第7話『さよならバタフライ』


7『さよならバタフライ』         



 無数のチョウチョが、空中を舞って飛び去っていくようなイメージだった。


「金床、○分○○秒!」



 コーチの金丸さんの声が頭上でした。とても他人様に言える記録じゃないので、タイムは秘密。

 だけど、ボクが水泳部に入って、バタフライでは最速の記録だ。


 今日は、ぼくの水泳部最後の日だった。


 三年生の引退は早い。一応進学校であるうちの高校は二年生がピークだ。朝から夕方遅くまで一万メートルも泳ぐことは、時間的にも体力的にも、受験を控えた三年生には無理だからだ。

 ボクは、去年の地区大会自由形で二位にまでいけた。それで十分だった。



 もともと名前がいけない。金床碇(かなとこいかり)どう見ても水泳部向きの名前じゃない。


 ボクの家は祖父ちゃんの代まで、近くの漁師さんやお百姓さん相手に、漁具や農具を作ってきた野鍛冶屋だった。お祖父ちゃんは、特に漁具、その中でも碇を作らせたら県の中じゃ一番だった。


 その特徴は長持ち。金床の碇は一生物とか言われ、沿岸漁業がアゲアゲのころは大した羽振りで、女の人に入れあげては婆ちゃんを泣かせていたらしい。それでもアゲアゲだったから、親類も世間も、男の甲斐性だ。くらいに見てくれた。



 でも、地域の漁業が廃れる……とは言わないが、横ばい状態になるといけなかった。


 なまじ一生物なんてものを作る物だから、注文がほとんど来なくなった。で、昭和ヒトケタの祖父ちゃんは、生まれた初孫に「碇」という迷惑な名前をつけて、ボクが三歳のときに、あっさり死んだ。最後にお父さんに残した言葉が振るっている。

「腹上死がしてえなあ……!」

 病院のベッドで大声で叫んで逝ってしまった。狭い町なので、噂はパッと広がり腹上死の金床と、しばらく言われた。お父さんもお母さんも、婆ちゃんも恥ずかしそうにしていたけど、ボクは平気だった。だって、みんな明るく腹上死の金床と言うもんで、ボクは誉め言葉だろうと思った。事実お祖父ちゃんは町のみんなから愛されていたことは確かだった。


 しかし、ボクも小五で腹上死の意味を知ると、やっぱ恥ずかしかった。


 水泳部に入ったのは事故のようなものだった。


 教室のある三階の廊下からプールは丸見えで、水泳部の女の子たちが泳いでいるのを、一年のときニンマリ見ていた。すると、同じクラスのダボハゼみたいな野島春奈ってのに言われてしまった。


「さすが、腹上死の孫ね。あんなの見てニヤニヤ、ガチスケベ!」


 で、


「ちがわい、オレは水泳部に入りたいんだ!」


 ダボハゼが犬の糞を飲み込んだような顔をした。ダボハゼは幼稚園から高校まで同じという、どちらにとっても有り難くない存在だった。ダボハゼは、腹上死の金床を知っている珍しいガキだったし。ボクはボクで、小六のとき、ダボハゼが廊下を掃除していて、ちり取りをとったところで、派手にオナラをしたのを聞いてしまっている。


