第13話

『じゃあ、学校でね』


匠馬は額にキスを残すとアパートを出た。

彼が出て行くのを見送ると、智風は準備を済ませ学校に向かう。

マフラーと手袋を着けて白い息を吐きながら自転車を漕ぐと、下ばかり向いていた自分がいつの間にか顔を上げて景色を楽しんでいた。

見えなかった物が見え、心を刺激する。

とても新鮮で、笑みが零れた。

ほんの少しの変化だが、自分とっては大きな変化に感じられる。

嬉しい。只、その一言だ。

しかし、顔を露わにして匠馬と人目を気にせず、話す事が出来る日が来るのだろうか。

一抹の不安にそっとマフラーを口元まで上げ、目を伏せた。







ーーー何時もと同じ時刻。

人気の無い学校に着くとゆっくりと階段を上り、静寂に包まれたなか階段から3つ目の教室を目指すと、前から男子生徒ひとりが向かって来る。

“あたしより早く来る人が居たんだ”

感心しながら横を通り過ぎようとした時『おはよう』といきなり挨拶をされ、思わず身を縮めた。

今迄、学校で挨拶の言葉すら掛けられた事が無い。

初めての事で『挨拶をされた』と頭が理解するまでに時間が掛かった。

すると、智風の驚き様に男子生徒は困った様に笑い出す。


「ごめん、ごめん。そんに驚くとは思ってなくて。あのさ、覚えてない?ほら、クリスマスにショッピングモールで一緒に買い物した…」


「え?……あ」


慌てて顔を上げて顔を見れば、多分だが、あの日、ショッピングモールで眩暈に襲われた際に手を貸してくれた人。

爽やかさに合わせてきっちりと締められたネクタイが、とても格好良く見えた。

匠馬とは違った格好良さがあり、女生徒が放っておかないだろう。


「あ、…その節は、すみません…」


「いやいや。あれから大丈夫だった?ちゃんと待ち合わせ場所に行けたか心配だったんだ。あ、あのストラップ使ってくれてる?っていうか、電話待ってたんだけどな、俺」


その言葉に戸惑い、目を泳がせた。

まさか、同じ学校の生徒で、出会うとは。

それにストラップはラブホのゴミ箱に(匠馬が)捨てたとは口が裂けても言える事では無い。

上手く誤魔化す事は出来ないと諦め、それでも相手を傷つけまいと自分なりに考え、謝る事にした。


「え!?あ、ご、ごめんなさい!ス・ストラップ、入って、たんですか?あたし、その、えっと、そんなのが入ってるの知らなくて、間違えて、捨ててしまっちゃって、ほ、本当に、ごめんなさい!ちゃんと確認しなくって…」


「……そうか、気づいて貰えなかったんだ。残念」


男子生徒は、蟀谷の少し上辺りを人差し指で掻く様な仕草をしながら、眉毛をハの字にして笑う。

取り繕った嘘を信じてくれた様で、智風は申し訳ないが心の中で安堵のため息を吐いていた。


「ほ、本当にすみません…」


深々と頭を下げる智風を他所に


「なら、今度お茶付き合ってよ」


爽やかに笑う。

それも、当然、と言わんばかりに。


ストラップを捨てられたのに、怒らないのだろうか。

確かにあの日に助けて(?)もらったが、何故…。

グルグルと頭の中で“お茶”と言う文字が回るのと一緒に何か鳴り響く。

未だに匠馬が怒った理由をはっきりとは理解出来ていないが、これ以上この人関わってしまったら彼タクマの逆鱗に触れる、と警告音が頭の中で鳴り響いているのだ。


「む、無理、です!だ、ダメ、です!ご、ごめんなさい、で、出来ません!」


必死で両手と顔を振って、出来ない事をアピールした。

どうしたら良いか分からないが、拒否反応を示せばもう声を掛けて来る事は無いだろう。

すると『でさ〜』下の階から登校して来た生徒の声。


「あ、も、もう行きます。ごめんなさい」


それだけ言い残し、智風は駆け出した。

たった教室2つ分の距離が長く感じられ、転がり込むように中に入り込むと、急いで自分の席にカバンを置き、椅子に座って深呼吸を繰り返す。

同じ学校なら、これから顔を合わせる事がある。

“また声を掛けて来たらどうしたらいいんだろぅ。匠馬に怒られる”

