ファンデーション

増田朋美

第一章

ファンデーション

第一章

暑い日だった。確かに梅雨が明けて、すぐはものすごく暑いものだ。一日中エアコンを稼働させてもまだ足りない位暑いと感じることもあるだろう。それほど夏というものは、本当に困ってしまう季節というか、何とかならないかと思うのであるが、どうにもならない季節でもあった。実は、世のなかには、こういう季節だけではなく、自分の力では何とかできないということは、実によくある事で、ただ祈るか、嘆くか、待つしかないということも、意外に多いことでもある。ただ、それに呼応して、文化というものができてくる。どうしても変えられないことを利用して、音楽作ったり、小説のような物ができたり、ここで書いている、小説も、そう言うことになるのかもしれない。

その日、杉ちゃんと蘭は、掃除用の洗剤を買うため、ドラッグストアに行った。

「嫌になっちゃうな。こんな暑い時に、風呂の洗剤を買いに行かなきゃならないなんてよ。」

と、杉ちゃんが、店の中へ入ると、

「もう、そう言うことなら、ちゃんと管理をしておくんだな。」

と、蘭は杉ちゃんを追いかけて、店に入った。杉ちゃんのほうは、単衣の黒大島の着物を身に着けているが、蘭はちゃんと夏専用の絽の着物を身に着けている。まあ、この時代、着物を着て生活するなんて、ほんの少数しかいないだろう。もしかしたら、おっかない人と勘違いされることもあるかもしれない。そんな中、杉ちゃんたちが、予定通りにお風呂の洗剤を手に入れて、レジの方へ向っていった、ちょうどその時。レジには先客で男性が一人いた。なんとこんな暑い日に、真っ黒いあわせ着物を着ている。

「おい、お前さん、こんな暑い時にあわせなんか着て、暑くないのか?」

と、杉ちゃんがその客にデカい声で言った。客は、びっくりしたようで、後ろに振り向いたが、蘭も彼を見てまたびっくり。なぜか顔にファンデーションが塗られていたからであった。

「お客さん、幾らなんでも、日焼け止めクリームをあるだけ全部何て、買いすぎですよ。他にも欲しがっているお客さんはいるんですから、こんなに大量に買わないで貰えませんか。」

ドラッグストアの店員が彼に向ってそういうことをいうと、

「ええ、それはそうなんですが、二時間おきに塗りなおさなければならないので、すぐに使い果たしてしまうものですから。」

と、彼が言った。

「はあ、よほど日に焼けたくないんですか。もしかして、ゲイとかそういう方ですかね?」

と、店員が疑わしくいうと、

「そういうものではありません。ただ、これがないと、外へ出られなくなってしまうので。お金はちゃんと払いますから、10個頂けませんか?」

「はああ、なるほど。」

と、杉ちゃんが何か聞き覚えがあるように言った。

「お金の問題じゃありません。他にも日焼け止めクリームを欲しがっている人はいっぱいいるんですから。雪肌精は人気商品です。一度に10個ももっていかないでください。」

店員が改めてそういうと、

「まあまあまあまあ。そうかっかするな。こいつがさ、ちゃんと金を払うって言ってるんだから、その通りにしてやればいいじゃないか。それでいいじゃないかよ。どうせ、お金は儲かるんだから、いい方に考えよう。ほら、予定通り、雪肌精を10個、売ってやれや。」

と、杉ちゃんは、彼らの間に入って、そういうこといった。

「しかし、どうして一度に10も買っていくんですかね?」

店員はまだわからないという顔をする。

「あのなあ、男が化粧するっていうのは、よほど事情がない限りしないもんなの。お前さんももう少し、勉強しような。あの有名な映画の主人公と一緒だろ?だったら、そういうやつには、必需品だから、そうですか分かりましたって言って、売ってやればそれでいいの。こういうやつもいるんだって思うくらいにしておけ。」

