初恋はお母さん
KMT
第1話「時をかける親心」
KMT『初恋はお母さん』
耳が僅かに拾う心音が、今にも途切れそうに弱々しく鳴る。それでも意識だけは無駄にはっきりとしていて、これから死ぬという実感がまるでない。
「はぁ……」
ため息をする余裕だけはあるみたいだ。今日はこれで22回目。退屈すぎて数えてしまった。死の瀬戸際に立たされているというのに、自分の命は恐ろしすぎるくらいに呑気である。
私は
数週間前、私は未知のウイルスに感染した。そのウイルスは一度生物に感染すると、重要な生体器官や組織を
私は感染者専用の病室に隔離され、ビニールカーテンを眺めるだけの入院生活を余儀なくされた。とはいえ、医師から死を宣告されたので、死ぬまでここに留まらなくてはいけない。
しかも、それまで誰にも触れることはできない。感染防止のため、私は外界との接触を一切禁じられた。
「はぁ……」
またため息が出た。これで23回目だ。死ぬことがわかっている間の生きる時間というのは、永遠と同じ料理を作らされるようで退屈である。病室を敷き詰める静寂に、無理やり生きる理由を作らされている。
「……」
実は、私は死ぬこと自体はそんなに恐れてはいない。心配なのは、私がいなくなったあとの家族のことだ。私は一児の母親で、夫の
春昌は下町の工場で働いていて、俊多は幼稚園に入ったばかりだ。二人に寂しさや悲しさだけを残して、私は先に行ってしまう。それが耐えられなかった。
前言撤回。やはり私は死ぬことを恐れている。
「俊多……」
ふと、息子の名前が口から溢れた。きっと私の一番の心残りは俊多だ。死ぬ前に何よりも脳裏に焼き付けるものが、自分の人生における最大の未練なのだ。
「おいで……ママよ……」
私の意識は息子がそばにいると錯覚し、腕を伸ばして俊多を求める。まだ死と隣合わせになる前、私はよく俊多をあやしていた。
俊多はとても泣き虫のひ弱な男の子だ。幼稚園の先生から、よく一人ぼっちで泣いていると聞いていた。他の児童からいじめられたこともあったそうだ。引っ込み思案だから、人と仲良くすることに難を覚える子どもだった。
「俊多ぁ……」
いよいよ枕元が涙で濡れてきた。このまま私が死んだら、あの子はまともに生きていけるだろうか。ちゃんとした大人になれるだろうか。それだけが心配で仕方がない。私が守ってあげなくちゃ。
「神様……」
もしもこの世界に神様なる存在がいたら、どうか自分の願いを叶えてほしい。この先息子がどんな人生を歩むのか確かめたい。大きくなった俊多の姿を見たい。彼がどんな大人になってくれるのか、母親としてそれだけは知っておきたい。
お願いします。どうせ私は死ぬのだから、最後くらい儚い願いを叶えてほしい。人生最後のわがままを聞いてほしい。息子の未来さえわかれば、後はもう何も心残りはない。
神様……どうかお願いします……。
ガラッ
病室の扉が開いた。看護婦さんか、それとも医師か。誰か入ってきた。
「……え?」
しかし、入ってきたのは真っ黒なドレスを身に纏った女性だった。明らかに医療関係者ではない。家族や知り合いでもない。
彼女の姿を例えるなら……そう……
「どうもぉ、私は魔女ですぅ」
こんなにわかりやすい自己紹介は初めて聞いた。魔女と名乗る女性は、私のベッドを囲むビニールカーテンにゆっくり近づいてくる。マスクや手袋もせず、毅然とした態度で。
「あなたは……」
「お見舞いに来ましたぁ」
そう言って、魔女は肩からぶら下げたバッグに手を入れ、ゴソゴソと何かを探し始めた。彼女は一体何ものだろう。死が迫った人間の前に現れるという死神的存在なのだろうか。やはり私の死はすぐそこまで迫っているのか。
「あなたの願いを感じ取ってここに来たのよぉ」
「私の……願い……」
「そう。死ぬ前に息子の未来を見たいというあなたの願い、私が叶えてあげるわぁ」
魔女は私の心を見透かしたように笑う。いや、実際に見透かしているのかもしれない。私が先程まで願っていたことを口にしているのだから。
シュッ
「ハイ、これを受け取りなさい」
魔女さんは私に怪しげな機械を差し出した。
「えぇぇ!?」
ちょっと待って。この魔女、今ビニールカーテンをすり抜けたよ。一体どんな手品を使ったの。あと、感染者にそんなに無防備に近づくと危ないですよ。魔女の挙動が衝撃的過ぎて、機械に意識が回らなかった。
「これは『時の
私の驚いた様子を気にせず、魔女は機械の説明をする。しかも、説明の内容も現実離れしている。寝ていいかな。
「これを使って、息子が大きくなった未来に行ってみなさい。その間体の異常は何にもないようにしてあげるぅ。ずっと未来に入れるわけじゃないけど、思う存分息子さんの人生を眺めるといいわぁ」
機械は名前の通り、方舟の形をした木彫りの置物のようだった。半信半疑で聞いてはいるけど、息子の未来を確かめに行けるかもしれないという事実が頭に引っ掛かり、思わず手が伸びてしまいそうになる。
しかし、こんな怪しい話に関わってはいけないという理性が、伸びる手を引っ込める。
「私は……」
「あなたの人生はもうすぐ途切れてしまうのよぉ。それまでに未練を残したままでいいのぉ? 大切な大切な息子なんでしょ? 最後の一回くらい温かく見守ってあげなさい」
魔女さんの言葉が、疑い深い私の理性を溶かした。まるで母親に抱かれ、優しく頭を撫でられるような温かさを、彼女の言葉から感じた。私も母親なんだけどね。
でも、今頃俊多も求めていることだろう。母親の温もりを。それを今後一切受けとることなく人生を送らせることなど、私には到底耐えられない。
「……わかりました」
「それじゃあ、しばらくの間、楽しんでおいで」
私は恐る恐る手を伸ばし、方舟に装着されていた赤いスイッチを押した。その瞬間、私の世界は暗転した。
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