マスク越しのキス

瀧純

01. 世界が閉じていく


 2020年、高2の2月28日――突然それはやってきた。


 「佳衣けい…明日から、学校休みだって……」


 お母さんのスマホ画面には、高校からのグループメールが表示されていた。3月2日の月曜日から3月いっぱい、一ヶ月の休校が教育委員会で確定したとある――つまり来週から春休みが終わるまで学校に行かなくていい。先月くらいからクルーズ船がどうのとニュースでしつこいほどやっていた、『新型コロナウイルス感染防止のため』だとそこには書かれていた。

 すぐに友達とメッセして、みんなで盛り上がった。当然、期末テストも吹っ飛んだ。お世話になった先輩たちの卒業式に出られなかったのは残念だったけど、親ですら出席できなかったらしいから仕方ない。「家からは出るな」と学校からも親からもきつく言われて、でもそれだけを守ればあとは全て自由。国のどこかで恐ろしい感染症が蔓延しているらしいことは頭では理解していたけど、家に居れば安全なんだし、実感は全然なかった。

 最初は長い休校を心配していたお母さんも、家に居っぱなしの私とおばあちゃんが夕食を作ったり掃除したりすれば「普段より楽になった」と言ってくれたし、あとは毎日誰かしらと通話しながら動画を見たり、スマホゲーで対戦したり、それなりに勉強もしながら、思いがけず長くなった春休みを過ごしていた。


 おかしいな、と思い始めたのは4月に入った頃。新学期が始まって3年生になった…はずだったのに、国が7日に『緊急事態宣言』を出して休校が延長になった。始業式はなくなったし、学校に行けていないからクラスもわからない。いつのまにかオリンピックも延期になっていた。

 地方の寮に入っているお姉ちゃんも大学には一切行けず、かといってうちにも帰ってこれなくて、毎日部屋にこもって慣れないオンライン授業にかかりきりらしい。お父さんは毎日嫌々電車で出勤しているし、お母さんは病院で事務をしているから、問い合わせや消毒作業で毎日ひどく疲れて帰ってくるようになった。おばあちゃんも自分で薬をもらいに病院に行くのは危ないだろうって話になって、そういう外出や買い物をお母さんが全部1人で済ませることにしてから外に出なくなっちゃったから、暇な私と夕方に近所を散歩するようになった。

 いつのまにか、出掛けるときにはマスクが絶対必要になっていて、家で備蓄していた使い捨てマスクがみるみる減っていったけど、どこも売り切れでお父さんもお母さんも全然買ってこれない。近所に住んでいる伯父さんが分けてくれた分も尽きかけて、じゃあ作らないと…と一念発起して手芸屋さんをはしごしたけど、考えることは皆同じ。ほんの少しマスク用のゴムが買えただけで、それも最後の1つだった。結局、家中のガーゼハンカチを全部潰して作ったマスクを、家族全員で洗いながら大事に使うことになった。友達の近所だと、マスクだけじゃなくてトイレットペーパーを買い占めている人もいるらしくて意味がわからない。

 さすがに一ヶ月以上も家から出られないと不安になってきて、学校から『二週間に一回の登校日』の連絡が来たときはホッとしたけど、クラスの半分が一瞬だけ登校して課題をもらうだけ。徹底した時差登校のおかげで他のクラスや学年とも会わないし、新しいクラスで友達も作れないまま挨拶して帰るだけの登校日だった。通話とメッセとSNSだけが外と連絡が取れる唯一の手段で、あとはごくごくたまにお母さんの買い物に荷物持ちで付いていくくらい。スーパーの中はごった返すほど人がいるのに、一歩外に出ればすれ違う車もほとんどなくて、歩いている人もいなかった。

 ニュースはだんだん見なくなった。毎日どんどん感染者が増えていって、世界中で同じことが起こっていて、死者もどんどん増えて……見るたびに暗い気持ちになるから。

 この頃になると、お母さんの勤務先はコロナ患者を受け入れる感染症指定病院として続々と入院患者が増え始めていたし、重症で大病院に転院する人もちらほら出るようになったと聞いた。感染場所も、最初は都内に通勤している人が…くらいだったのに、徐々にうちからちょっと遠いスーパーやホームセンターで感染者が出たって噂を耳にするようになって、そのたびに薄ら寒い気持ちになった。そのうち、『無症状の人が多いが、無症状でも他人に感染させる』『重症化すれば肺炎になり、最悪命を落とすこともある』『若い人より、老人が罹ると重症化する危険が高い』と色々な特徴が判明しはじめて、心の底からゾッとした。私は家にいれば安全かもしれないけど、――お父さんは?お母さんは?もし2人が罹って大丈夫でも、心臓の薬を常用しているおばあちゃんにうつったら?


 そう思ったら、突然……いつのまにか日常生活全てが変わり果ててしまっていたことに気がついた。

 外出禁止。マスク必須。うがい手洗い必須。どこに行っても手を消毒。朝起きたら検温。帰宅したらすぐにシャワー。制服と鞄にはアルコールを吹きかける。コップやお皿を家族と分ける。食事の前には必ず消毒。友達と話せても会えない。遊びに行けない。学校に行けない。勉強できない。

 成績は、受験はどうなるの?一ヶ月も経ったんだし、少しは感染も収まってるよね?もうすぐ元に戻るよね?買い物も旅行も行けるようになるよね?緊急事態宣言も終わるんでしょう?

 その答えは、誰も持っていなかった。お父さんもお母さんもお姉ちゃんも、いくらネットを調べても。


 それはまるで、私の世界が閉じていくようだった。

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