第8話 甘い考えは捨ていっ
そして俺は、精一杯厳しい顔を作った。
「今回の件につき、処分を申し渡す。
狩野の家の土台を揺るがした罪は重い。
石見大夫、お前は一生飼い殺しだ。
今の長屋住まいは許し、飯は喰わせてやる。
まつは場所替えだ。おつるの元で働け」
予想どおり、2人とも絶望的な表情になった。
まぁ、無理もない。
石見大夫は、給金が無くなり、所帯を持つなど夢のまた夢となる。
朝から晩まで監視付きで、指にタコができるまで絵筆を握らせられるのだ。絵を描かないときにも、
また、おまつがこれから下につくおつるは、必要以上に厳しい女で、使用人の中で最凶とも思われている。おつるについたどの下女も、半年持たずに皆逃げ出してしまうのだ。
これからのおまつは、寝たあとの夢の中でまで、一日中気の休まるときはないだろう。
だがたぶん、俺の処分を聞いた父は笑う。
そして、こう言う。「源四郎、やはりお前は甘すぎる」と。
まぁ、それでいい。
俺は、自分が持つ工房を修羅場にはしたくないのだ。
実のところはこうだ。
石見大夫が一年この生活に耐えられれば、高弟と呼ばれるにふさわしい技量を身につけるだろう。狩野の高弟に求められる技量とは、質だけではない。量をこなせてこその一人前だし、狩野の名乗りを許される重さは肌身をもって知ってもらわねば困る。
そして、ここまでではないにしても、皆それなりの試練を受けて、初めて高弟と呼ばれる存在になっているのだ。
辛さと幸せは、綱のように相
また、おつるは、下女中を徹底的にこき使うことで恐れられている。夜も寝せず、苛烈を極めると言っていい。
だが、これには理由がある。
下女、下働きの女衆は、所帯を持っても自分の家財を管理することができない。自分の財産など、小遣い程度の銭数枚しか持ったことがないのだから当然のことだ。
また、土下座以外の正式な礼も、読み書きも知らない。
これに、基本の学と礼を身に付けさせねば、たとえ下女中であっても、狩野の元使用人として名乗られたら恥ずかしいのはこちらだ。
石見大夫が高弟になり、狩野の名乗りを得て石見の国に帰るなどということになったら、なおのこと。
狩野の名を許された者は、そこの領主にすら会うのである。独りでも仕事をこなせねばならないし、その妻の育ちが下女のままでは通用せぬ。
夫婦で揃って狩野の名を辱めるような事態にならないよう、こちらで考えておかねばならぬのだ。
なので、おつるの仕事は、そのような下働きの女衆が将来不幸にならないように、徹底的にしごきあげることだ。夜も寝させないのは当然のこと。礼法に始まって、ひらがなから簡単な漢字程度の読み書きから、基本の算法程度まで学ばせているのだから。
そして、おつるについた女衆が半年保たず辞めてしまうのはさらに当然のことで、婚姻の儀となってしまうからだ。
だが、そのからくりは既婚者しか知らない。そうでないと、おつるの怖さが減じてしまう。また、学を授けるのも、他の下女中との間で要らぬ不公平感を生んでしまう。
まぁ、そのようなからくりのあるおつるは、元下働きの女衆からの付け届けが絶えることなく、実は相当に裕福になっている。
父も俺も、そこには目をつぶっている。
良い報酬ではないか。
そう思っているのだ。
石見大夫とおまつが、この試練に耐えられるかどうか……。
それはもう、本人にしかわからぬことだ。
……同じ頃。
小蝶も、父にしこたま
「小蝶。
お前のせいで、石見大夫は絵描きとしての道を閉ざされた。
おまつとの仲も、もはや認めるわけにはいかん。
お前は関白様に認められたい一心だったろうが、その考えはあまりに浅墓だった。
お前は、狩野の家名を危うくしただけでなく、二人の人間の未来を奪ったのだ」
父はまず、こう切り出したのだと言う。
十四歳、数えで十五の娘がこれに耐えられるはずがない。
ぴいぴい泣き出したのを、父はさらに責めた。
「そもそも、関白様に偽計を企むなど、万死に値する。
この狩野の主のわしの隠居をもって、ようやく許していただいたのだ。
お前自身の心得違いが、わしを隠居させた。
ええい、その意味がわかっておるのか」
「まこと、申し訳ありませぬ。
なんとお詫びしてよいか。
されど、女子に生まれたこの身がうらめしく、なんとか筆にて身を立てたく……」
「まだ言うか。
この愚か者。
もはや許さぬぞ」
こういうとき、父は怒鳴ったりしない。語気を荒げもしない。
低い声で、怖い眼で
これで大抵は、男ですら小水を漏らすほど怯える。
どうやらこのあたり、父も面倒くさくなったかこれ以上は俺に話さなかったものの、さんざんにやり込めたことはわかっている。
そして、最後に小蝶はこう言ったらしい。
