第21話『ル-ジュの伝言 2022』


21『ル-ジュの伝言 2022』 




「なに考えてんのよ! あんたってサイテー、サイテーよ!」



 語尾が震えているのが自分でも分かった……。


 ヤツが俯いて肩を落としているのも分かったけど、怒りが収まらず、わたしはロビーを出て、ビルの玄関も飛び出した。


 インフォメーションの冴子がビックリした顔をしていたけど、気の利いた言葉も浮かばなかったので、そのまま外に出た。


 自販機でコーラを買って一気飲みした。


 まず、涙が出てきた。それを拭うと派手なゲップが出た。


 営業二課長が怪訝な顔をして、ロビーに入っていったが、顔を背けて拗ねたようなお辞儀をするのがやっとだった。



 涙がこぼれないように上を向いたら、また派手なゲップが出た。


 ……ゲップといっしょに、あの情けない男も消えて無くなればいいと思った。


「ほら……」


 目の上にハンカチが落ちてきた。


 気がつくと、冴子が怖い顔をして立っている。


「冴子、仕事は?」


「ちょっと早いけど美優さんが替わってくれた。今から昼休み」



 ビルの横、遺跡保存を兼ねた小公園に向かった。



「よりにもよって、こんなもの渡すのよ……エイッ!」


 わたしは、それをゴミ箱に投げ入れるところだった。


「ダメ、ボツでもうちの製品なんだから、社員が、そんなことしちゃダメよ!」


 冴子は、わたしの手からルージュを取り上げた。


 一呼吸して、やっと気持ちを飲み込んで、冴子のサンドイッチを一つ奪って口に放り込んだ。


「……もっと食べていいんだよ。笑子」


「ごめん、ただの勢い。食欲なんかない……」


「太田君は、研究職なんだから、分かってあげなきゃ……と、モトカノとしては思う」


「だって、わたしのこと好きなんだったら、大阪なんか行く!?」


「行かなきゃ、研究職でいられなくなるのよ」


「いいじゃん、会社にはいられるんだから。総務でも営繕でもいいじゃん」


「太田君には、化粧品の研究しかないのよ」


「モトカノが言うか!?」


「わたしとは錯覚だったの。同期入社で、心細くって、グチのこぼしあいとか、慰めあいにはよかったけどね。互いにそういう相手じゃないって分かったから。だから、太田くんがほんとに愛したのは笑子が初めて。笑子が愛したのもカレが初めて。でしょ?」


「……冴子に言われると、なんだかね」


「この際言っとくけど、カレとはAまで。で、その時点で、合わないなって別れたの。アウトレットみたいに思わないでよね」


「冴子!」


「なによ」


「ご、ごめん」


 危うくケンカになりそうだったので、話題を変えて昼休みは終わった。


 アフターファイブ、冴子はガールズバーに付き合ってくれた。


 冴子とカレの付き合いについて聞いた。別れるとは言え、冴子のお下がりであることはプライドが許さない。


「だから、カレとはそう言う関係まではいってないの。もうう……」


 そう言いながら、冴子は時分のバッグに手を突っこんだ。


「なに?」 


「あの、ルージュ……ああ、これこれ」


「こんな出来損ないに一億円も投資させたのよ、で、開発部長までは渋々だったけど、重役会議じゃ総スカン。試供品もさんざんな評判で、モデルのモミさんたちは『リカちゃん人形に合いそう』あれって愛想づかしのしゃれよ。それをあいつったら……」


「ハハハ、誉め言葉だと思って、その気になっちゃって……」


「ちょっと見せていただけます?」


 チーフバーテンダーのさくらさんが寄ってきた。


「う~ん、悪くないですね。楽しいときのカクテルにいい色ですよ。お試しになりました?」


「そんな、プロが鼻も引っかけなかったしろもんですよ」


 さくらさんは、ペーパーナプキンにルージュで、横棒を引いた。


「う~ん、ルージュも自信を無くしてますね……ゼン ザラベ」


 瞬間、ルージュの横棒が、ネット通販のロゴマークのよう……緩く笑った口のように見えた。


「なんですか、それ?」


「ドイツ語で、チチンプイプイ。はい」


 さくらさんは、わたしにルージュを返し、わたしも、それを自然に受け取った。もっとも、そのとき冴子はスマホに出ていて、受け取りようもなかったんだけど。


「ちょっと課長から呼び出し。なんだか明日は出張になりそう」


 その足で冴子は会社に戻り、わたしは一人で名前だけマンションのアパートに戻った。


 バッグをソファーに投げ出すと、なにやら小物達がこぼれだしたが、投げやりなわたしは、着ている物を一枚ずつ脱ぎ散らかして、シャワーだけ浴びて、パジャマに着替え、久々に心療内科でもらっていた眠剤を飲んでベッドに潜り込んだ。



