第10話 話は通せたっ

 

 俺は、松永久秀様の前にいた。

 そして、蛇の前の蛙のように、ただ、ただ、呑まれていた。



 京の夏はやたらと蒸し暑い。

 その暑い日差しの中、俺は将軍様に会って話を通し、その結果として松永様に直接お目通りすることになった。

 将軍様は、「直接話すが良い」と、口を利いてくださったのだ。


 俺が松永様のお屋敷に向かう頃には、俺の後を付ける者はいなくなっていた。やはり、付きまとっていたのは、松永様の手の者だったのだろう。

 暑い中、うっとおしいのがいなくなって、一時でも俺はせいせいした気持ちになったが……。


 俺を見張る者がいなくなったということは、逆に緊張感をさらに高めた。見張る必要もないほどに、松永様の手のひらの中に落ちたということに他ならないからだ。

 蛙が自ら呑まれるために、蛇の前に伺候する。

 まさしくそれが、今の俺の感覚だった。




 お目通りしてみれば……。

 異相というのであろうか。

 年配であっても、美醜で言えば明らかに美丈夫ではあろう。

 だが、その目は白っぽく底光りしており、黒目が本当に黒なのか疑わしいほどだ。

 もしかしたら、暗闇の中ですら灯火のように輝くのではないかと疑わずにいられない。


 その目は今、ひたりと俺に据えられている。

 俺という蛙がどの方向に跳ねて逃げるかを、すべて見透さんとしているとしか思えない。

 いや、それどころか、すでに蛇の喉に俺の身体は半分呑まれているような気すらした。


 歳は五十ほどと聞いているが、どう見ても四十代前にしか見えぬ。髪も黒い部分の方が多い。将軍様が年齢よりはるかに老けてしまっているのは、この男に生気を吸われているのではないか。そんな深刻な疑いを、俺は抱く。


 俺の姿をさんざんにいたぶるように眺め、満足したのか松永様から言葉が漏れた。

「絵師とは汚なきものよ」

 いきなり、ずいぶんなごあいさつではないか。

 俺は平伏し、顔を見られないようにした。

 松永様の家臣もこの場にはいる。表情を読まれるわけにはいかなかった。


「なにも言うことはないか?」

「おそれ多いことにて」

「それでは用が足るまい」

「将軍様から伝えていただきましたように、洛中洛外を描くにあたり、松永様のお屋敷を描かせていただきたく、お願い申し上げる次第にて」


 俺の頭の上に、松永様のくひくひという笑い声が降り注いだ。

「やはり、絵師とは汚なきものよ」

「そうでございましょうか」

 聞き返すものの、氷で背筋を撫で続けられているような怖気は止まらない。



「このわしが頷いたということになれば、各武家屋敷はどこも描きやすくなるものなぁ」

「それは、他に替え難き松永様の御威光にて」

「わしに話を通せば、その御威光とやらで、その身が安全になると踏んだか」

「はい。

 我ら、怖いものはよく知っております」

「妹は可愛いものなぁ」

 俺、必死で顔に感情が浮かぶのを抑えた。

 怒りも怯えも、この男の前では露わにしたくない。


 すでに、俺に妹がいることは調べ済みだということだ。

 そして、俺がこの男に逆らったら、俺の身にではなく、小蝶の身に何かが起きるという警告であろう。

 もしも小蝶の身になにかあれば、俺はこの男の喉笛を喰い千切ってでも仇を取る。そう決めたが、それでも顔にはどのような感情も出せぬ。


 そして……、実際には、おそらくこの男の喉首に食らいつくよりも早く、俺はずたずたに斬り刻まれているだろう。

 いくさに出て人を殺めたことがある武家と、絵筆しか持たぬ絵師では勝負にならぬ。

 だが、なんとか一矢を報いたい。

 それは、俺の心の底に灼け付くように残った思いだった。


「今更、わしへの恩を売るために、将軍様に塗輿免許の口利きなど片腹痛いわ。

 わしももう五十になる。そのような人に担がせた挙げ句、遅い乗り物などに乗るほど無駄な時間はわしには残っておらぬのよ」

 人に担がせる?

 遅い乗り物?

 まさか、昇殿を許されている正五位下、弾正少弼の身で、輿を担ぐ方の痛みがわかると言うのか?


「のう、狩野の棟梁どの。

 そもそも可怪しいと思わんのか?

 絵師というものは、人が人を担ぐことの可怪しさにも気が付かんものなのか?

