手段その16 備え

「お兄様、今日は私、引っ越しのために学校はお休みします」


 朝、突然そんなことを言われて引っ越しをするのだったと思い出した。

 いや、正確には忘れていたわけでもないが、その話題に触れなければこのままやり過ごせるかもなんていう、ありもしない可能性を求めての最後の抵抗としてスルーしようとしていたのだがもちろんそんなに都合の良い話はなく。


 ただ、今日は渚が学校に来ない。それだけでも僥倖といえる。


「ああ。じゃあ荷物は任せるよ。でも、俺だけ学校に行ってもいいの?」

「お兄様は進学含め将来のためにしっかり勉学に勤しんでいただかないと」

「でも、それをいうなら渚だって」

「私は……お兄様とのお子を授かったら専業主婦で子育てに勤しむのですから教養など最低限あれば十分です」

「え、いや、まあ」

「あら、私ったら少し気が早かったですね」

「そ、そうだよ将来なんてどうなるかわかんないんだしさ、あはは」

「いいえ、お兄様と結ばれる未来だけは確定しています。だからそこに揺るぎはありません」

「……」


 渚は未来から来たのかい?と冗談で聞いてみると「私とお兄様が結ばれない未来なんてもしあれば私が抹消します」と平気な顔で少しずれた回答を投げられた。


 渚の中ではそう決めていたとしても、俺の中では渚とは結ばれない未来を望んでいる。

 なにも嫌いだというわけではない。

 しかし渚と一緒になることはあまりにも問題が大きすぎるし、最近の彼女の行動を見ていると可愛いよりも怖いが先に来る。


 だから恋にも発展しないし、可愛いというだけで情に流されてしまったら取り返しのつかないことになるだろうと、想像はついている。


「じゃあ行ってくるよ」

「ええ。いってらっしゃいませお兄様」


 久しぶりに一人で登校するのはなんとも清々しい。

 途中でクラスの連中から「あれ、渚ちゃんと一緒じゃないの?」と何度も聞かれたがその度に「兄妹なんだから別々の日もあるよ」と、偶然生まれた束の間の休息を自ら勝ち取った権利のように誇らしげに語っている自分がいた。


「おはよう涼宮。今日は一緒に飯食おう」

「どうしたのよ。あの妹は大丈夫なわけ?」

「今日は学校休んでるんだ」

「なるほどねー。でも、なんで? 体調でも崩したの?」

「そ、それは……まあそんなとこだ」


 朝の清々しい空気にすっかり忘れていたけど、今日から俺と渚は一つの部屋で二人で過ごす、いわば完全な同棲状態になるのだ。

 

 嫌なことを忘れようとするのは人間の本能なのだろうが、思い出してしまった時のダメージが大きいのもまた、俺が健常な精神を持っている証拠か。


「はあ……」

「何よテンション上がったり下がったり。また何かされたんでしょ」

「いや、されたというかされそうというか。なあ、涼宮は誰か好きなやつとかいないのか?

「わ、私?い、いないわよそんなの!それに聞いてどうするのよ」

「だよなー。いたらさー、どんな感じなのか教えてもらおうかなって。渚がどうしてあんな感じになるのか、わかんないんだよ」

「……好きになったらその相手のことばかり考えてしまうものよ。それに、好きな人に他の相手の影が見えたら嫉妬もするし、自分だけ見てほしいってそう思うのはまあ普通よ」

「へー、まるでそんな経験があるみたいな言い方だな」

「な、ないわよバカ!」


 涼宮とそんな感じで話ができるのもかなり久しぶりの事のようだった。

 最近は話していても常に渚の影が付きまとっていたし、やはり友人と何の気兼ねもなく会話ができるのは楽しいものだ。


 渚がいない学校生活は平和そのもの。

 まるで彼女が来てからの日々が夢の中の出来事だったかのように、穏やかで静かで以前の通りに戻った時間は、それはそれは気楽だった。


 しかしそんな時間も長くは続かない。


「お兄様。今はどちらで昼食をとられていますか?」


 昼休み、涼宮と一緒に飯を食おうと教室を出た瞬間に電話がかかってきた。

 タイミングが良すぎたので、思わず辺りを見渡したがもちろん渚の姿はない。


「え、ええと、今日は弁当じゃないから食堂に行こうかなと」

「食堂へは誰と行かれるのですか?まさかあの女と」

「ひ、一人だよ!さっさと食べて教室に戻らないとだし」

「そうですか。私、引っ越しの準備を終えたら放課後は正門までお迎えにあがりますね」

「い、いや別にそこまでしなくても」

「そこまでしないとお兄様の浮気癖が治りませんもの」

「な、何の話かな」

「お兄様、嘘をつかれる時はもう少し声のトーンを下げてお話しくださいませ。では」


 ブチッと電話が切れた時、俺は気がつけば脇汗がびっしょりだった。


 嘘……つまり涼宮と今飯を食おうとしていることも渚にバレているというのか?