怖くてぎゅっとスカートを握りしめていた。

暫くすると、がやがやと他の生徒が登校し、いつも通りの騒音に包まれる。

騒音が何故か気持ちを落ち着かせてくれ、普段通り教科書を机に置き、予習を開始した。

それから先程の男子生徒がやって来る事は無く、平常心を取り戻したが、髪を下ろし顔を隠していたのに何故、同一人物だとわかったのだろう。

そんな事よりも、もう声を掛けないで欲しい、と切に願いながら筆を走らせた。




「おーい、席に着けー」


ホームルームが始まり、担任が教室に入って来るとその後からひとり、150センチも満たない女生徒が一緒に入って来た。

小さい顔に反比例な大きな瞳。

その瞳は三白眼なのに、怖い印象より元気な印象を与える。

髪型はショートカットの髪は赤茶けた天然パーマ。

彼女の人柄をを象徴するようで、とても似合っていた。


「はじめましてー。波瀬辺はぜべひまわり言いますー。皆さんよろしゅうたのんますわー」


にかっと笑った時に八重歯がちらりと覘かせた。

この時期に転校生とは珍しい。

その為か教室はいつも以上に華やぎ、転校生のひまわりは色々な生徒に声を掛けられ、楽しそうな笑い声を発していた。

そして匠馬と陵、2人とは気が合うのか、授業中も良く話をしている姿が視界に入った。




午前中の授業が終わり、お昼。

匠馬が朝、帰る前に用意してくれたお弁当とお茶を机に出した処で頭の上から声がした。


「なぁ、アンタがクラス長さん?」


顔を上げると、目の前にひまわり。

周りを見渡してが陵の姿は無い。という事は“あたし!?”驚きながら返事の代わりにコクリと頭を軽く下げた。


「ふ〜ん。…ちょっと立って」


命令されるが儘、恐る恐る立ち上がるとクラス中の生徒が一斉に智風に注目した。

見られているという恐怖。…匠馬も視線を向けているのが分かる。

‟どうしよう、皆の前で、な、何か言われるのかな”と、必死で縮こまった。


「あ〜、やっぱりなぁ」


その瞬間。

ひまわりはいきなり智風の胸を鷲掴み、“ひっ!”と声にならない悲鳴を上げているのも気にせずに、今度はぎゅぅっと抱き付き胸に顔を埋める。


「やっぱ、Gー子ちゃんやぁ〜!ぱふぱふやぁ〜!ぱふぱふ〜!めっちゃ気持ちええ!!」


たぷん、と重たげに揺れる胸に男子生徒の息を飲む。

そして『羨ましい』という声が聞こえ、顔に血が集中した。

やめて欲しい、とひまわりを押し退けようと肩に手を置いたと同時、目の前には匠馬。

ひまわりの頭を掴み、ベリッと智風から引きはがした。


「ひま、離れて」


ほんの少し引き攣った笑みで、ひまわりの名を親しげに呼んだ。


「ごめんね、コイツ本当に馴れ馴れしくって。あ、この莫迦とボクと陵は幼馴染なんだ」


誰に説明をしているのか分からないが、引き離してくれた事はありがたかった。

が、今度はきつい視線が混じっているのに気づく。

完全に『お前、何親しげに話し掛けてもらってんだ?』と言わんばかりの女生徒の視線だ。

真っ青になって匠馬を見上げてみるが、気にする素振りも見せない。


「何やねん!独活の匠馬!な、あんた、名前は?」


「え?…や、屋嘉比、智風です…」


ひまわりの存在をすっかり忘れており、智風は慌てて顔を下に向けた。


「良ええ名やなぁ!今からうちと智風は友達や!」


にかっと本当に、向日葵が咲く様に笑う。

何と言うか、彼女が笑うと思わずこちらまで笑顔になってしまう。

魔法の様な笑顔だ。