 とにかく水泳部に入った。


「おまえ、よくそれで水泳部入ったな」

 と、先輩にも仲間にも言われたが、コーチ一人が庇ってくれた。

「オレだって金丸。同じ金付きだ。オレが泳げるようにしてやる」

 で、ほんとうに、ある程度は泳げるようになった。クロ-ルでは、部内でトップクラスになった。でも、他の泳法はさんざんだった。特にバタフライがいけない。

「金床のは、テンプラ鍋に飛び込んだアマガエルみたいだ!」

 と、言われた。やたらに水しぶきは上がるけど、前に進まない。コーチには「腰が定まっていないからだ」と技術的に指導を受けた。

 しかし、今日で引退。もうみっともないバタフライを人に見られずに済む。


 でも……信じがたいだろうが、ボクのバタフライを誉めてくれたやつがいる。それもとても可愛い子に。


 あれは、二年の一学期の中間明けだった。水島洋子という、なんだか水泳部向きの名前をした一年生が見学に来た。


「金床さんですね。いつも三階の窓から見てたんです。先輩のバタフライいいですよ」

「ええ、どこが!?」

 同輩たちが一斉に叫んだ。

「あ、あの力強さが、なんだかタグボートみたいに元気いっぱいで」

「アハハ、タグボートはよかったな!」


 洋子は、瞬間怒ったような目になったが、すぐに元の穏やかな目になった。


 二日目には水着を持ってきて、自分から泳ぎだした。名前に負けずきれいなフォームだった……え、あ、正直に言うと体のフォームも泳ぎのフォームも。ね、正直だろ!


 二十分もたったころだったろうか、洋子が溺れた。コーチや女子部員が飛び込んで助けた。


「水島。おまえ、股関節……だろ」


 コーチが難しい病気の名前を言った。


「もう治ったと思っていたんです……」


 洋子は悔しそうにしていた。水から上がったばかりなのでよく分からなかったけど、あの子の頬をつたっていたのは水だけでは無かったと思う。

 その日は、お父さんが職場から、そのまま駆けつけてきた。その時の制服で、この町の近くにある海上自衛隊の幹部だということが分かった。


 洋子は、それ以来水泳部には顔を見せない。もう泳ぐのを諦めたんだろう。


 どうしてか、水泳部最後の日に洋子のことを思い出した。きっと、最後という言葉のせいだ。


 コーチや、みんなに挨拶して、その日は早めに自転車で家に帰った。海岸通りに出ると、ときどき横殴りの風が吹いてきて、体をもっていかれそうになる。前線が近づいているようだった。


 日の出橋まできて、異変に気がついた。橋の真ん中に自転車が倒れ、小学校の低学年とおぼしきガキが泣き叫んでいた。


「どうした、おまえら?」

「お、おねえちゃんが海に。あたしたちを除けようとして……」

 その時、また突風が吹いてきた。ガキの目線の先には……洋子が、ぐったりして浮き沈みしている。

「この風にさらわれたんだな!」

 橋は、船を通すために十メートル近い高さがある。一瞬ビビッたけれど、体の方が先に動いた。


 我ながらきれいなダイビングだったと思う。


 海に飛び込むと、数メートル潜った。そして水を蹴って水面に顔を出すと方角を確認。しかし、橋の上とは違い、沈みかけた洋子は見つからない。


「水島! 洋子!」


 すると、橋の上のガキたちが方角を示した。いったん潜って洋子を確認し、ボクは泳いだ、それも、こともあろうにバタフライで。


 クロール! と頭の誰かが叫ぶんだけど、体は拒否してバタフライになる。そして、それは今まで体験したことがないほどの速さだった。


 水面下二メートルほどのところで、洋子を掴まえた。浮上して洋子の体を確保しながら背泳ぎで岸にたどりついた。


 脈はあるが、呼吸をしていない。ボクは洋子に水を吐かせてから、人工呼吸をした。そのときは必死だったけど、マウストゥーマウスだった。


 病院で、うっすら意識が戻ったとき、洋子が言った。


「先輩のバタフライ……やっぱ、かっこいいです」


 洋子は、その秋に転校した。


 お父さんの転勤……お父さんは鈍足のタグボートの艇長だった。洋子の病気のために、移動の少ない船を選んだようだが、時代が、お父さんを必要としはじめていた。それに東京の親類に預け、治療に専念できる体制もできたようだ。


 ボクはというと、身の程知らずにも推薦をみんなけ飛ばし、センター試験をうけ某公立大学に入った。

 入学して半月、学食でランチを食っていたら、後ろから懐かしい声で、懐かしい言葉をなげかけられた。


「お、腹上死!」


 ダボハゼの春奈がランチのトレーを持ってニンマリしていた。


 春奈は、忘れていたが、高校でダンス部に入った。で、大学でも続けているようで、もうダボハゼの面影はニクソゲな言葉にしか残っていなかった。まあ、人魚姫の侍女ぐらいは勤まりそうだ。


 金床の青春、こんなもんだろう。まだ碇を降ろすには時間がありそう。


 とりあえず、さよならバタフライ……。

 

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