第7話 不始末は見逃せぬっ
不意に関白様、表情を改められた。
そして、裁定のお言葉が下された。
「それでは、聞くがよい。
麿は、狩野に頼むこととしようぞ。
この言の意味、しかと解せよ」
なるほど、俺たち個々ではなく、狩野の家に、狩野の派にということか。
俺たちは平伏し、関白様の次の言葉を待つ。
「これ、源四郎。
そなたの父から隠居という言まで出た以上、覚悟を決めよ。
狩野の家を支える柱として、麿の屋敷の障壁画を描け。
そして、その際には、ここにいる者たちの力を存分に活かせ。麿は、女絵師であってもその力があればかまわぬ。
よいな源四郎、これらの者を御すのじゃ。それができるのは、どこになにを描くのかをわかっているお前しかおらぬ」
俺、額を床に擦り付ける。
「ありがたき幸せ。
精一杯、相勤めさせていただきます」
見事な裁定としか言いようがない。誰も傷つけず、しかも自らはいいところどりをして、より良いものを得ようとされている。おそらく、どうでも優劣をつけろと迫られても、「遊びじゃ」の一言で終わらせるのであろう。
それよりなにより……。
関白様のお言葉を直接聞いた我々自身が、一番勝敗をわかっている。
もう一つ、俺が密かに戦慄していることがあった。
選の中に小蝶の絵が紛れ込んでいたのは、父も意図していないことであっただろう。
その窮地を、隠居という一言で狩野の先々の代替わりまで安堵させてしまった。やはり、父の絵師ではない部分は恐ろしい。ある意味において、関白様をも手玉に取ったのだ。
前々から隠居の意思を俺には漏らしていた。なら、「どうせ近々隠居の意思を示すのならば、先んじて取引材料にしてしまえ」と、そう考えたに違いない。
おそらく、祖父に比べて絵師としての父の名は残らない。
だが、狩野の絵技の祖を祖父とするのであれば、狩野の派の真の祖は父であろう。
再び関白様の言葉が響く。
「源四郎。
だが、実は一つ詫びねばならぬことができたのじゃ。
麿は越後の長尾景虎の元に下向することになった。それが決まったのがつい先日での。申し訳ないことではある。
だが、すぐに戻ってくるつもりじゃ。
よいか、源四郎。
必ずそなたには描いてもらうからの」
俺、再び額を床に擦り付ける。
関白様から、ここまでの言をいただける絵師がどれほどいようか。
まっことにありがたいことだ。
そして、このありがたいことは、狩野の名のもとに祖父と父が積み上げてきたものの大きさに依っているのだ。その大きさがあるからこそ、信春も直治どのもここにいる。
俺は心のなかで、関白様にとどまらず、この縁に関わるすべての人たちに頭を下げていた。
帰り道、全員が必要とされたということで、足取りは皆軽い。
「父上、工房の者たちの絵具、工房で買い上げてもよろしゅうございますか?」
俺が聞く。
こういうときであれば、父も首を縦に振るだろう。
そして、宗祐叔父は、こういうところには絶対に気が付かない。
「源四郎。
お前はあいかわらず甘いな」
父の言葉に、俺、頭を下げる。
つまりはこういうことだ。
今、工房にいる者たちは、今回の絵競いのために自腹を切って絵具を買い込んでいる。だが、その自腹の正体は借金のはずだ。あまりに借金が膨らんでいると、身を持ち崩す原因となる。なんせ、土倉や酒屋から借りた金は利息が高い。百文借りても、月をまたげは百六文、年をまたげば複利で倍以上になってしまうのだ。
こうなると、いつまで経っても返しきれない。
だが、余った絵具を工房で買い込めば、工房にいる者たちも借金のかなりの割合を返却できるはずだ。
元本が大きく減れば利息も減る。そうなれば、借金を返すのも簡単になるはずだ。
信春と直治どのも、露骨と言っていいほど喜びの表情を見せた。工房の皆も喜ぶだろう。
例外は1人だけ、中堅の絵師、石見大夫だ。独り青い顔で、足取りもおぼつかない。
その畏まった顔に、父が問うた。
「なにゆえ、小蝶の身代わりをしたのだ?」
「
「だから、その事情を聞いている」
口ごもるのを、父が強引に聞き出す。
それはそうだ。狩野の家の危機だったのだから。
「実は、身代わりをすれば、黙っていていただけることに……」
