蟻地獄

長芋

第1話 放課後の教室

 一目惚れだった。

 乃木和花を初めて見たのは、一年の最初の全校集会だった。

 一学年に六つあるクラスの生徒たちが三学年分バラバラに入り混じって、それぞれが自分のクラスの列に並ぼうとしてごった返していた。自分のクラスの列に並び終えた俺は、他の生徒たちの話声や笑い声による喧騒をBGⅯに、自分の列が埋まるのを待っていた。時折、クラスメイトに出席番号を聞かれるのを返しながら靴の汚れを気にしていると、甘い匂いが鼻腔をくすぐった。

甘い香りに誘われるように思わず顔をあげた先にいたのが乃木和花だった。これが恋かと不思議な感覚に陥ったことを覚えている。

 それ以来、隣のクラスの生徒だった乃木和花を見かけては度々目で追っていたが、どうにも気恥しくて話しかけられずにいた。

 そんな状況であったから、学年が変わって同じクラスになった時は、心臓が飛び出すくらい鼓動が大きくなった。親友のサーモンこと益田圭介が言うには、実際に溶けたような顔をして、口角は耳まで吊り上がっていたという。

 折角同じクラスになったのだから、何とか話すきっかけがないかと、窓から差し込む斜陽が眩しい教室でサーモンに相談していた。

「きっかけというけどね、エージ。どんな話題だって男子が同じクラスの女子に話しかけるのは不思議じゃないだろ」

 サーモンはお馴染みの貼り付いたような笑顔を崩さずに言葉を返した。

「いや、サーモン。逆だよ、逆。クラスメイトでも仲良くも何ともないやつに話しかけられると困るだろ」

 サーモンはその特徴的な糸目を右目だけ少し開けると、眉をわずかに下げて、呆れたように息を吐いた。

「エージ。その消極的な姿勢がよくないよ。そんなことを考えているようじゃだめだね」

 なんだ? 

俺の恋心が間違っているとでもいうのか?

「じゃあどうするのがいいと思うんだ?」

「うん。はっきり言って、エージはいわゆるモテる要素は備えていると思うんだ。例えば、たまには顔を良く言われることだってあるだろう?」

「学校が変わると一回ぐらいは誰かしらに褒めてもらえることがあるな」

「そういうことだよ、エージ。君は自分を過小評価しすぎているんだ。身長だってこの間の健康診断でまた伸びていたんだろう?」

「ああ、百八十八になった」

「背も高くて、顔は悪くない。おまけに性格は最高だ。これでなんで自信が持てないんだい?」

 サーモンは椅子に浅く座りなおして、両肘を二人の間にある机に置くと、上体を俺の方に乗り出した。そうすると、相変わらず張り付いた様な笑顔を崩すことなく、今度は両目をわずかに開いて言葉を続ける。

「確かにエージは、目つきは悪いし、無駄に筋肉質なせいで威圧感が凄いから友達もいないよ。でもね――」

「おい」

「でも、エージにはエージの良さが――」

「おい! ちょっと待て」

 俺の魅力を、身振り手振りを交えながら、情熱的に語ってくれていた圭介は言葉を遮られて電池が切れたみたいに止まった。

「おい。全部出ちゃったよ」

「何がだい?」

「俺の悪い所が止まらないよ。エンジェルフォールより勢いよく出ちゃってるよ。そうだよ。俺は友達いないよ。……いや、いるよ! サーモンは俺の友達じゃなかったのかよ!」

「僕は友達だよ」

 なんでこいつはこういう時だけまっすぐ目を見て話してくるんだ。

 冗談のつもりでも、目を見て話されると恥ずかしくなってくる。

「なんだよ……」

 顔がほころんでいるのが自分でもわかる。

 自分の顔が緩んでいるのを確認したのか、サーモンは満足そうな顔をした。

「でも、だよ。まともに会話出来る人なんて僕とあーちゃんの二人しかいないじゃないか。二人とも身内みたいなものだし、実際は友達いないも同然だよ」

「お前俺のこと褒めたいのか貶したいのかどっちなの?」

「……もちろん褒めてるさ」

「変な間があったぞ!」

 圭介はいたずらっぽく笑っている。

そう言えばこいつはこういう冗談の好きなやつだった。

俺は改めて目の前のにやけ顔の持ち主を見る。益田圭介。俺の二人しかいない友人の一人だ。もう一人と三人で幼稚園からの腐れ縁でもある。男にしては背が小さくて、未だに遠目に見ては女子と見分けがつかないほどだ。いいやつなんだが、背が小さいことがコンプレックスなのか、貼り付いたような笑顔からは考えられないくらい怒りっぽいのが玉に瑕だ。

 

