねばならぬときがあるのだ。
※遠足は「とおあし」とお読みください。
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