第19話
「ーーー!・・・から!!」
と美弥子の荒げた声で目が覚め、メガネを掛け時計を確認すると、朝の6時半を過ぎた処だった。朝食を作る為、匠馬はこの時間には起きているが、美弥子の声がするとは珍しい。こんな時間に起きているのだろうか。服を着替え恐る恐る階段から下を覗くと目を吊り上げ、匠馬を睨みつけている美弥子が見えた。
「だから!何であの女が頻繁にウチに来るわけ!?それに!」
「ごめんって。まさか上り込むと思わなかったんだよ」
「それにあの女、この前から私を『お母さん』って呼んで!“娘と思ってください”って面で!気持ち悪くって吐き気がするわ!いい!?あの女を金輪際私に近づけないで!胸糞悪い!」
「母さん口が悪いよ」
「煩い!だいたいね、あんな女に優しくした匠馬が悪い!分かってんの?」
「分かってる。ボクが悪い。そんなに怒り散らしても、向こうが変わらない限り何もならないんだし」
「だったら、どうにかしなさいよ!」
「分かったから。そんなに気を立てないで、ね?お昼ご飯、母さんの好きなワッフル作って置いておくから。ほら、もう一眠りしておいでよ」
くるりと躰を半回転させ、まだ文句が言い足りなさそうな美弥子を寝室に行く様に促す匠馬。そのやり取りを見て智風は音を立てない様に部屋に戻った。
ドアを背にずるずるとへたり込み、床をぼんやりと見つめていた。
「お母さん」と呼ばれるの、本当は気持ち悪かったんだ。匠馬が優しくしてくれるのにあたしは勘違いして、遠慮なしに頻繁に家まで上り込んで…。本当は迷惑、だったんだ。先生の娘だったから本当の事言えないのに、あたしってば何て鈍感なんだろう。…多分、2人で話をした時にあたしが余計な事を仕出かしたんだ。それで堪忍袋の緒を切らせて…。あたしって本当にダメな人間だな。ほら、あひるの子は何処にも馴染めなかったり、迷惑を掛けたりする話だってあったっけ。大河原君の言う通り、あたしは醜いあひるの子だ。お話の様にはハッピーエンドも来る訳は無い。あたしは、ずっと醜いままで過ごすんだろうな。もうここに来るのは止めておいた方がいい。…買って貰った服脱いだ方がいいよね。買って返せればいいけど、無理。一時の夢を見させて貰って、あたしは幸せ者だ。
30分はぼんやりしていたのだろうか。持って来ていたジーンズに履き替え、柄付きシャツのボタンを止めると下に降りて行った。台所には朝食を作る匠馬の姿。
「おはよう」
「おはよ。珍しいね、自分から起きるなんて」
何事も無かった様に笑いかけてくる匠馬に胸がシクシクと痛みだす。しかし、智風は何事も無かった様に笑う。
「あのね、今日、大家さんと買い物の約束してたの忘れてて。ゴミも捨てなきゃいけないし、あたし帰るね」
「え?なら、送っていくよ」
「ご飯作ってる最中でしょ?外も明るいから大丈夫。帰ったらメールするね」
「…分かった。バイトの帰り寄るから。…本当に気をつけてね」
「うん。大丈夫。お邪魔しました」
何時もの様に深々と頭を下げて匠馬に背を向けた。玄関を出ると、もう二度と来る事の無いであろうこの家にも深々と頭を下げた。娘が出来たようだと喜んでくれた期間は以外にも短かった、と急に悲しくなり目に涙が溜まる。それでも3ケ月も良くして貰っただけ有り難いと思わないと、ぐっと涙を拭き、鮎川家を後にした。
アパートに戻ると隣のお婆ちゃんの部屋からうめき声が。確か、お婆ちゃんは娘さんの処に行ってまだ帰って来ていないはずだ。少しだけ開いた玄関から、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「た、たすけて…、」
「大家さん!?ど、どうしたんですか!?」
急いでお婆ちゃんの部屋の玄関を開けると、目の前に大家さんが
「ち・智風、ちゃん…、救急車、よんで…、お、おばちゃん、足を…」
「えぇぇーーー!何やってたんですか!急いで呼びますね!旦那さんや娘さんには?」
「旦那も、娘も、…今日に限って、県外に行ってるんだよっ、もう、びょ、病院に、着いてからでも、するから先に…いたた…!」
「わ、分かりました!」
智風の悲しむ所では無くなってしまい、一緒に病院へ向かう事となった。
