第5話 心の臓が一つでは足らぬっ


 関白様のお屋敷に伺う日、妹の小蝶がいそいそと新しい烏帽子を出すのを俺は止めた。

 今回お伺いするのは狩野家の者としてではない。あくまで四人の絵師のうちの一人ということであり、当主の一族風を吹かせてはならないからだ。

 でないと、勝負の公正さに疑いを持たれてしまう。

 俺とて、少なくとも取り決めは忠実に守ったのである。痛くもない腹を探られたくはないのだ。

 なので、あえて普段着に近い小袖に普段使いの烏帽子で、中堅絵職人の風体をとりたい。


 俺の意を聞いた小蝶は、おそろしく不満そうに頷いた。

 こいつめ、俺のことを着せかえ人形だとでも思っているに違いない。

 関白様のところに伺候するというのに、いつもと同じ格好で飾り立てられないのが残念なのだ。


 小蝶が俺の手を取る。

 妹でありながら、いつになく距離が近い。近すぎる。

「兄上様、お祝いの膳を用意してお帰りをお待ち申し上げております」

「よせ。

 勝って当然、負けて失うだけの絵競いだ。

 祝いなど必要ない」

「兄上様、私がお祝いしたいのです。

 お許しをいただけないものでしょうか?」

 そう言って、大きな目で俺を見上げ、握った手をぶんぶんと振る。


 どうやら、なにかを期しているらしい。

「好きにするがいい」

 結局、半分は面倒になって、半分は妹可愛さに負けて俺は頷いていた。



 近衛様の屋敷に向けて歩き出したのは七人。

 父直信、宗祐叔父、俺、工房の中堅が一人、そして、能登国から来た俺より年上の新参絵師、肥前国から来た俺の年下の新参絵師である。父にはお付きの者が一人付き従っている。

 年下の新参はまだ前髪の残る姿だが、立ち振舞いは折り目正しくまさに武士のそれであった。

 高弟はいない。おそらく、時間のない中で辻褄を合わせて仕上げた絵を、祖父の目は良しとしなかったということなのだろう。




 関白様の声は、大きく力強かった。

 そして、お言葉にお公家様にありがちな婉曲はなかった。言葉の選び方からして、公卿というより武将のそれなのである。

 このとき、関白、近衛 前嗣様は二十三歳。越後国の長尾景虎を始めとする各武将と意気投合して酒を酌み交わし、鷹狩りと乗馬をくする、質実剛健なお方と聞いている。

 武家の生まれと言ってもおかしくない方なのだ。


 関白であり五摂家筆頭の近衛様が、たかが絵師に声がけするなど普通ならば考えられないことではある。だが、自らの好みのことゆえ、人伝てを繰り返して伝えることを愚かとお考えになられたのではないだろうか。


 加えて今回、上洛して名を上げようと狩野の家に入った者たちにしては、最大の機会である。描いた者皆、精魂込めるなどという言葉で表せられるような生易しい覚悟ではなかった。まさしく命懸けで描いたのである。

 それが、関白様の心を動かす凄みとなったのであろう。



 四枚の絵が、無地の屏風に掛けられている。

 俺の絵は、左端だった。


 関白様のお屋敷は、陽の光が庭を明るく照らし、庭の敷石や緑に散じられた光が建物の中まで差し込んでいた。

 秋も極まってきたものだ。日の位置が下がり、影が薄くなり、いろいろなものが美しく見えるようになってきた。

 こんな場なのに、俺は心の隅でそう思う。

 俺たちは、庇の下に並んで座った。座敷は遠慮したのである。

 