 ならば、絵を描くためのまなこは、世を見るには節穴ということになろうな」

 俺は反論しかけて……。

 慌てて、平伏した。

 恐ろしい。

 俺の背筋どころか腹の底に、むき出しの氷の塊を突っ込まれたようだ。悪寒が止まらない。


 人を乗せて自在に動くためには、牛馬ほどの力がある生き物が必要だ。人が人を担いで移動させることは、そもそも無理があるのだ。

 そのようなこと、気がついていないわけではないが、松永殿が確認したいことは、俺がそれに気がついているかどうかではない。俺が、松永殿の言葉を賛じるか、反論を唱えるか、それを見たくて争論を仕掛けてきたのであろう。

 「絵師とは」という言い方もそうだ。

 「俺は違う」「狩野は違う」などと、俺に反論させるための罠なのだ。


 俺には、応じる手が二つある。

 今からでも反論し、底の浅い男だと見せつけるのが一つ。

 このまま平伏を続け、思慮がありそうに見せるのが一つ。

 だが、どちらの手を取るにせよ危険はあるし、俺の器では騙し通せはしないことだけはわかる。

 ならば、せめて将軍様の真意、三好殿と松永殿を遠ざけたいという意思だけは見透かされるわけにいかない。

 話の角度を変え、煙幕を張るしかない。

 通用はせぬだろうが、時間稼ぎくらいにはなろう。


 「この先、水車のようなもので車の輪を回し、牛馬すらいらない世が来るやもしれませぬ。それどころか、鳥のように空を飛ぶことさえも。

 人の力で人を運ぶことは、それまでのとして、やむをえぬことかと」

 我ながら突拍子もないことを言っている。

 俺は、松永殿の注意を逸らす手に出たのだ。ついでに言えば、このような反論をすることで、的外れのことを言う男と取られるのは歓迎すべきことだ。


「ふむ。

 面白いではないか。

 絵師とは、馴れぬ謀りごとを見透かされるのが仕事かと疑っておったぞ」

 皮肉にも程がある。

 そして、そう皮肉られても仕方ないほどに、俺たちの考えは底が浅かったのかもしれない。

 もしくは、この手で来られることをあらかじめ考え、警戒していたかだ。俺たちは、陣を敷いて待ち構えている正面に姿を現してしまったのだ。

 とはいえ、率直に言って「面白い」と言われるとは思わなかった。


「お戯れを。

 若輩ながら、手前は狩野の棟梁、絵描きでございます」

「ふん、よかろう。

 では、わしの屋敷を描くことを許そう。

 三好殿、細川殿も描くが良い。わしが話を通しておこう」

「これは望外のありがたき幸せ」

「代わりになにをよこす?」

 さすがにここで俺、絶句した。


 これは敵わぬ。

 俺たちの持てる対抗策など、蟷螂の斧にもほどがある。

 俺の心が音を立てて折れ、打ちのめされたとさえ感じる。

「将軍様の命ですぞ」などという建前は、この相手には通用しない。

 それどころか、末々までタカられるであろう未来が俺には見える。狩野の家の屋台骨すら揺るがされかねない。


 再び、くひくひという笑い声が響いた。

「ほう、天下の御用絵師、狩野の棟梁が困っておる。

 これは面白い。

 よこすものがないのならば、扇製造の独占権、わしが貰うておこうかの」

 ちっ、この性悪のくたばり損ないめ。

 それを盗られたら、狩野は二度と立ち行かぬ。


 父は、父はなぜ、こいつと互角に渡り合えていたのだろう?

 俺、腹芸は父には敵わぬが、父のその腹芸の元は……。


「松永様。

 取引いたしませぬか?」

「ほう、若棟梁がわしになにを持ちかける?」

 くっ、若造と言いたいのであろうな。


「京の町衆に流れる噂を、逐一お知らせいたしましょう。

 噂ゆえ、確度は高くはないとも言えますが、京の町衆がその噂に沿って動いて儲けているのも事実。

 ですが、これは、お屋敷を描かせていただく代償としては過分なもの。なんせ、このあたりは町衆の生命ともいうべき見聞にございます。

 なので、武家に流れる噂話と交換させていただくということで、この相互の関係を献上いたしましょう」

 くっくっくっと、松永様の笑い声が漏れる。


「町衆の狩野の棟梁が、その噂をなんに使う?」

「織田殿が今川殿を討つような不慮のことがあると、狩野も派として困るのでございますよ。

 今川殿から依頼を受けていたらと思うと、ぞっといたします」

「……進物に使うような絵の依頼を受けていたら、どれほどの損失になった?」

「金一千両」

 ありうる額しては、最大の値だ。


「話を盛っておるのか?」

「金箔、金砂子、金泥、岩群青これらを贖うだけで、莫大なかねが必要になります。

 贖うきんも、絵の具に使うとなれば純度が高くなければ色が出ませぬ。結果、かね一両出しても使えるきんは、その半分の重さしか手に入りませぬ。

 岩群青などの岩絵の具もただでさえ高価なのに、それを絵に使えるようにするためには、人の手で念入りに砕かねばなりませぬ。

 麦を石臼で粉にするのですら難事なのに、石を粉にするのは途方も無い労力が必要になります。

 そのために、我が派には多くの者たちが寄宿しており、扇を作らせ、飯も食わせているのでございます」


「なるほど、損を恐れる心根はわかる。ようやく本音が聞けたわ。

 ではその話、乗ろうではないか」

「ありがたき幸せ」

 ようやく俺は、内心で安堵のため息を吐いていた。

 しかし、俺の本音を知るために俺を脅したというのか。とても信じられぬ。まだまだ松永様の底は見えぬ。


 だが、絵を描くのみのことであれば、ようやく先に進めるようになった。

 御用絵師として、ようやく務めを果たせるのだ。

 まだまだ未来さきは見えぬ。

 だが、せめて絵筆を握り続ける覚悟くらいは持ち続けたいものだ。

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