と、杉ちゃんはカラカラと笑った。

「ほら、全部でいくらになるんだ。早く金額を言ってやりな。」

「はい。雪肌精一個、3500円だから、35000円です。」

と、店員がいうと、彼は分かりましたと言って、その通りに三万五千円を財布の中からだした。店員は、はい確かにとだけ言って、それを受け取った。

「領収書はいりますか?」

「ええ、持ってきます。」

当然のようにそういう彼に店員は領収書を渡した。杉ちゃんが、序にこの洗剤をくれというと、

「あ、先ほどの御礼です。其れなら僕が払います。」

と先ほどの男性が言った。ちなみにお風呂の洗剤は、一瓶300円で、雪肌精に比べると大変安いものであったが、彼は、何も言わないで300円をだした。

「僕にも領収書を出してくれ。よろしく頼むぜ。」

と、杉ちゃんがいうと、店員は、分かりましたと言って、杉ちゃんにも領収書を渡した。

「さ、用が済んだし、これで帰るか。其れにしてもお前さん、こんな暑い日にあわせの着物なんか着て暑くないの?」

杉ちゃんが先ほどの疑問を彼に話すと、

「いや、あわせしか着られないんですよ。絽は穴だらけでそこから光が入ったりすると、困ってしまうので。正絹は光を吸収してくれるので、ありがたいのですが、あわせしか着られないのは、仕方ないですね。」

と、彼は答えた。蘭は、雪肌精を10個買ったことと、絽の着物が着られないことを考えると、ある疾病が浮かび上がる。それは杉ちゃんのいう通り、有名な映画で取り上げられたこともあったが、実際は映画のようになるのは、ほとんどないということも蘭は知っている。

「まあ、良かったな。お前さんにとって、雪肌精もファンデーションも命の次に大切と言っても過言ではないよな。ああいう無理解な店員がいるのもしょうがないと思うけど、でもお前さんには、そういうものなんだから、気にしないで堂々と買えばいいよ。」

と、杉ちゃんはカラカラと笑った。

「先ほどは、手伝ってくださってありがとうございました。御礼に、何か出させて頂けませんか?」

という彼に、

「なにかって何だ?」

と杉ちゃんは言った。

「ええ、つまりこうするとおかしいのですが、お茶でもどうかということです。」

「ああ、そうですか。ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えて、御願いしようかな。」

と、杉ちゃんがそういったので、ドラッグストアの近くにある、カフェテリアに行くことにした。こういう風にすぐに仲良くなってしまうのが、杉ちゃんのやり方である。蘭は、全く杉ちゃんというひとは、人にたいして距離が近いなと、思いながらと二人について言った。

とにかく道中は暑かったが、カフェテリアはすぐ近くにあった。杉ちゃんも蘭も、段差のない店だったから、すぐに入ることができた。

「それで、お前さんは、いつからファンデーションを使うようになったわけ?」

杉ちゃんが、カフェテリアの席につきながら言った。

「ええ、高校を出て、美容学校に言ったんですが、それを出たあとからです。先日、腫瘍の手術をしたんですが、それから特に気を付けた方が良いと言われたもので。」

と、彼は杉ちゃんの問いかけに答える。

「ああなるほどね。お前さんはいくつなの?」

杉ちゃんがそう聞くと、

「35歳です。」

と彼は答えた。

「なるほど。それで、腫瘍の摘出手術をしたということは、かなり遅くなってからですね。それでは比較的軽い方でしょう。良かったじゃないですか。日本人は重症になりやすいと言われますが、そうではなかったということですね。」

蘭が、できるだけ重くならないように気を付けながら言った。

「ええ、逆に、重症な方のほうが、ガスマスクをつけて生活したりとか、そういう風に目に見えてわかる方が逆に良いと思っているんです。僕みたいに、軽い人は、先ほどのように日焼け止めを大量に

買ったり、男のくせに化粧をしなければならなかったりして、逆に理解されるのは難しいと思っています。」

「はあなるほどね。確かにちょっと違うなというのは、日本人にはなかなか理解されるのは難しいよね。まあ、有名なあの映画とは、全然違うと思うけど、名前は同じということで、それでよしとしておきな。」

と、杉ちゃんはカラカラと笑った。

「そうですね。色素性乾皮症も、色んなタイプがありますからね。ガスマスクをして生活しなければならない人から、化粧で済んでしまう軽い人もいるんですね。それに甲乙つけるのは、だれにもわからないということかな。」

蘭は、ちょっと複雑な気持ちで言った。

「まあ確かに、男が化粧するというのは珍しいけどさ。でも、今はなんでもありの時代だと思うから、お前さんもちっとやそっとのことでびっくりせずに、堂々と生きや。」

と、杉ちゃんは彼の方を叩いた。

「しかし、雪肌精を大量に買い込むというのは、お金がかかりますね。」

蘭が心配そうに言った。

「ええ。まあそうですね。こればかりは仕方ないことです。ひどい時には、ひと月で100は使ったこともあるんです。驚く数字でしょうが、比較的少ない方です。だから、そんなに高いものではないと思っています。」