「四名の者に来てもらったが、麿もどの絵をどの者が描いたかを知らぬ。

 あえてそれを明らかにせぬまま感じたことを言おう。

 それもまた一興であろうよ。

 よいな?」

 そう言われて、俺たちは全員平伏した。


「まずは頭を上げい。

 そちたちも絵師として、ものを見なければ話が始まらなかろう」

 そう言われて、俺たち頭を上げる。

 関白様のお付きの者たちが、絵の掛けられた屏風を俺たちの目の前に運んできた。

 そこで初めて、自分の描いたもの以外の絵をまじまじと見た。


 これは……。

 これはなんとも……。

 俺以外の三枚、とりあえずは見事としか言いようがない。どれが選ばれても不思議はない。とてもではないが、駆出しの描く絵ではないのだ。

 少なくとも全員、宗祐叔父に勝るとも劣らぬ。

「相手は田舎絵師」などと甘く見て手を抜いていたら、とんでもなく愚かなことになるところだった。一気に肝が冷えるような気がする。


 密かに父の顔を覗えば、やはり冷や汗を禁じ得ていない。

 父としても、あまりに想定外であったのだろう。


「まずは一番右からじゃ。

 絵としては、麿はこれが一番好きじゃ」

 そう言われて、俺の背中にじんわりと冷や汗が浮いた。

 すでに俺の絵は負けたということになったからだ。


「かの雪舟もかくやという達者ぶり。

 だが……」

 この「だが……」で俺を含め皆の生色が蘇る。


「絵として見る分には良いのだが、部屋にある障壁画としてはどうかな。ちと固く、見る者を身構えさせる。

 これと毎日向き合って生きるのは、麿としてはちと荷が重い。

 床(の間)に掛けるのであれば、一等良かろうがの。

 狩野の絵は豪奢なものであっても、どこかうつくしい※ものぞ。そのめぐさが救いのはずじゃ」

 ふうっと息をつく音が、あちこちから聞こえる。


 命を賭して描いたものが、一番良いと言われながら選が決定しなかったのだ。描いた本人でなくても息を吐きたくなるだろう。


 なるほど、よくご覧になられていると思う。

 祖父の描く花鳥図は写実だけではない。その鳥の表情にはどことなく可笑しみがあり、見る者を安堵させるものがあるのだ。それは、関白様の言ううつくしいという言葉で表すことができるなにかなのである。

 それに対し、これはたしかに見事な花鳥図ではあるが、あまりに表情が厳しい。寺社にふさわしいほどの緊張感なのだ。



「次じゃ。

 これもよい。

 描いたものの才気が迸るようで、見ていて気持ちが良いの。

 自由闊達、何者にも縛られぬ姿は、位人臣を極めた麿にふさわしいと思った」

 ここで、再び息を吐く者が何人も現れた。なぜなら、関白様の言葉が「思う」ではなく「思った」だからだ。


「だが……。

 障壁画は一枚で終わるものではない。

 この才気の迸りを大画として十枚、二十枚と描けるものかどうか……。

 麿は無理かと思う。

 五枚の天賦の才に恵まれた絵と、十五枚の凡庸な絵が並ぶのであれば、麿としてこれを選ぶか迷う」

 ふたたび、複数の息を吐く音がする。


 これは心臓に悪い。

 一つでは足らぬやもしれぬ、などと思う。

 同時に、関白様が直接語りたいと思われた理由もわかった。

 どれも気に入られたのであろう。

 だから、選ばれなかった者に対しても無下にできなかったのだ。

 そしてまた……、狩野の嫡男を落とす危険がある以上、全員を褒めておいて損はない言う公家らしい心遣いもあるのかもしれぬ。だとしたら、言葉使いは武将でも、心の隅々まで武将になりきられたわけではないのだ。


「次じゃ。

 これを描いた者、ちと変わっておる。

 絵を描き馴れておるのであろうが……、同時に描き馴れておらぬ。

 花鳥図の花も鳥も、個々に見れば他の三枚のどれよりめぐいのに、それが組み合わされて大きな障壁画に果たしてなるものなのかどうなのか……。

 草子や扇なら良かろうが、障壁画としてはどうか、な」

 さすがによく見ていらっしゃる。

 指摘は厳しいが、的を射ている。

 だが、誰の絵であろう?

 中堅の絵は知っている。だが、この者の筆致ではない。あえて言えば父の絵ではあるのだが……。


「だが、帰る前に、麿の扇に小さく猿を描いて欲しいものだ。

 猿は麿の干支でな」

 そこまで気に入られたのか。

 これを描いた者、関白様の絶大なる後ろ盾を得たに等しい。


 次はいよいよ俺の絵だ。

 さすがに緊張のあまり口の中が乾く。

「次に、四番目。

 最初は他の絵に比べ、そう惹かれるものではなかった。

 一番最初に選外としたほどじゃ」

 ここで俺の顔色、蒼白だったに違いない。

 


うつくしい ・・・ 可愛い

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