【My sweet chocolat】

きむ

【My sweet chocolat】



随分懐かしいひとに会う機会を設けてもらった。


電話に出たのはちょうどそれで動画を見ていた娘。

仕事は2人目を妊娠したときに辞めた。だから私に電話を掛けてくるのは孫の顔見たさにスマホに変えた両親くらい。

「おばあちゃん? 違う? 誰? 」

娘のそんな声が聞こえて、慌てて電話を代わると大人の女の声だった。

「久しぶり、元気だった? 」

その相手が今どんなふうに視線を動かして話しているのか、見えなくても想像できた。それが嬉しくて声が弾む。

「すっごく久しぶりね、どうかした? 」

私の声に何かを察したのか娘は足下に纏わりついて執拗に誰からかを確認した。小さな声で、ママのお友だちよと言えば不思議な顔。大人に友達なんているの、というような顔。確かに、私の友達から電話が掛かってきたことなんてこの子が産まれてからは数えるほどしかない。

「来週、少し帰省するんだ」

どっかで会えないかなと、彼女は言った。もう11年になるのかと彼女との日々に想いを馳せて一言、いいわと答えた。気軽に聞こえるよう最大の注意を払って。

「昔よく行ったビーナスって覚えてる? リニューアルしたのよ」

すらすらと出てくる言葉に自身少し驚いた。いつもならきっと我が家に招待する。4年前に買ったそこそこの3LDKマンション。

「いいね、じゃあ……土曜はどうかな? 」

纏わりつく娘と共にカレンダーの前へ移動する。子供の予防接種の予定と夫の飲み会しか書かれていないカレンダー。

「13日ね、大丈夫」

じゃあ14時にビーナスでと言う声は、電話を切った後も止めどなく私にリフレインした。


「ねぇ次の土曜日、お昼から子供たちのことお願いできる? 」

帰宅し、手を洗う夫に声を掛ける。

「なんかあるの? 」

洗面所から出てきた夫に、あるのよと満面の笑みで発泡酒とグラスを渡す。

「高校の時の友達がね、久々にこっち帰ってくるっていうから」

手が空いたので小さな息子を抱く。最近すぐ台所に入りたがって困っている。

「すっごく仲良しだったんだけど、なかなか会う機会がなくって」

早くいいよって言ってよと喉元まで出掛かった。息子は無邪気に笑っている。

「あぁ、いいよ。実家行くし」

もしこれが、別に仲良しじゃない友達なら、いいよと言わなかったのか。実家が傍になきゃ無理なのか。考えだすとむかつくので娘を膝に乗っけてテレビを見ようとする夫に息子も預けて豚肉とピーマンを味噌でガンガン炒めた。

悪い夫じゃないのよと自分自身に言い聞かせて、何を着るか、どんなメイクにするか、ピアスはなにをするか、バッグは何を持つか、どの靴を履くか。毎日ひとつずつ決めて自分を落ち着かせた。

「そう、配慮が少し足りないだけ」

当日13時10分。口紅を薄くひいて鏡を見る。

にっこり笑って見せれば鏡越しに私を覗く息子が見えた。

「ママ、お出掛けしてくるから、おばあちゃんたちによろしくね」

不安そうな息子の顔に罪悪感を覚えて、その気持ちを息子ごと抱えて玄関へ。

息子を手渡す際に、ゆっくりしておいでと笑う夫の顔に、悪い人じゃないのよねと心の中で呟いて笑顔を返す。

罪悪感はそのまま抱えて家を出た。けれど店が近付くに連れて、久しぶりのハイヒールと相まって不安が隠しきれない。その顔は多分息子とそっくりだろう。

子供たちが漠然とした不安を抱えていても、私と彼女はなんでもない。少なくとも今の私たちはなんでもない。どうにもならない。

何度も自分に言い聞かせて脚を前に進めていく。


ビーナスは私たちが高校生の頃よく通った喫茶店だ。小さいけど落ち着いた雰囲気で、ジムノペディなんかが流れていた。

そこでふたり、色んな話をした。

クラスの子たちの話や観た映画、夏休みの過ごし方に子供の頃好きだったキャラクターの話。それに、ふたりの未来の話。

話題は尽きなかったけど、打って変わって言葉を交わさない日もあった。お互いに課題をしたり、本を読んだり、たまに目を合わせて微笑んだり。一杯340円のカフェオレで日が暮れるまでふたりで過ごした。