 いや、それは俺にGPSをつけていたってわからないことだろう。

 じゃあやっぱりどこかで俺のことを……い、いやそれもないか。

 となるとカマをかけられただけかもしれない。


 いや、きっとそうだと悪い可能性を振り払うようにそう思い込み、結局涼宮と食堂で久々に飯を食べることに。


「あのさ、もうちょっと兄の威厳とやらをあの妹に見せつけてやれないの?」

「なんか怒った渚の何するかわからんオーラが怖くてだな……」

「まあ、いきなり襲い掛かってきそうな空気あるわよね。でも本当にお店のお客さんってだけなの?」

「うん、だって俺はあいつが家に来るまで話した記憶もないんだし」

「ふーん。じゃあよっぽどあんたがかっこよく見えたんだ」

「俺に惚れるなんてどうかしてるよ」

「な、なによ失礼ね」

「は? 自虐だぞ」

「あ、そ、そうだったあはは」


 涼宮や透と何気ない日常をダラダラと過ごすことが俺にとってはやっぱり一番気楽で落ち着く。


 だからせめてその部分だけでもわかってもらえないものか。

 むしろその辺を自由にしてくれたら俺は……いや、それでもやっぱり渚とどうこうなるわけはないか。


 その後、渚から連絡がくることはなかった。

 涼宮も透も今日は忙しいようで放課後になるとさっさと一人校舎を出ることに。


「お兄様、おかえりなさいませ」

「あ、渚……」


 白いワンピースに身を纏った妖精のように眩しい渚がニコニコしながら正門のところに立っている。

 もちろんそれを他の生徒が見逃すはずもなく、彼女を見ようと正門の手前で男子が溜まってしまい、すぐに人だかりが。


 しかしそんな連中など眼中にもない様子で俺の方へ渚は一直線。


「お兄様、お引越しは終わりましたが少々足りないものがあるのでお買い物にいきませんか?」

「あ、ああ」


 騒然とする正門前を、俺と渚は出て行く。


 男どもは俺に向けて「渚ちゃんから離れろ」などと口々にヤジを飛ばしていたが、じゃあ俺から引き離してくれよと大声で叫びたくなるのを必死に我慢して二人で買い物へ向かった。


「汚らわしい虫のようですね、お兄様。どうして男性とはああも品性がないのでしょう」

「お、俺も男だけどね」

「お兄様は別です。でも、お兄様もあのような輩と付き合うと悪い影響を受けかねないのでお付き合いなさる友人は選んでくださいね」

「う、うん。それよりさ、何を買いに行くんだ?家具とか寝具とか?」

「いいえ、避妊具です」

「ああ……ああ!?」


 びっくりするくらい大きな声が出た。

 聞き間違い、なんかではないのだろうが何を言ってるんだこいつは?


「お兄様が私との距離感に困っておられるのはわかります。まだ学生の身でありながら身籠りたいなんて思う私に、経済的な観点から冷静になるように促していただいているお兄様の将来を見据えたご配慮、とても感謝しています。なので学生の間は一旦我慢いたすことにしたのです。でも、そうなると必然的に必要となってきますもんね」

「い、いやそもそもそういう行為をすること自体がどうかと」

「愛し合っているのであれば自然なことでは?それにわずかコンマ数ミリとはいえ、お兄様と隔たりを持つことに関して渚は十分にお兄様のお考えに配慮し、我慢しているおつもりですが」

「ですがって言われても……」


 結局向かった先は薬局。

 もちろん買うものは一つで、それをレジに持っていくと店員の男性からすごく疎ましいような目で見られた、気がした。


 ただ、買っただけで俺は使うつもりなど毛頭ない。

 未開封のまま、期限が過ぎてゴミになってしまうことを今はただ祈るばかりだが。


「お兄様、ご新居ではお風呂もご一緒しましょうね」

「だ、ダメだってこの前言ったじゃないか」

「恥ずかしく思われる必要はありません。それにこの前拝見させていただきましたがお兄様のモノはとてもご立派に思えますよ?もちろん他の殿方のそれなどみたこともありませんが」

「い、いや恥ずかしいとかじゃなくて」

「嫌、なのですか?」

「え?」


 渚は、白いワンピース姿を夕映えに赤く染めながら、逆光に目を細めるように俺を睨む。

 夕方の涼しい風がひゅーっと吹くと、俺の血の気もサーっと引いていく。

 

 まるで天使が舞い降りたかのような姿の彼女が、まるで地獄に堕ちたかのような苦痛に歪む表情で俺を見つめる。


 それがどれほど怖いことか。

 ひと気の少ない夕暮れの帰り道で、俺はごくりと唾を飲む。


「な、渚?」

「……いいです。お兄様がその気なら、私にも考えがありますので」

「え?」

「おうちはもうすぐそこです。行きましょうお兄様」


 こんな義妹とワンルームで同棲。

 俺はいつまでこの身を清いままでいられるのか。


 マンションの下についた時、渚がペロッと乾いた唇を舐めた姿を見て、震えながらその中へ案内されていった。


 

 


 


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