 サーモンはさっきからずっと人が何に魅力を感じるかについて話し続けている。第一印象とのギャップがどうとかそういうありきたりな話だ。

 よくこんなに口が回るものだ。 

 口の中にエンジンでも積んでいるんじゃないか。

 そんなことを考えながら、ぼんやりと窓の外を見ていたら、もう一人の腐れ縁が来た。

「二人ともお待たせー。ごめんね。待たせちゃって」

「やあ、あーちゃん。日直の仕事は終わったのかい?」

「うん。今先生に日誌を渡してきたんだ」

 言いつつ、綾瀬文乃は自分の机から鞄を持ってきて、俺の隣の席に座った。

「二人は何の話をしてたの?」

 文乃は鞄を机に置くと、太ももの下に両手を差し込んで、足をパタパタさせながら聞いた。

「エージが乃木さんに話しかけたいんだってさ」

「まだ話したことないの?」

 文乃が驚いたような顔をする。

 心外だ。

俺が誰彼構わず声をかけるようなデリカシーのない男だとでも思っているのだろうか。

 俺は力強く抗議しようとしたが、乃木和花が話題にちらつくだけで妙に恥ずかしくなった。

「いや、だって……なんか恥ずかしいし……」

「はぁ……英二はそういう所よくないよ」

 文乃が呆れたように言った。

またか。

さっきのサーモンと同じことを言いたいんだろう。

愛想が悪くて卑屈なせいで友人がいないのは自分でもわかっている。

最初からそんな言葉を求めていたわけじゃない。

「文もその話か。もう散々サーモンに聞いたよ。俺はそんなこと聞いてないんだよ」

 文の顔が一瞬曇った気がしたが、すぐに笑顔に戻った。

「エージ。そんな言い方はないよ。あーちゃんだってエージのために言ってるんだから」

「……ちっ、悪かったよ」

 ひどいことをした。

 行き場のないイライラを、滅多に怒らない文に押し付けた自覚はあった。

「こんなのはどうかな?」

 嫌な空気になりかけたのを嫌ったのか、サーモンが言葉を発した。

自分のせいで悪い雰囲気になることに比べれば、この際、内容はどうでもよかった。

「どんなの?」

 俺の言葉に、うん、と頷いたサーモンが提案の内容を話し始める。

「何を言ってもエージのネガティブ思考は変わらないから、もう日を決めて、告白しちゃうっていうのはどうだい?」

「い、いきなり告白か?」

 話したこともない人に告白するのはハードルが高くないか?

 俺が何か言おうとしたのを遮るように、サーモンが再び口を開く。

「僕としては、エージの魅力を前面に押し出しながら、愛情をストレートに伝えるのがいいと思うんだ。あーちゃん! エージの魅力と言えば?」

「やさしい!」

 急にサーモンに聞かれた文乃は条件反射のように即答する。

お互いのことを知らないことがないくらい知り尽くしている幼馴染に素直に褒められるとなぜか恥ずかしい。

「確かに。見た目のせいで勘違いされやすいけど、エージほどやさしい人はいないだろうね。じゃあエージ! 自分の魅力は何だと思う?」

「ま、まっちょ」

 何故か咄嗟に口から出たのがマッチョだったが、考えてみればマッチョが魅力というのはおかしい気がする。

「確かに。圭介の筋肉は最高だよ。僕もたまに抱かれたくなるくらいだ。ね?

あーちゃん」

「わたしは特に大胸筋と上腕三頭筋のがっしりした感じが好きです」

文乃は真面目な顔をして答える。

この二人にはそんなこと関係なかったようだ。

自分の中の違和感は、その正体を認識されないまま、サーモンと文乃の言葉に流されていった。

「僕はエージの一番いい所は、男らしい所だと思うんだ。だから、この三つを全面に出した告白にしよう」

 優しさとマッチョと男らしさを前面に出した告白など想像もつかないが、サーモンと文乃はすっかり盛り上がって、その気でいた。

「うんうん。絶対良いよ。英二もそう思うよね?」

「ああ」

 まだ二人の勢いに乗り切れていない俺は、文乃の問いに、その一言しか出なかった。

 俺の返事に、承認を得たと受け取ったと思ったのか、サーモンが口を開きかけたところ。

 俺たちしかいないと思っていた教室に、他の誰かの声が響いた。

「お前たちそこでなにしてる!」

 勢いよく開かれた扉を見れば、そこにいたのは担任の長嶋先生だった。上下赤一色のジャージに身を包まれたその姿は、女性とはいえ、おおよそ体育教師とは思えないほど小さなもので、親の寝間着を借りた子供の様だった。しかし、首に下げられている紐の先にあるホイッスルと右手に持たれた竹刀は、まさに体育教師のイメージを具現化したようにも思える。彼女は剣道部の顧問ではなかったはずだが、なぜ竹刀を持っているんだ。などという疑問が起こらないほど、その姿は自然なものだった。

 三人とも、唐突な無意識からの大声に、びくりとして固まっていたが、教師の姿を認めると、すぐに体の緊張は解けた。そうして、文乃が喉を通っていないような声を絞り出して挨拶した。

「こんにちは。長嶋先生」

 完璧な答えだと思った。強気に来た相手には、文乃のように丁寧な対応が一番いい。下手に強気に出てもあの手の人間は返って引っ込みがつかなくなって逆上するかもしれない。相手を怒らせずに上手くとりなすのは思っている以上に難しい作業だ。

 長嶋先生は文乃に面食らったようで、一瞬言葉に詰まったが、すぐに威勢を取り戻した。

「なんだ。綾瀬たちか。もう遅いから早く帰りなさい」

 小動物が威嚇するときのように、必死に自分を大きく見せようと、つま先立ちしている長嶋先生相手に、文乃は、にこっ、と笑って机の上の鞄を持つと、立ち上がって俺とサーモンを見ていった。

「二人とも行こう?」

 俺とサーモンは文乃に小さく返事をすると、教室の入り口をふさいでいる長嶋先生の横を通り抜ける文乃の後をついて教室を出た。

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