ビーナスのマスターが引退して、娘さんが後を継いだらしい。Venusと店名を変えた看板を見たけれど、ひとりで入る気にもなれず、子供たちや夫を連れていくのも違う気がして、行きそびれていた。

今、そのVenusの前に立っている。

そわそわと落ち着かない。もう入ってるかな、それともまだかな。時間も少し早いし。

腕時計を確認して、眩しいお天道様を見上げていたら肩を叩かれて心臓が口から飛び出そうになった。

それからのことはあまり記憶にない。


「信じらんないよ、ママになったなんて」

気付けば私はカフェオレとザッハトルテと彼女の前に座っていた。

「私も時々信じられないけどね」

その昔、私がママになるどころか携帯がまだ二つ折りだった頃、私たちは好い仲だった。

私にとっては初めての恋人。彼女にとってはどうだったのか怖くて聞けなかったことをコーヒーカップに口付けながら思い出した。

「名前は変わったけど、雰囲気はそのままだね」

一瞬私のことかと思ったけれど、口に出すほど自惚れてはいない。

「カフェオレの味も一緒ね」

平然を装って言えば彼女は笑う。

「思ってたより甘くなかったよ。昔の方が舌が肥えてた」

その笑顔が昔と重なって見えた。

人好きするタイプじゃないけど、博識でちょっと影があって、私のバカみたいな話を聞くときは大事なものを慈しむみたいに目を細めて、キスの最後に優しく髪を撫でてくれる。私を見ながら何処か寂しげに揺れる瞳が好きだった。

「どうして別れたんだっけ」

心の声を漏らすと彼女は目を丸くした。

私は慌ててザッハトルテを大きめに一口頬張った後、話題を探してこう言った。

「そういえば、下の息子は左利きなの」

夫が直したがってることは言わなかった。

それに、いつだって真っ先に思い付く話題が子供のことばかりなのが今日は悲しい。

「じゃあ思春期になったら教えてあげると良い。席が一番後ろで、右隣に好きな子が座ったら手を繋いで授業を受けられるってね」

こっそりふたり手を繋いで受けた授業を、今も時折夢に見る。物理、数Ⅱ、古典、倫理。3ヶ月の奇跡。人生の中のほんの100日満たない時間を、微睡みの中で噛み締めていることを彼女には言えない。

「その子が左利きじゃなければね」

私も笑って見せたけど、彼女は昔の私と重ねただろうか。

崩れた体のラインを悟らせないようなワンピースを着た。ワントーン上のファンデーションを塗った。上等だけど派手じゃないピアスを付けた。

あの頃とは違う。当然だ。

同じように彼女だって当時とは違う。

鋭い眼差しは緩み、髪はふんわりと柔らかに。声色は少し低く、丸い。

「私の好きな子は右利きで良かった」

それでも昔と変わらない言葉選びと仕草で頬杖をついて私を見つめる。

「あなたは大人になったのね」

日々の喧騒が嘘みたい。裸になった心がそのまま言葉に変わってしまいそうで怖い。寂しい気持ちが私を包んで、まるで夏休みの終わりみたい。

「まるできみがいつまでも子供みたいな言い方だね、ママ」

彼女が唇を端を持ち上げてからかうところは変わらないのに、私は母親ママになってしまった。

「すみません、ガトーショコラを」

すっと手を上げる姿勢の良さも昔のまま。

「珍しい、二個目のケーキなんて」

思わず声に出せば彼女も驚いていた。

「きみのだよ、昔よく言ってたじゃない」

お金があればもう一個食べるのにな、は当時の私の口癖だった。

「嬉しい、覚えていてくれたなんて」

そういえばもう何年も、私を思って注文してくれる誰かはいなかった。夫はそんなことをするタイプじゃないし、ここ数年は子供たちの世話で手一杯。お互い放っておいてもらうのが一番の贅沢だった。