「それでは……。
二度と、二度と絵筆を持つなと仰せになられますか」
「この愚か者めが。
関白様にお前の絵をお見せしてしまった以上、それすら今更できるわけもない。
小蝶、お前は女を捨てよ。
女を捨て、絵にすべてを捧げたとしても、お前の名が残ることはあるまい。だが、自ら選んだ道、おのれの愚かさとおのれの生んだ犠牲を噛み締め、その手でたどるがいい。
もはや、それしかお前には残されておらぬ」
父はそう言って、小蝶を天賦の才だけでは済まぬ険しい道に追いやったのだった。
小蝶がこの道をたどりきれるか、これもまた本人にしかわからぬことだ。
信春と
関白様が戻られたとき、今と変わらぬ腕では、堪能稽古もせず寝ていたのかと疑われよう。
選ばれるということは、楽になることではない。
名を成し派を支えるという、最初の一歩を我らは踏み出した。その苦労を二人は知ることになるだろう。
「源七、ただ今戻りました」
「源四郎、ただ今戻りました」
祖父の部屋の前で、父と揃って帰宅の報告をする。
板の間にそこだけ畳を敷き、その上に敷かれた寝具の中で、祖父はぽかりと目を開け天井を見ていた。
「板目というのも、なかなかにここまでじっくり見る機会はなかったが、よいものであるな。一本の線が一年のいとなみか。
最期の床にいると身に沁みるわ」
「はい」
父が祖父の言葉に相槌を打つ。
祖父の顔は落ちくぼみ、声はかすれている。
否応なく、死期の近さを思わざるを得ない。
だが、絵師としての存在感は健在であった。
「で、やはり、源四郎に決まったのであろう?」
視線はそのままに問う祖父に、俺は「はい」と答えられる安堵を果てしなく感じていた。
「父上、ですが今回、予想以上に良い腕の者がおりましたなぁ」
父が祖父に言う。
関白様に見ていただいた絵を選んだのは祖父と宗祐叔父である。父も今日まで見ていなかったのだ。
「源四郎に敵う者などおらぬよ。
だが、ひとまずは安堵した。良き腕の者が多かったからな」
「はい」
俺の返事には、相当に実感がこもっていただろう。
「そうか。
まあ、源四郎、良き経験じゃ。
ところで源七、土佐の娘はどうなったか」
……土佐の娘とはなんのことだろう?
「父上……。
まさか父上は、小蝶めが石見大夫の名を騙ったのをご存知だったので?」
さすがに、父の語調が険しくなった。
「絵を見てわからぬほど、わしとて耄碌はしておらぬよ。
で、どうだったのだ」
「は、関白様はいたく気に入られた様子にございまして……」
「そうか。
源七、さすがはお前と同じ血が流れているだけのことはある。
これで安心した」
俺にはなにが話されているのか、その内容も真意もわからない。
「源四郎。
ようやくわしにも父の企みがわかった。
小蝶はの、わしの娘ということにしているが、実は土佐家の娘じゃ。
わしの母が土佐家から嫁いだことは知っておるよな」
俺は頷く。
当然知っていることで、今さら確認されることではない。
祖父は、大和絵の土佐家から嫁を貰い、同時に大和絵の技も取り込んだのだ。結果として、狩野は漢画と大和絵の融合を成し遂げている。
父は続けた。
「その兄妹が土佐光茂、その子が土佐光元。この辺りはお前もよく知っておろう。
その光元め、相も変わらず『武士になりたい、武士になりたい』と口癖に申すような男でな。落ち着いて絵も描かずにいたのだが、その勢いで数え十六で女を孕ませおった。
で、どうにもならなくなって、仕方無しにうちで引き取ったのだ」
つまり、俺にとっての小蝶は妹ではなく、はとこだったということか。
「本人は知っているので?」
「当然知っている」
あっけない父の答えに、知らないのは俺だけだったのかと思う。
もっとも、考えれば思い至るところはあった。
小蝶を家に入れるにあたり、母がまったく屈託を見せなかったことだ。なるほど、そういうことだったのか。
「土佐の家は、終わりよ。
光元めがあのざまでは、絵を描く家としては断絶してもおかしくない。そのうちに弟子が継ぐことになろうよ。
となると、なおのことその娘が不憫でな。
先々にいたるまで邪険にされようことは見えておったので、つい哀れになってな。
まぁ、そんなこともあって、土佐の画風を併せ狩野の粉本を学ばせたのだ」
ああ、なるほど。
父の絵と、小蝶の絵が似ているのは、土佐の血がなせる技か。
「女でも腕があれば良いと、関白様は申された。
つまり、小蝶は後ろ盾を得たことになる。
先のことはわからぬが、ひとまずは先が安堵されたということだ」
父の言葉に俺は頷いていた。
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