青年は手の届かないアイドルで夢小説を書くか
和泉茉樹
第1話 偏差値ゼロ、平熱三十六度五分
◆
山崎夏菜は僕の中ではアイドルだ。
大和明桜も僕の中ではアイドルだ。
でも二人にないものを持っているアイドルが、清水理子だ。
東京と言っていいのかすぐには判断できない大学に僕が入学して、ほんの一ヶ月。
どの講義を取ればいいのか、友達はできるのか、サークルはどうしよう、そんなことを考えていた僕に声をかけてきたのは、マトバと名乗る女の子で、講義名だけは立派な、ただ年配の教授が用意したテレビ番組の録画映像を一時間、見せられる講義の後だった。
「ねえ、どこ出身? 私、埼玉なんだけど」
それがマトバさんの最初の言葉で、明るすぎる笑顔と元気すぎる声に、僕は若干、気後れした。
しかしとにかく、このマトバさんという女子学生が、僕を奇妙なサークルに招き入れたことになる。
ただ、マトバさんがそのサークルに入ることはなく、僕はほとんど取り残された形だった。
そのサークルは、当時、アニメが復権を果たそうとしている頃で、それはディズニーとかジブリとかといったアニメではなくて、もっと、その、言葉を選ばなければオタク向けの作品のことだ。当時においてはオタクという言葉は、マイナスというほどではないが、プラスのイメージでもなかった。
サークルに割り当てられた教室には、十人なりの学生がいるけど、十人は例えば、四、三、三みたいに分かれて、それぞれでゲームの話をしたり、アニメの話をしたり、漫画の話をしたりしているという感じで、つまり、統一感は何もない。
何のためのサークルかといえば、オタクが出会うサークル、というよりない。
マトバさんがすぐに消えたのも、その辺りの不穏な感じを察知したのかもしれない。
僕がこのサークルに入って出会った学生の大半は、実に平凡で、まっとうなオタクだった。当時の、だ。それはオタ芸の練習をするわけでもない、というようなところに現れていた。
とにかく僕はこのサークルに迷い込んだ結果、同じ年に大学に入学した千葉という学生と知り合った。千葉くんは身長は僕と大差ないけれど、体重は倍はありそうだった。しかし話してみると話が合うし、それよりも同じ学部の同じ学科で、自然と同じ講義をとって、そこで話すことが多かった。
同じサークルなのに、サークルで集まっている時の千葉くんは、僕が苦手とするタイプの学生と一緒に話をしていたけれど。
その千葉くんが、五月の大型連休で、アイドルのライブを見に行こう、と僕に言ったのが全ての始まりだった。
僕は全くの地方出身者で、ライブなんて行ったことがなかった。地元にはライブハウスはないし、楽器店すらないような場所で生まれ育ったのだ。
千葉くんと僕はその休日の夕方、京王線で都心へ出ると、何かのビルの地下にあるライブハウスに入った。チケットはほんの二千円。
今になってみれば、あれは地下アイドルという奴だったんだろうけど、当時はそんな言葉すらなかった。あの頃、まだ「アイドル冬の時代の真っ最中」で、アイドル自体が媒体に露出することが少ないし、アイドルオタクなんて、きっとみんな、ひっそりと隠れ潜んでいたのだろう。
とにかく、そのライブハウス、「クラブ・デイ・アンド・ナイト」において、僕は実に奇妙な出会いをすることになる。
ステージに立っているのは十代の、僕とそれほど年齢の変わらない女の子で、山崎夏菜という名前だった。
「偏差値ゼロ、平熱三十六度五分、チャンチャンこと、山崎夏菜です! よろしくお願いします!」
周囲に突っ立っているアイドルオタクたちが声を上げる。拍手も起きる。
ちなみに当時はサイリウムが主流になっていた。ウルトラオレンジ華やかなりし時代だ。
とにかく、僕はその女の子を見たとき、周りに歓声も、拍手も、サイリウムの光が揺れるのも、何もかもを忘れた。
僕の世界には、山崎夏菜、いや、チャンチャンだけがいて、彼女の立っているステージは全体が照らされていたはずだけど、まるで彼女にだけピンスポットが当たっているように思えた。
この瞬間、僕の心は静止して、時間さえもが停止していた。
僕はチャンチャンに心奪われたわけである。
いつ、ライブが終わったのか、わからなかった。千葉くんに声をかけられて、はっとした。でもチャンチャンが歌った歌は覚えていた。
広末涼子の「majiでkoiする5秒前」と、中島みゆきの「糸」、松田聖子の「時間の国のアリス」だった。
何もかもが夢みたいな、不自然すぎるほどに不自然なステージだったけど、チャンチャンが歌ったということだけで、許せる気がした。
僕は帰り道の電車の中で、頭の中にある拙い歌声を何度も繰り返し思い出していた。
広末涼子、中島みゆき、松田聖子。
何か関係があるのか。それともあれがチャンチャンの好みなのか。
どういう好みだろう。広末涼子の「majiでkoiする5秒前」を作ったのは、竹内まりやだったはずだ。なら、チャンチャンはちょっと前の音楽が好きなのかもしれない。
悪くない趣味だな、とまず思って、僕も勉強しなくちゃな、と自然と考えていた。
こうして僕の人生は大学入学からの怒涛の一ヶ月を経て、完全に進む道すじを見出した、と言うか、進むべき道を間違った、道を踏み外した、と言えるかもしれない。
僕は親からの仕送りの中で、必死にライブハウスのチケット代と交通費を捻出し、チャンチャンがステージに立つ時にはライブハウスに通うようになった。
何がそこまで僕を必死にさせるのかは分からなかったけど、とにかく、チャンチャンを見ていると、心のどこかが満たされたし、それは僕の中にある、大学生活や将来の不安とか、故郷を離れて一人で暮らす寂しさとか、そんなものを忘れさせてくれた。
僕はチャンチャンに夢中になっていた。
(続く)
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