「こんな扱い、まるでレディね」

彼女は今まで付き合った──夫も含めて──男の子たちの誰より、私を女の子として扱ってくれた。気恥ずかしいような嬉しさを思い出しては首の辺りがくすぐったくなる。

運ばれてきたガトーショコラを一口食べると、濃厚なガナッシュが口いっぱいに広がって全てが満たされたように感じた。

「レディだよ、いつまでも」

私を甘やかすその言葉と表情も昔のまま。どきりとして、子供たちの顔を思い浮かべては慌ててときめきを掻き消す。

「はい、一口」

大きめの一口を彼女へ向けると彼女が少し躊躇った。ほんの一瞬。でも何でもないように開いた口へフォークを運ぶ。

「美味しい。カフェオレによく合う」

飲み込んでカップを口許に運ぶ彼女を見て思い出が蘇る。

「そうだ、昔はお砂糖入れてた」

私がよそ見をしてるうちにこっそり入れてたことを、口にしてから思い出す。そのときも流れていたのはジムノペディ。その言葉に彼女も記憶を辿ったのか目を丸くした。

「そうだった。忘れてたよ、格好つけてたことさえ」

昔ならきっといじけてただろうに、こんなふうに笑える日が来るなんて、盗み見て罪悪感を覚えたときは思ってもみなかった。

「それにしても、ザッハトルテとガトーショコラをいっぺんに食べられるなんて夢みたい」

昔のように半分食べたらちょっとずつ宝物のように食べてみる。名残惜しいのはこの時間も同じ。

放課後が明日も明後日も永遠に存在すると思い込んでいた私。

彼女との毎日が当たり前過ぎて、制服を脱ぐ日が来ることを忘れていた女子高生。

「アイスもクレープもケータイのストラップまで全部チョコレートだったもんね、私」

そんな私に文句も言わずに付き合ってくれる少し影のある眼鏡の文学少女は、今やすっかり大人の女。

「いつだって口の端に、チョコレートを付けてた姿は可愛かった」

それを見たあなた、私をショコラちゃんなんて呼んでいつもキスしてくれたわと、胸を掻き乱すような言葉を飲み込んだ。

「変わってるわね」

鈍感なおばさんのふりをして眉をひそめてみた。

「だって、そんなきみが好きだったからね」

そんなの私だって同じよ。

また、言葉を飲み込んだ。

何度も何度も、ほんの少しのガトーショコラと一緒に。

伝えられない言葉はチョコレートケーキと一緒に胃に溜まる。カフェオレの熱で全部溶けてしまえば良いのに。


あっという間に日は暮れて、店の客層が変わってきた頃、店を出た。カランと戸が鳴る。夢が終わる合図。

意を決して口にする。

ほんとはこの言葉こそ、飲み下して溶かしてしまいたかった。

「もう会えないわ、少なくともふたりでは」

精一杯の大人な声で一言一句噛み締めた。

「どうして? 」

聞きながら、彼女はもう分かっているようだった。


その理由は家族のいるマンションに呼べないことと同じ。

その寂しげに揺れる瞳に吸い込まれてしまいたい理由と同じ。


「あなたのこと、また好きになっちゃいそうだから」


うそ。

ほんとはもう愛してしまっていた。

燻っていた気持ちは一本の電話で息を吹き返した。燃え盛ってはいけない炎。

母親には友達がいないと思っている娘を、母親の心の機微を敏感に察知する息子を、少し配慮の足りない夫を。

「ママでいる生活だって愛しているのに」

気丈さが足りず、心の底で焦げ付く気持ちを絞り出すように言葉にしたら涙が落ちた。

彼女を想ってしまうのは罪だ。甘く熱く滾る気持ちをこのまま抱えてはいけない。


ママの台詞とは思えないなと少し笑ってから、会わない方がいいねと静かに言われた。

「きみに好きだと言われたら、私はいつだって受け入れてしまうから」

忘れ物みたいに流れた涙を拭ってくれる左手を狂おしいほど愛している。のに。


「最後にもう一回だけ、私のこと呼んで」


昔、セーラー服で向かい合わせに愛を語らっていたときは、こんなに切ない思いをするなんて想像もできなかった。

互いに目と目で愛が伝わっているのに、思いの丈を言葉にするのは叶わない。


「しあわせになってね、私の可愛いショコラちゃん」


あなただけの可愛いショコラちゃんだったのに。もう私は、あなたの知らない他の人のものになってしまった。


「あなたもうんと、うんとしあわせになって」


私が嫉妬も出来ないくらい素敵な相手と、甘く熱いチョコレートみたいな恋をして。



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