「なにを黙るのか?」
「……私め、下働きのおまつと、将来を約しました。私も、いつか高弟と呼ばれる日が来、狩野の名乗りを許されましたら結ばれよう、と。
その逢引きの現場を小蝶さまに見られてしまい、黙していていただきたいとお願い申し上げましたら……。
なにとぞ、なにとぞお許しくださいませ」
天下の往来で、土下座しかねない姿だ。
父のため息は大きかった。
一応の建前では、工房内での恋愛沙汰は禁じられている。
厳格なものではないが、仕事に支障をきたすのはよろしくないからだ。
隠れて将来を約したこと自体は非難せずともよかろう。だが、小蝶の持ちかけた話に乗ってしまったのは問題である。
さらに、どちらかといえば、このような話を持ちかけた小蝶の方がよほど悪い。
そして、小蝶がこの挙に及んだのは、自らの腕に対する自負と女ゆえにそれが認められないという、世の仕組みに対する屈折した思いからであっただろう。
そして実際、小蝶の絵は関白様に認められた。
こうなると、父ですら問答無用に小蝶を叱るわけにも行かない。
小蝶を叱れないのに、この身代わりになった絵師だけを罰するわけにもいかない。
さらに、だからと言って、不問に付すわけにもいかない。
父の悩みが伝わってくるものの、特に俺が口を出したいとも思えない問題だ。
だから、俺はあえて父の心中に気が付かないふりで歩いた。
帰り着くと、小蝶がそわそわと建物の外で待っていた。
お気楽な顔で、「おかえりなさいませ」と声を掛けてくる。
大体だな、礼をする前に手を振るなど、育ちがバレるというものだぞ。
でもって、そのお気楽な顔とは裏腹に、内心では相当に緊張しているのが伝わってくる。頬のあたりの緊張感は隠しようもない。
「小蝶、あとで部屋に来なさい」
父はそれだけを言って、ずいずいと家に入ってしまった。
俺も、少しだけ小蝶を
「小蝶、出掛けに『兄上様、私がお祝いしたいのです。お許しをいただけないものでしょうか』と言っていたな。
自分用にも、なにか馳走を作ったか?」
皮肉を込めて、そう聞いてやる。
すると、小蝶ではなく、石見大夫がその場で土下座した。
おいおい、頼むよ、どんな連鎖だ。
主家筋の兄妹に挟まれて、自分が頭を下げるしかないと考えたのは仕方ないが、天下の往来だからな。しかも、狩野の門前で土下座する奴があるか。どんな噂が立てられると思っているんだ。
「立て。
そして、おまつと一緒に俺の元に来い」
こうなったら、こちらは俺が話をつけよう。父に丸投げする
そう思ったのだが……。
小蝶、お前もか。
往来での土下座が二人になった。
おそらくは、「おまつと一緒に」という俺の言葉で、小蝶もすべてを察したのだろう。そして、おのれのしでかしたことに、ようやく思い至ったに違いない。ついでに、それによって石見大夫とおまつがどれほどの咎めを受けるか、それにも考えが至ったはずだ。
でもって、石見大夫も小蝶が横で頭を下げていたら、自分だけ立ち上がることもできまい。
だがな、おい。
兄に対し、石見大夫と一緒に土下座する妹が世間様にどう見えるか、少しは考えて欲しい。お前たち、場というものを理解していなさすぎだ。
「小蝶、さっさと父上の下に行け。
石見大夫、お前もさっさとしろ。
俺は俺の部屋で待っている」
そう言って俺も自分の部屋に向かった。
まぁ、その場から逃げ出したのだ。
「お邪魔いたします。
石見大夫、まつ、まかりこしました」
「うん、入れ」
俺はそう声を掛ける。
入るなり、二人で揃って、板の間に額をこすりつける。
俺、聞こえがよしの大ため息を吐いてみせる。
二人、さらに小さくなった。
「どうするのが正しかったと思うか」
まずは、そう問うた。
「若様、
「そのようなことは聞いておらぬ。
狩野の家名を傷つけないために、お前はどうすれば良かったのかと聞いている」
「……まずは若様に、隠れてでも正直に打ち明けるべきでございました」
「わかっておるではないか。
二度とこのような愚かな真似はするな」
まずは俺、そう釘を刺した。
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