 すぐに眠りはやってきたが、目覚めもすぐにやってきた。


 先月の休日出勤の代休だったので、ゆっくり寝たかったんだけど、冴子の着メロで目が覚めた。


「くそ、なんだよ、こんな朝から……もしもし。わたし代休なんだけど」


『寝てる場合か、あたしね、トラボルトの世話係で京都へ行くの!』


「なに、それ?」


『新製品のプロモのロケ、関西支社の大貫さんがやってたんだけど、盲腸で入院しちゃってさ。で、トラちゃん直々のご指名で、あたしがすることになったの。先月の記者会見で、あたしが通訳やらお相手したの覚えていてくれちゃっててさ。今から十時の新幹線。その気があったら見送りに来て……東京でなくていい、近所のA駅でいいからさ。なんだったら色紙とかもっといで。サインもらってきてあげる。あ痛て!』


「どうかした?」


『ハハ、転んじゃった、じゃあね。イテテ……』


 冴子は賑やかにに喋って、電話を切った。


「脳天気なやつ……フワ~」


 アクビをすると、今転んだ冴子の姿が、すごくリアルに頭に浮かんだ。美人なわりに、ズッコケる三枚目さは、社内でも有名で、日頃はズッコケる心配のない、インフォメーションのカウンターにいる。


 普段でもおかしいのに、今朝のトラちゃんで舞い上がったズッコケはなかなかの見物だったろうなと、笑いがこみ上げてくる。


 その笑顔のまま、洗面所にいこうとして、瞬間、自分の顔がドレッサーに映った。ハッとして、もう一度ドレッサーに顔を映す。


「これ、わたし……」


 ビックリするほどチャーミングな笑顔が、そこには写っていた……よく見るとスッピンの顔にルージュだけが引かれている。


 寝る前にメイクは落としたはずなのに……それに、そのルージュは、例の失敗作。でも朝日が差し込むワンル-ムの中のわたしを変えていた。バスルームに行ってみた。


『あなたの笑顔を、キラキラに』


 バスルームの鏡には、ルージュで、そう書かれていた。


 ルージュを探したけど、キャップしか見あたらなかった。そして鏡に目を移すと、隅の方に書いてあった。


『駅に急いで』


 わたしはパジャマを脱ぐと、夕べ脱いだものを逆順で身につけて部屋を飛び出した。


 いつもの駅への道を行こうとしたら、ルージュで、パン屋さんの窓に書かれた、それが目に入った。


『こっち→』


 わたしは、ルージュの示す方に急いだ。


『こっち→』は、あちこちに書かれていた。振り返った犬のオデコに書かれていたのには、笑っちゃったけど、なにか確信めいたものが心に浮かんでいた。


 ルージュに会える、会わなくっちゃ!


 やがて、その道は、わたしのアパートから、だいぶ離れたカレのアパートの近所だと分かった。


 美容院の角を曲がると窓に、こう書いてあった。


『カレは、あなたの笑顔を美しくしたくて、わたしを作りました→』


 そして矢印の先の彼方に、カレの背中が見えた。



 やっと分かった。



 カレは、わたしの笑顔を輝かせたいために、それを目標にして、このルージュを開発したんだ。


 だから今風なぶっきらぼうや、斜に構えた笑顔には、このルージュは合わないんだ。女性が=わたしが心から楽しそうに笑ったときに、一番生えるルージュなんだ。そして、男が女にルージュを送るときの口紅言葉は『少しずつ取り戻したい』だ。


 わたしは、カレの番号を削除したことを後悔した。でも、走れば間に合うかも……。


 ホームに着いたとき、ちょうど電車が出て行くところだった。


 カレは二両前のドアのところに立っていた。声を限りに叫んだけど、届かなかった。もっと早く気づいていれば……。


 そのとき、女性専用車両にいる冴子と目が合った。わたしはスマホを出して指差した。


――先頭車両にカレがいる。愛してる――


 電車の最後尾が見えなくなるまで、わたしは見送った。そして、ホームに目を落とすと、使い切られたルージュの本体が落ちていた。


 だれが撮ったのか、その朝の様子が動画サイトに投稿されていた。あちこちに書かれたルージュの伝言。懸命に走るわたし。笑っているわたし。電車を見送るわたし。


『笑顔と懸命なあなたに似合います。わたしはボツという名のルージュです』


 この動画をもとにして、CMが撮影され、このルージュは、わが美生堂化粧品の大ヒットになった。


 わたしとカレがどうなったか、それは……わたしとルージュの、ひ・み・つ。

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