ーーー「いや〜、智風ちゃんが帰って来なかったらおばちゃん死んでたわ!」
吊り上げられた足を見て大笑いする大家さんに智風は安堵のため息を吐いた。
「もう、心配しました。でも、何でお婆ちゃんの部屋に居たんですか?」
「あぁ!そうそう!聞いて頂戴。お婆ちゃん娘さんの処に行った途端にねボケが急激に進んで、老人ホームに入る事になったんだって。で、アパートの荷物を整理しに来るつもりだったんだけど、忙しくてここまで来る時間が取れそうにないし、それに飛行機代往復でひとり20万円は掛かる上にね、老人ホームの入所費とかにもお金が掛いるからどうにかならないかって泣きつかれちゃったのよ。それで、業者に見積もり出して貰ったら荷物が多すぎて15万円は掛かるって言われて。それなら2ケ月分の家賃で私が片づける事で手を打ったって訳。なのに、片付け始めたら脚立の上から落ちてこのザマよ。…しかし、困ったわ。私が使い物にならない上にあの部屋の片付けが出来ないだなんて…」
「あ、あの…、大家さん。あたしで良ければ片付けしましょうか?新学期始まるまでまだ日にちありますし。始まっても平日は無理ですけど、土日でしたら、1日片付け出来ますし…」
「ほ・本当?あぁ、助かる!なら、4月分の家賃は無しって事で手を打たない!?」
「え!?良いんですか!?それは、願っても無い事ですけど、でも何日も掛かっちゃうと思いますよ?」
「それ位いいよ。そうだね、片づけてくれたら何でもいいわ。あ、何か使える物があれば持って行って。向こうにも許可は取ってあるからね」
天の助けだわ、と大家さんは智風に手を合わせた。
幸い、徒歩10分程にある整形外科に担ぎ込んでくれた為、旦那さんが来たのと入れ替わりに智風はアパートに戻る事となり、早速、お婆ちゃんの部屋を開けた。
「す…凄い」
先程はパニックで周りが見えていなかったが、本当に凄い荷物。荷物の量に智風は流石に尻込みしてしまう。しかし、自分が言い出した事に責任をもたなければ!と意を決して
「では、とりあえず明日は可燃物だから、それをしよう」
ゴミ袋に可燃物を放り込んで行く事からスタートしたのだった。たまに布団を纏め、散乱している服を集める。可燃物を袋に詰め、割れて使えない食器は“キケン”と書いて袋に入れて行った。
しかし、どうして年寄は買い溜め、が好きなのだろうか。電池など開封されていない新品以外は透明な袋に入れ、蛍光灯は箱に入れてから袋に。
長い時間中腰で作業をした為、腰が痛く、思いっきり背伸びをすると背後から素っ頓狂な声が聞こえてきた。
「智風!?何やってんの?っていうか、何で連絡一つしないの」
振り返れば匠馬が買い物袋を下げて立っている。外はもう真っ暗で、よくこんな暗闇で作業をしていたな、と感心してしまう。
「え?もうそんな時間?お帰り」
ふうっと力を抜いた瞬間、ぐぐぐぐぐ…と腹の虫が自己主張を始め出した。
「とりあえす、急いでご飯作るよ。ちーも部屋に戻ってシャワー浴びて。埃だらけだよ」
クスクスと笑う匠馬と一緒に部屋に戻ると、智風は風呂場へ直行した。長い髪を念入りに洗い、躰を洗う。何処でぶつけたか、肘や二の腕、足に赤い痕が出来ており、押さえると痛みが。夢中でやり過ぎて全く気付かなかった。躰を覆い尽くす泡をシャワーで流すと、長い髪を絞り一纏めにして風呂場を出た。バスタオルを取ろうとして洗濯機の上にパジャマが置かれている事に気づき、何処まで気が利く男なんだろう、と感嘆のため息が出る。それと同時、ドアをノックされ、ご飯出来た事を知らせた。
食事を摂りながら、匠馬にアパートに着いてからの話を聞かせた。
「だからね、お婆ちゃんの部屋片付けが終わるまで、匠馬の家には行けそうにないの」
「そっか。じゃぁ、その間、バイトの方も休む?」
「それはちゃんとするよ。あたしの仕事だもん」
「じゃあ、ボクが運搬係をするから、ちーはアパートで作業して」
「ありがとう!…その、我が儘言ってごめんね…」
しゅん、となった智風に匠馬は、何も気にする事ないよ?と何時もの笑みを投げかける。
「疲れたでしょ?食器はたらいに浸けといていいから、ちーは休んでて」
