3.
放課後になって部活も終わり、薄紫色に染まっていく空に向かって、私は歩きながらもぐっと背筋を伸ばした。
今日の部活も疲れたな。お腹も空いた。夕飯はなんだろう。
あれこれ考えながら引き続き家に向かって歩いていると、ふと前方に見覚えのある姿が目に入った。
その人物――、菊は私に気が付くと、げっとあからさまに顔をゆがめ、そして歩くペースを速め出した。
「あっ、ちょっと……!」
なによ、人の顔を見るなり逃げるなんて。失礼しちゃう!
つい頭にきて、私も歩く速度を上げて菊の隣に並んだ。すると菊は、ますます眉間に皺を寄せた。
「ついて来るなよ」
「仕方ないでしょう、同じ家に帰るんだから」
だけど菊はむすっとした顔のまま、また足を速めた。
悔しくなって私も足を速めるけど、私が足を速めれば今度は菊が足を速め。私達の歩く速度は自然と速まっていく。
ほんとーに、やなやつ! 絶対に負けるもんか。菊より先に家に着いてやる。
そう決意をした矢先、けれど急に菊が、
「あっ」
と声を漏らして、
「そこ、毛虫が多いぞ」
「え……?」
私は思わず足を止めてしまった。そして、くるりと辺りを見回すと、ひゅーと一匹の毛虫が木の葉から糸を垂らして私の目の前に下りてきた。毛虫は、うにょうにょと全身を波打つみたいにして私の鼻先で動いた。
「きっ……、キャーッ!!」
やだ、やだ、やだ!
私は無我夢中でカバンを振り回す。
私がここ一番の力を込めてカバンを振ると、その拍子にカバンに付けていた犬のキーホルダーが外れてしまい……。それは小さな弧を描きながら宙を飛び、そのまま――、ぽちゃんっ! と池の中に落っこちた。
その光景に私の意識は一瞬停止した。
けど。
「あっ……。あ、あ、ああーっ!??」
ウソでしょう──っ!??
気付けば私は池の中に飛び込んでいた。幸い池は深くはなく、私の膝丈くらいしかなくて。私は腰を屈めて水の中に手を突っ込んで、落っこちてしまったキーホルダーを手探りで探す。
嫌だ、嫌だ。どこ行っちゃったの!?
あれはお母さんが買ってくれた、大切なキーホルダーなのに。お母さんと箱根に旅行に行った時に、お母さんがお土産に買ってくれたものだったのに。
また旅行しようね──。
そう約束したのに。なのに結局あれっきりになっちゃった、最初で最後の旅行の思い出の、大切なキーホルダーだったのに。
もし失くなっちゃったら、私は、私は……!
そんなの、絶対に嫌だっ!!
後ろで菊が何か言っているような気がしたけど、それでも私は腰を曲げ、必死になって手を動かし続ける。だけど先程から掴むのはむなしい感触ばかりで。本当に見つかるかな。見つからなかったらどうしよう。……ううん、ダメだ。そんなこと考えちゃ。とにかく手を動かさないと。
一体どのくらいの時間が経過したのか。ただ空の色が暗くなり、手元も見えづらくなっていた。まだ五月という時期の水は冷たく、始めは刺すような痛みを肌に感じていたけど、手と足の感覚はすでになくなって、よく分からなくなっていた。
もうダメかも……。諦めかけた、その刹那。突然ぐいと腕を引かれ――、
「おい、牡丹」
それから、
「これだろう?」
菊が私の顔の前に犬のキーホルダーを突き出した。間違いなく、それは私のものだった。
気付いたら菊も池の中に入っていて、私の隣に並んでいた。もしかして菊もずっと探してくれていたの?
そんな菊から私は、
「あ、ありがとう……」
キーホルダーを受け取ってお礼を言うけど、菊はやっぱり、
「別に」
と、つんと言い退ける。
……あれ、どうしたんだろう。私、ちょっとドキドキしてる。
菊、さっき私のこと、牡丹って、そう呼んだよね? 今までは、お前とかアンタだったのに。初めて私の名前を呼んだよね……?
ばくばくとひとりでに跳ね上がる心臓を、私はどうすることもできず。不可思議な動悸に動揺しながらも、「さっさと出ろよ」と口悪い菊に続いて池から上がった。
結局はそれを上手く処理できないまま、私はぎゅっと手の中のキーホルダーを握り締めて。菊と肩を並べ、ぼたぼたと大きな水雫をコンクリートの上に垂らしながらも残りの帰路を歩いて行った。
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