「比較的少ない方か。確かに、紫外線に触れて、皮膚がんになりやすいというのは、どのタイプにも共通しますからね。まあ、それにかかる年代はタイプによって違うけど。」

と、蘭は彼の話に付け加えた。

「タイプってどんなタイプだ?」

杉ちゃんが聞くと、

「僕もよくわからないんですが、AとかVとか症状の出方によって区分されているみたいですよ。日本人は最も症状が重いAが多いようですが、僕はそれは免れました。有名なあの映画でも、主人公はA型だと言われていましたが、全部の人が彼女のようになるわけでなく、こうしてのうのうと生きてられるタイプもいるんです。」

と、彼は答えた。

「はああ、なるほどね。まあ、AとかBとか呼び名はどうでもいいや。とりあえず、お前さんが、雪肌精を100個使うということは、覚えておこう。そういうね、細かいことは、僕は気にしないのでね。」

杉ちゃんはカラカラと笑った。

「ああ、ありがとうございます。僕もそのくらいに思ってくれていた方が、こちらとしても楽です。今日は手伝ってくださってありがとうございました。なんでも御馳走しますから、好きなもの食べていただいてけっこうです。」

と、彼はメニューを杉ちゃんたちの前に差し出した。

「きにすんな。其れより、ファンデーションを買う方に回せ。そのほうがいいんだろう?」

「でも、ああしてくれなかったら、買うことができなかったから、御礼がしたいんです。なんでも好きなものをおっしゃってください。」

杉ちゃんがそういうが、彼はにこやかに笑ってそういうことを言った。

「まあ、気持ちはわからないわけじゃないですよ。じゃあ、御願いしようかな。まだお昼をたべていませんでしたから、パスタセットを二つ御願いします。」

蘭は、こういう場合は、彼の意思にしたがってあげた方がいいのではないかと思ってそういうことを言った。

「分かりました。じゃあ、パスタセットを三つください。」

と、彼はウエイトレスに言った。

「あ、まだ名前を名乗っていませんでしたね。ごめんなさい。土谷瑞希と申します。」

「土谷瑞希さんね。僕は、伊能蘭と申します。そして、こっちは、」

「蘭の親友の、影山杉三。正式には杉ちゃんだ。杉ちゃんって呼んでね。」

彼が名前を名乗ると、蘭と杉ちゃんは急いでそういうことを言った。

「ありがとうございます。本当に、今日は、手伝って頂いて、ありがとうございました。この街ではまだ、XPに対する偏見があって、なかなか日焼け止めクリームの大量購入に理解をしめしてくれる店は少ないのですが、今日は助かりました。」

土谷瑞希が頭を下げると、

「いえいえ、ほんと、お気になさらなくてけっこうですから。大変だと思いますが、頑張っていってください。」

蘭は、にこやかに笑った。確かに土谷瑞希がこういう風に御礼をしたくなる気持ちもわからないわけではないので、ちょっと複雑な気持ちであった。

しばらくして、パスタセットをウエイトレスが持ってきてくれたので、三人ともパスタを食べることにした。このカフェテリアはチェーン店何だけど、味があっておいしいのであった。杉ちゃんたちが食べ終えると、土谷瑞希は、しっかりお金を払ってくれた。ずいぶん太っ腹のように見えるけれど、こういうことをしなければならないということを蘭も杉ちゃんも知っているので、其れについて言及はしなかった。

杉ちゃんたちは、土谷瑞希に予約してもらったタクシーにのって自宅へ帰った。土谷瑞希も車の運転免許は持っていないそうで、別のタクシーで帰っていった。

数日後。何気なく夕刊を広げた蘭は、そのトップ記事を見て、大きなため息をついた。

「田子の浦港近くにて、男性の死体がみつかる、か。又物騒な事件だな。ほんと日本もアメリカ並に犯罪が多くなってきたな。」

蘭は、思わずその記事を読んでしまう。

「死亡したのは、富士市青葉町の会社員、宮原典夫さんとみられ、司法解剖の結果、死因は、胸部を刃物で刺されたことによる失血死と見られるか。日本では、銃の代わりに刃物だよな。」

