初盆
ぴよ2000
第1話
「車の中に忘れたDVDを取りに行ってくる」
妻はそう言ってアパートから出て行った。あ、いや、正確には、「最近は物騒だからしっかりと鍵をしておいてね」だった。
今から二年前、新婚生活のためにアパートの契約をしたのはよかったものの、敷地内の駐車枠は先住民の所有車で満車となっていて、徒歩で五分はかかる月極駐車場に泣く泣く借りることにしたのだ。
おかげで、買い物の商品を車に忘れてしまうことがあろうものなら往復一〇分間の手間がかかることになる。いや、それにしてもたかだか一〇分だろう、と反論しようものなら「もし強盗が押し入ってきたとしても同じことが言えるのね?」等とあっけなく論破してくるので、妻が出て行った直後に大人しく施錠する。
「ふう」
リビングに戻り、エアコンの冷房スイッチを入れたところで、あれ、やっぱり俺が行くべきだったよな、と後悔する。帰ってきたら少し不機嫌になっているかもしれない。
お盆の時期。
といっても、台風が接近しているので実家に帰ることも、親戚の家にお邪魔することもなく、ただの休日と同じように妻と過ごしていた。
買い物に付き合い、外食をし、その時に家で映画でも観ようということになり、帰りに寄ったレンタルDVDショップでアニメ映画を一本借りた。タイトルは忘れたが、大量のペンギンが一般住宅街に出て来る映画だった。
時計を見ると、午後六時二〇分。
元々薄暗い天気だったので、日暮れという感じはしない。ただ、薄暮時は夜よりも暗いとよく聞くので、この天気も相まって尚更妻を外に出したことが悔やまれる。
ああくそ。
どうして俺が代わりに行かなかったのだろう。
おっとりした気性の俺と違い、妻はしっかり者で、その分尻に敷かれがちだ。
ただ、そんな妻のおかげで、面倒だとか、どうでも良い、と感じて物事を考えないで放置する癖が減ったように感じる。
例えば今回の鍵の件だって、たかが一〇分間とは言うが妻の言う通り、もし強盗や、もっとたちの悪いやつが家に入って来ていたらと思うとぞっとしない。
だから、もっとよくよく考えれば俺が妻の代わりに車に戻っていれば、帰って来た妻の顔色も気にせずに済んだのではないか?
ドンドン。
その音が、負の思考ループから現実に俺を引き戻す。いや、引き戻すどころか、あまりにも大きく部屋に鳴り響いたものだから椅子から飛び上がってしまった。
ドンドン。
音がする方向、玄関扉を見やる。擦りガラスの向こうに黒い影が滲んで見えた。
咄嗟に妻が帰って来たのだと思った。が、「あれ」妻にしては、どこか影が高い。
いや、人間にしても影が高い。新婚旅行で海外に行ったことがあるが、その時に見かけた現地の成人男性よりも背丈がありそうな。
「……」
いや、もしかしたら光の加減でそう見えるだけかもしれない。
普通の天候ならともかく、今は台風が接近しているため、正常なものとは、ガチャガチャガチャガチャガチャガチャ「ひぃ」ドアノブが激しく上下した。加えてメシっと扉の周りに圧がかかった。施錠がかかった状態の扉を引いたり押したりした時特有の軋み音。
「な、何だ? 何だよ?」
半ば叫ぶように呟いて、でも身体が動こうとしない。
動悸の乱れに伴って呼吸が乱れる。じめっとしていたはずの室内が、いつの間にか冷気で満ちていて、少し寒いくらいだ。はたして我が家のエアコンはこんなにも優秀であったか。
とにかく、落ち着け。
そう自分に言い聞かせ、玄関扉に向き直る。まだ影はすりガラスの向こうに滲んでいて、先ほどドアノブを回されたのが嘘であったかのように静まり返っている。
普通に考えれば、DVDを取りに行った妻位しかこの部屋に用がある人は心当たりがないが、あのシルエットが光の屈折によるものだったとしても不審な点が数か所ある。
まず、戻って来る時間が早すぎること。
さっき妻がアパートを出てから、一〇分どころか三分も経っていない。片道でさえ五分はかかる距離だというのに。
二つ目はアパートの鍵を持っていないのか、という点。
妻は用心深い女であり、ゼロではないにしろ、ケアレスミスをしない方だ。そんな彼女がアパートの鍵を持たずして外に出たとは考えにくい。
最後は、どうして中にいる俺に声をかけようとしない?
百歩譲って車の鍵も部屋の鍵を持ってくることを失念し、駐車場までの道中から鍵を取りに戻って来ていたとして、それならどうしてその旨を俺に伝えようともせず、ドアを叩いたりノブを回したりといった強硬手段に出たのだ?
「おーい」
声が、聞こえた。玄関の外から、妻の呼び声が聞こえる。あ、あれ? ということはやっぱり俺の勘違いなのか? 俺の思い過ごしなのか?
「ごめーん。鍵を忘れちゃった。中に入れてくれないかな?」
機嫌が良い時の猫撫で声。これは、やはり妻の声だ。
ほっと一息ついて、途端、強張っていた身体が弛緩した。
合わせて緊張も一気にほぐれ、手足が思い通り動くようになる。まったく俺は何を怖がっていたのか。外にいるのは紛れもない妻だというのに。
「あ、ああ」
玄関に駆け寄り、つまみに指をかける。「すぐにあ」ける、と言いかけて、ぐっと飲み込んだ。
――ああ、そうだった。俺は。
「何をしているの。早く開けてよ」
「……」
すっとつまみから指を離し、擦りガラスの向こうを見る。見上げてしまう位、大きな影。
光の屈折が、こんなにもはっきり見える訳がない。
「ねえ。何を何何をしているの? 早く開け開け開けてよ」
ドンドンドンドンドンドンドンドンドンガチャガチャガチャガチャガチャガチャ。
扉が激しく叩かれ、ノブ壊れる位上下する。妻の教えはやはり正しかったと改めて思った。
これは、明らかに良くないものだ。
「私ならここにいるわ。早く戻りましょう」
家の中から声が聞こえ「そうだな。すまん」と答えた。
そうだ。妻は今日、DVDを取りに行ってなどいない。その証拠に、妻のサンダルがまだ玄関に残っているではないか。
――車の中に忘れたDVDを取りに行ってくる。
去年のこの日、妻はそう言ってアパートから出て、二度と帰らなかった。雨で視界を奪われた軽トラックに轢かれたのだ。
……俺が、取りに行っていたならと、今でも思う。
「一緒に観ようって、約束したもんな」
簡易の仏壇に、朗らかな妻の遺影。
お鈴を鳴らし手を合わせて、俺はDVDをデッキに挿入した。
初盆 ぴよ2000 @piyo2000
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