手段その5 コンパス

「お兄様、おはようございます」


 朝、渚が俺の隣で目覚めることはなくなった。

 というのも先日、二人でその辺りについて話し合ったのだ。


 まず、俺に他に好きな女子などいないことを前提に、渚と正式に交際するまではそういう仲にはならないと勇気を出してはっきり告げたのだ。


 もし関係がバレて親が離婚したら今の家族関係もパーになると説明したら、渚も「それは困ります」とあっさり同意してくれたわけで。


 なので朝は彼女がそっと起こしてくれるだけ。

 だからなんの気兼ねもなく可愛い義妹目覚ましに甘えられるわけ……


「ってなんで下着なんだよ!」

「えっ、その方がお兄様の好感をより早く得られると思いまして」

「そ、そういうエッチなのはなしだって!」


 ブラとパンツを身に着けているだけまだましだったと思えたのは、彼女が出て行ってからしばらくして、動悸がおさまった頃。


 こんな生活は早くどうにかしないと。

 そう思って、渚にはああいったものの親父と優子さんが離婚なんて展開を少し期待してしまう悪い自分がいた。


 でも、学校に行く前に店に行くと親父と優子さんは、まるで長年連れ添った夫婦のように仲睦まじく仕込みをしていた。


 仕事一本で毎晩鳥ガラみたいになっていた親父の顔に精気がみなぎっているのを見て、やっぱり渚とは健全な関係を保たないと、と考えさせられる。


「お兄様、本日はお弁当をご用意いたしましたの。食べてくださいね」

「あ、ああ。ありがとう」


 隣で微笑む渚を見ながら考える。

 この子との関係性さえどうにかなればうちは必ず幸せな家族になれる。


 だからやっぱり恋愛対象としての俺ではなく、兄としての俺にならなくてはいけない。

 そのためには少しずつだけど兄としての威厳というものを……


「あのさ、渚。教室に毎時間くるのはやめないか?」

「どうしてですか?私はずっとお兄様のお顔が見ていたいのですが」

「そ、それは写真とかでなんとかならないかな」

「そんなに渚が迷惑、ですか?」

「え、いやそういうわけではないけど」

「私、どうしてお兄様の教室に足しげく通うかわかります?」

「お、俺に会いたいから、だよね?」

「ええ。でももう一つ。お兄様に悪い虫がつかないか監視しているのですよ」

「そ、そう、ですか……」

「はい。なので私が来るまでにご婦人との用事があれば済ませておいてくださいね。お兄様のそんな姿を見てしまったら私……相手の方をどうするか」


 渚の目が曇る。

 口元は少し笑っているようにもみえるが目は全く笑っていない。

 どころか今にも誰かを殺しそうな殺気が漂う。


「わ、わかったわかった……別に来るなとは言わないから」

「よかった。私、お兄様と一時間会えないだけで心が張り裂けそうなので」

「そ、それはどうも」


 俺はそんなにずっと渚といたら心が病みそうだけど。

 そんなことを思ったが言葉を飲み込んだ。言ったら最後、俺は監禁でもされてしまうような気がしたから。


 正門をくぐって校舎に入るとようやく一息。

 彼女が一年生の自分の教室に入っていくのを見届けて二階の教室に向かうと、階段でばったり涼宮と遭遇した。


「おはよう。今日も妹ちゃんと仲良さそうね」

「そう見えるなら眼科行けよ。こっちは毎日大変なんだ」

「なによ、もしかしてあの妹に言い寄られてるとか?」

「その通りとしか言えんな。はあ……マジで疲れる」


 こんな風に涼宮と話しているところも、渚に見られたら大事になるんだろうなと考えてしまうのは、既に俺が渚に洗脳されつつある証拠なのだろうか。


「何よそれ、いいことじゃん。嫌われるよりは好きって言ってくれるだけましだと思ったら?」


 もちろん涼宮の反応を責めるつもりはない。

 むしろ普通の反応だと思う。


 俺だって好意を持ってくれていること自体に嫌気がさしているわけではない。

 そうじゃなくて、その、なんというか愛が重い、というかあまりに重すぎるからしんどいというか……


「なるほど、好意がうざいってわけだ」

「うざいっていうことはないんだけどさ……その、答えてやれないのに申し訳ないというか」

「真面目ねえ。でも、それを伝えたらいいんじゃない?」

「いや、それはだな……」


 そんなことを言った日にゃ、俺は多分この世にいない。

 だからどうにかして彼女の興味を逸らす方法を考えているのだけどもちろん良案なんてそうそうない。


 嫌われるのもちょっと違うし、どうしたらいいものか……


「お兄様、何をされているんですか?」

「ああ、涼宮にちょっと相談を……って渚!?」

「何のご相談ですか?もしかして恋愛のこととか?それとも」

「な、なんでもない!それよりお前、教室に行ったんじゃ」

「私と離れてすぐのお兄様の行動を監視しようと、少しフェイクを入れてみたのです。ふふっ。悪戯が好きなんです私って」


 悪戯って……

 笑える範囲のことなら悪戯の一言で済むけど、渚の場合は本気だから笑えない。


 俺が顔を青ざめていると、そんな様子を見かねてか涼宮が渚の方へ。


「ねえ、渚ちゃんだっけ?あんたの兄貴が困ってるらしいからちょっとは放っておいてやりなよ」

「困っている?それはどうしてですか?」

「どうしてって……妹からぐいぐい来られて迷惑がってんのよ」

「迷惑?お兄様がそう言ったのですか?」

「い、言ってはないけど見てりゃわかるわよ。あんたさ」

「言ってもないのにそんなこというなんて、あなたお兄様のことが好きなのですか?」

「え?」


 俺は言い争いになりそうな二人を止めに入ろうとしたところで渚からすごい目で睨まれたので足が止まった。

 そして彼女はその目のまま、涼宮に迫る。


「涼宮様、でしたっけ。お兄様に好意があるというのであればはっきりそう申し上げたらよろしいではないですか」

「な、なんで私が……あいつとは友達よ」

「あいつ……お兄様をあいつ呼ばわりだなんて汚らわしいですわ。天誅を下して差し上げます」

「え?」


 彼女がポケットから何かを取り出そうとした。

 それが何かはわからなかったが、とにかく危険な予感がしたので咄嗟に間に入る。


「渚、もうやめろ」

「お兄様……お兄様もその汚らわしい俗物を庇うのですか?」

「俗物って……いや、そうじゃないし俺と涼宮は絶対そういう関係にはならないから」

「そのお言葉、信じてもよいですか?」

「も、もちろんだよ。なあ涼宮」

「……じゃあね」

「お、おい」


 なぜか涼宮は気分を害したように先に行ってしまった。

 それをみて追いかけようとしたが、渚に袖を引っ張られて足が止まる。


「お兄様。もう授業ですので私は帰りますけど、くれぐれも多情な男性にだけは成り下がらないでくださいね」

「そ、そんなことは……いや、ていうか俺は」

「お兄様は私だけのものです。では、また後程」


 微笑んだ後、振り向いて下に降りていく彼女の右ポケットからするりと何かが落ちた。

 呼び止めたけど渚はそのまま行ってしまう。

 そして落ちたものを拾うと、それはコンパスだった。


 ……なんでこんなものがポケットに。

 いや、さっき取り出そうとしていたのはこれ、か?


 針が鈍く光る。

 俺は彼女のそれをそっと自分のポケットにしまって静かに教室に戻る。


 

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