第109話 マクシムの庭園
ディアナ・フェルミ大尉は迫りくる樹の枝を驚愕と共に見ていた。
何が起きたのか分からないが、事態が急変していた。
森そのものが意思を持ち、敵に回ったようだった。
迫りくる枝はディアナのウエストよりもずっと太い。
速度も速いが、あらゆる方向から枝が迫ってくる。
一本や二本ではない、無数の樹の枝が襲い掛かって来た。
奇襲するために作った土人形は壊されてしまった。
土人形使いである彼女にとって、防御のための手段を失ったことに等しい。
受けることも避けることもできない。
いや、そもそも、この状況はディアナの能力では対処できない。
明らかに
ただただ彼女は瞠目して動けない。
そして、ディアナは枝の一本に打ち付けられる。
視界が回転する。
腰から下の部分、大腿骨付近が折れる音。
樹々の密集した森なので、彼女はいろんな部分を強かに打ち付けながら吹き飛ばされる。
視界が歪む。
理解できない衝撃。
背中、腕、膝、頭。
痛いはずだが、痛みを感じない。
暴力的で圧倒的、理不尽な力に翻弄される。
視界ににじむ涙。
さまざまな衝撃を感じながら、彼女は失神する。
その時、最後の息とともに謝罪をする。
それは無意識の、心から溢れた謝罪だった。
「————————ごめんね、ミッチェン……」
少佐昇任試験二人目の脱落者、ディアナ・フェルミ大尉。
+++
その時、マーラ・モンタルド大尉は全力で走っていた。
走り、避け、走り、避けていた。
避けるのは樹の枝。
マーラは無数の枝を紙一重で避けながら逃走していた。
——何なの、
攻撃が一時止んだ時にそんなことを考えるが、ほとんど余計な思考はしない。
それくらい攻撃は執拗かつ多量だった。
多彩ではなく多量。
枝による押さえつけ、叩きつけと単調なのでマーラはどうにか逃げ続けることができていた。
逃げている途中に、木の幹と枝で挟みつけられて失神していたウーゴ・ウベルティ大尉を見かけたが、気のせいかもしれない。抵抗のために鋼線を使ったようだが、どういう経緯か分からないが、グルグル巻きに近い状態に見えた。
まるで蜘蛛に捕らわれた虫のようだったが、さすがに確認する余裕はない。
ただ、頭の中の冷静な部分が、もう残ったのはボクだけか、と考えていた。
ディアナが吹っ飛ばされているところもマーラは確認していたのだ。
彼女は頑丈ではないので、もう復帰は難しい。
というよりも、もしかしたら、早期の治療が必要かもしれない。その辺りは監督者たちに任せるしかない。
だが、そんなことに気を配る余裕も当然だが、なかった。
そのくらい無茶苦茶な能力行使だ。
島中の樹々を操っている。
間違いなくこの規模は伝説の英雄クラスに匹敵する。ディアナも体感したことはない。
——ふざけんなよ、
マーラは内心で毒づくが、反撃に転じられるわけもなく、攻撃を避けることしかできない。
だが、彼女は攻撃の回避に成功し続けている。まだ何の傷も負っていない。
彼女が避けられているのはほとんど幸運だ。
四方八方から襲ってくる攻撃は視覚だけでは捉えきれない。
空気の振動を感じ取り、ほとんど動物的な勘で回避に成功していた。
マーラは幼い頃から武の英才教育を受けてきた。
その膨大な経験が、他の人間には不可能なほんのわずかな逃げ道を見つけ出している。
——木のないところへ!
膨大な量の枝に襲われているが、操作しているマクシムの癖があった。
それは直線的に倒そうとしていること。
膨大な量の樹々を操っているのだから、逃げ道から塞いでいけば良いのだ。
だが、直接的にマーラを倒そうとしてくれている。
そうでなく、もっと狡猾であれば、とっくにマーラは倒されていただろう。
マーラは海を目指していた。
不可能かもしれないが、森を抜ければ、もしかしたら立て直せる可能性がわずかながらもあるからだ。
敗北するにしても、後悔はしたくなかった。
マーラは既に息が上がっている。
ハァ、ハァと少しでも酸素を取り入れようと体が求めている。
ほとんど道もないような森の中を、全力で駆け抜けながら攻撃も避けているのだ。疲労困憊だった。
おそらくマーラがここまで避け続けられる状況の方が異常なのだ。
——いや、違うんだ。ボクの勘違いだ。
呼吸が切れ、意識が
その雑念も振り切り、逃げ続ける。
そして、森が開く。
どうにか森の外へ出ることに成功する。
マーラは森から脱出した直後に、地面にぶっ倒れる。
少しでも酸素を求めるが、激しすぎる鼓動が、酸欠による眩暈が、汗や泥が口や目に入り、もう限界は近かった。
ただ、森を抜けたことで、攻撃は中断していた。追撃はない。
いや、追撃できるのかもしれないが、少しだけ止んでいた。
マーラは特殊な呼吸法を使い、三呼吸ほどで通常状態へリセットした。
もちろん、鼓動はうるさいし、本当に呼吸が整っているわけではない。
ただ、平静を取り繕って、マーラは叫んだ。
「来なよ、マクシム・マルタン! 最後の勝負といこうじゃないか!」
いつの間にか拳銃は取り落していたので、転がっていた拳小の石を四つほどポケットに入れた。
もちろん、魔法の発動準備もしておく。
返事があるかどうかは分からないが、会話を続ける。
「君、わざとボクを取り逃がしたんだろ?」
それからマクシムは樹上に立ったまま現れた。
樹を操ることで自分の足を動かすことなく移動している。
その姿は先ほどちょっと見た時とは決定的に違っていた。
覚悟を決めた眼差し。
明らかに成長が見える。
彼は少し困ったように言う。
「別にわざとじゃないよ」
「そうじゃないとボクが逃げ切れた理由が分からない」
「あなたが上手に逃げたから。捉えきれなかっただけだから」
「もっとやりようがあるだろ。どう考えても、森中の樹から逃げられるわけがない。本気じゃなかったの?」
少し考えた後、マクシムは首をゆっくりと横に振った。
「本気だよ」
「信じられない」
「本気だから――僕は自分がどれくらい樹を操れるか試したかったんだ」
マクシムは『試した』と確かにそう言った。
自分の能力でどれくらいのことが可能なのか確かめる。
言い換えると、マーラは敵と見なされていないということだ。
危険ではないから実験台にさせられた。
特別警備隊『士』の大尉であり、武の名門モンタルド家の嫡子である彼女が敵ではないという。
人の好さそうな少年である。
小柄で笑顔の似合う、大人しそうな子だ。
ただ、その人の好さそうな少年がマーラには、それこそ魔王のように映った。
+++
ほぼ同時刻、森の中で一人の美少年が目を覚ました。
彼の名前はジャンマルコ・ブレッサ特務大尉。
のんびりと欠伸をしながら、ジャンマルコは呟く。
「おっと、そろそろ起きてマクシム・マルタンを排除しよう。任務を全うしないとな」
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