確かにアメリカでは、拳銃による犯罪が多いが、日本では刃物による犯罪がほとんどである。

「凶器はまだみつかっていない。警察では、殺人とみなして、捜査をしている。」

と、蘭は、新聞を読み上げると、ご飯を食べるために、新聞をテーブルの上に置いた。宮原という名前に聞き覚えがあった。宮原という名字は普通にあるが、それが青葉町となれば、どの宮原さんなのか見当がつく。確かその娘さんが、蘭のもとにやってきたことがあったような。名前は、確か宮原亜子さんといったような。

蘭は、とりあえず、スマートフォンを出して調べてみた。確かに、宮原亜子さんという女性の名前がああった。こういう時に、間違えを恐れないのが蘭だった。急いで彼女に電話をかけてみる。

「もしもし、宮原亜子さんの携帯電話でよろしかったでしょうか?僕は、彼女の背中に蝶を入れたことが在る、伊能蘭と申します。芸名は、彫たつです。」

とりあえず、応答してくれた電話に、蘭はそう自己紹介をしたのであるが、出たのは彼女ではなく、別の声だった。

「ああ、彫師の先生ですか。気にかけてくださってありがとうございます。亜子は先日から病院に入院しております。」

声は多分母親の声だと思われた。

「あの、亜子さんはどうされたんですか?何か、彼女にあったんでしょうか?もしかしたら、彼女、また薬に手を出したとか?彼女、僕のところに来たときは、絶対リタリンをやめると言っていましたけれど。」

蘭はとりあえず、自分が知っている亜子さんのことを話した。

「ええ。そうなんですけど、薬はやめると言っても、ちょっとストレスが出れば、すぐに逆戻りしてしまう物ですよね。」

と、声はそう言っている。

「そうですか。確かにリタリンはそういう危険な薬でもありますからね。残念ではありますが、お母さまも、どうか気を落とさずに。」

と蘭がいうが、

「ええ。皆さんそう言ってくれるんですけど、いきなり主人が亡くなって、どうしたらいいものか、私も途方にくれております。」

と母親はそう言っている。確かにそうなる事だろう。だれだって、当たり前のようにいた家族を、こんな形で失ったら、だれだって、困ってしまうと思う。そう言うことからやっぱり、蘭の勘は間違いではなかった。殺されたのは、宮原亜子さんの父親の宮原典夫さんである。それで、間違いない。

「そうですよね。確かに突然こういう形というのは、予想できないと思います。娘さんのほうは、それが強く出すぎてしまったんですね。」

「ええ、その通りでした。私も、とめたんですけど、もうなんで被害者である私が、警察のお世話になってしまわなければならないほどでした。」

蘭が、そういうと、母親は、もうそんなこと言わないでくれというような感じでそういうことを言った。

「そうですか。僕もなんといっていいかわかりませんが、どうか、お母さんも亜子さんも、このことで気を落としてしまわないようにしてください。ほら、ちょっと、しゃれた恰好をして、町へ出てみるのも良いと思います。そうやって見かけを変えてしまうことも、良いことだと思います。」

と、蘭は母親にそういった。もちろんそういうことをする余裕は無いということは知っている。でも、蘭は、そういってしまうのである。

「ええ、ありがとうございます。」

と、彼女は小さい声で言った。

「本当に気落ちせず過ごして下さい。」

蘭は、そういって、電話を切った。なにか自分にできることはないかと思ったけれど、それは何もないのだった。情報はテレビやラジオ、新聞、雑誌など、腐るほどあるが、それをどうしようかとなると、何もできなくなるというのが今の人なのかもしれない。現在の人は、そうなっている。だから、頭でっかちと言われているのであるが、そうならざるをえないほど、情報があふれている。

テレビをつけても、やはりこの事件の事は報道していた。もうなんでこう同じことばかり報道するのか、蘭はしまいには嫌になるほどである。スマートフォンのニュースアプリでも、この事件のことは報道されてしまう。全くそっとしてあげればいいのにと蘭は思うのであるが、、、。其れは、報道関係の人は、思わないのだろう。

ところが、彼のスマートフォンのアプリは、別の事を表示していた。思わずこの事件以外のことを掲載していたので、蘭は興味をもって見てしまった。それは、リタリンと呼ばれる薬が、平気で売買されていることを注意喚起する記事であった。精神科でも普通に出ている薬のようだが、合法化された覚醒剤と呼ばれるほど、効果の強いものらしかった。そんな危険な薬が平気で売買されているなんて、日本も薬王国と言われても仕方ないものである。今日もどうせ碌なニュースはないんだなと蘭は思いながら、スマートフォンをテーブルに置いた。



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