それだけ言うと匠馬は風呂場へ向かい、パタン、とドアが閉められた。暫くして水の流れる音が聞こえてくる。智風は食器をたらいに浸けるとベッドにダイブし、今朝の美弥子の姿を思い出していた。
あたし、お母さんに何をしでかしたんだろう。あたしにお母さんって呼ばれるの嫌って言ってたっけ…。あたし、嫌われちゃったんだな…。あたし、このまま匠馬の側に居ていいのかな…。あ、明日は……、
思考はそこで途切れ、智風は深い眠りに就いていた。
ーーーーー『智風は、好きな人とか居ないの?』
『ん〜。お父さんとお母さんが好きよ?』
『あらあら、困った子ね。その好き、とお母さんが好きの意味は違うのよ?』
『お母さんが言っているのは“恋愛”って事なんでしょ?…よく、分からない』
『そっか、智風はまだ好きな人居ないのか〜』
『別に、好きな人なんていらないよ。出来なくていい……』
『智風?』
『何でもないよ。あたしも、何時か好きな人が出来ると良いな』
『そうね。出来た時は一番にお母さんに教えてくれる?』
『うん!』
『ヤキモチ妬いちゃうからお父さんには内緒にしなきゃね』
『お母さんとあたしの秘密だね!』
『そうね』
『…ね、お母さん。あたし、本当に好きな人なんて出来るかな…』
『出来るわよ。智風を大切にしてくれる人とね』
『ん?お前達何話してるんだ?父さんも混ぜろ』
『何でも無いよ。あ、お母さんの手いいの?』
『そうだな、シップ貼り換えとくか。智風、薬箱持って来てくれ。優樹菜、明日病院行くぞ』
『もう、大丈夫よ。暫くしたら治るわ。それに、明日は智風の入学式だし、ご馳走作ってあげなきゃ』
『そうか、智風も高校生か』
『お父さん、何か年寄っぽい言い方だよ』
『悪かったな、年寄で』
『いたっ!』
『あ、すまん!大丈夫か?』
『大丈夫。大丈夫。ちょっと引っ張られて驚いただけよ』
『でも、帰って来てから余計腫れてる。やっぱり、念の為に見て貰った方がいいよ?ご馳走は誕生日まで我慢できるから、明日は必ず病院に行ってね?』
『本当、心配性ね。2人は』
お母さんは困った様に笑ってる。お父さんは床に胡坐を掻いてお母さんの手を取り、シップを貼り換える。そして、2人は無言のまま見つめ合い、そして、微笑んだ。あたしもいつか恋をして、2人の様になりたい。そう思いながら、自分の部屋に戻った。それが家族3人の最後の夜。
『おはよう!』
『あら、本当に可愛い制服ね。智風にぴったり』
『お、智風。馬子にも衣装だな』
『そうです〜。可愛い服着れば、誰でもそれなりに見えるんです〜』
『出る前に3人で写真撮りましょうね』
そして、大家さんに頼み、あたし達親子3人は最後の家族写真を撮った。もっと話をしておけばよかった。心配ばかりかけて、迷惑ばかりかけて…。お父さん、お母さん…。ーーーーー
ーーーちー!大丈夫?」
揺すられ、目を開けると其処には心配そうな顔で覗き込む匠馬。
「泣くほど怖い夢でも見たの?」
「え?」
頬を手で触られ、智風は涙を流していた事に気づいた。あぁ、今日は2人の命日だ。急に悲しくなり、匠馬にしがみ付いた。嗚咽を漏らし、子どもの様に泣きじゃくると何も言わずに匠馬は智風の頭を撫で続けた。
「ね、ちー。朝ごはん食べたら、お墓参り行こう」
ぐしゃぐしゃな状態で智風が顔を上げると
「可愛い顔が台無し。ほら、お父さんとお母さんが心配しちゃうから、泣き止んで、ね?」
匠馬は涙を綺麗に拭き取り、額にキスをすると唇を重ねた。それだけで智風の気持ちは落ち着きを取り戻す。気持ちがいい。心地がいい。こんなに匠馬といると心が休まるのだろう…。
朝食を済ませ、2人で墓参りに出掛けた。近所で買った落雁と母が好きだったかすみ草、父のお酒を供え、手を合わせる。顔を上げれば、匠馬はまだ手を合わせ、目を閉じていた。その姿がやけに印象的で、とくん、と智風の胸を鳴らし、急に恥ずかしくなり、智風は顔を背けた。どうしたんだろう、と智風は目を泳がせ、ぎゅっとシャツを掴んだ。
『それって、恋なんじゃない?』
何処からか笑う様な声が聞こえ、智風は大きく瞳を開いた。
…こい?…鯉?…恋!?
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