しかし、『友達』という言葉が出た為、教室中に響どよめきが起こっていた。

『貞子』と呼ばれ、誰も声を掛けない女に『友達になろう』と言い出したのだから。

教室中がパニックだ。

それ以上に智風の方がパニックになっており、声が出ない。


「ほれ、匠馬!智風の飯と茶ぁ持てや。うちの事は“ひま”って呼んだら良え。よろしゅうな、智風」


「は?え!?」


返事も返して無いのにひまわりは智風の手を握りズカズカと人ごみを掻き分け、そして、自分の席に智風を座らせた。

その前の席の椅子の主に『借りるでー』と一言、言い放ちそれに座ると


「ほれ、“ひま”って呼んでみぃ」


また、にかっと笑う。

この状況が飲み込めていない智風は只、オロオロとするだけ。

すると、匠馬はお弁当とお茶を机の上に置くと


「ごめんね、強引な奴で」


クスリと笑って智風の横に座った為、また、教室中がざわめき智風は嫌な汗が背筋を伝った。


何故、ひまわりが話し掛けて来たのか。

それを切っ掛け、とばかりに匠馬も普通に話を始める。

その上、陵までも『ここの問題が分かんねーから教えてくれ』と聞いて来る始末。

クラス長で一番話した事があるが、必要最低限の会話しかした事が無いのに、何が起こったというのか。


今はいい。

彼等の側に居るから、面と向かって暴言を吐かれる事無い。

問題はひとりになった時。

高校に入学してから、陰口はたたかれても面と向かって言われた覚えが無い。

2年近く穏便に過ごして来たのに、また、苛めの日々が始まるのではないか、と不安で彼等の話は耳に入って来なかった。



しかし、陰口はあったが、幸い苛めに値するほどのモノでは無く、とりあえず一日が終わり、学級日誌を書き下校の準備を始めると、またもやひまわりに声を掛けられた。

『智風、一緒帰るでー』と。

隣を歩くひまわりは他愛の無い話を聞かせて、智風が反応を示せば嬉しそうに、にかっと笑う。

何も考えず自転車を押し、2人で歩き、気付けば智風のアパートの前。

すると


「智風、悪いんやけど部屋上がらせてもろうて良えやろか」


先程まで見せていた笑みを消し、真剣な顔で智風を見上げていた。

図々しいとか、何かされるのではないか、とは一切思わなかった。

寧ろ、嬉しい気持ちでいっぱいだった。

アパートの玄関を開け、『どうぞ』と2人目の友達をアパートに迎え入れる。

コタツの電源を入れ足を突っ込んだひまわりはアパート前の自販機で買った缶コーヒーを啜り、喋り始めた。


「今日は無理させてすまんかったな。…本当の事言うと、うち、ぼっちゃん、あー大河原陵専属のボディ-ガードで、生徒や無いねん…。それと…、あのな、誤解されとうない事があって、うち、ほんまに智風と友達になりとうて声掛けてんから、…その…」


そこには、口を尖らせて指をイジイジと可愛らしく動かし、赤く頬を染めたひまわりが居た。


彼此、1年前から智風の存在を知り、車の中から見ていて、ずっと『彼女と友達になりたい』と思っていたという。

転校生として学校に潜入する話が出た時は、仕事だというのに大喜びしたのだと。

元気を絵に描いた様な彼女から想像も出来ない程のいじらしさ。

こんな自分を友達に選んでくれた事に喜びを感じ、お礼を述べていた。


「嬉しいです。ありがとうございます。…じゃあ、あたしよりも年上って事、ですよね…」


「あ?あぁ。うち、今年で21歳になる。智風達より3つ上や」


しかし、こんなにも若くしてボディ-ガードなど勤まるものなのだろうか。

そんな事よりも3つも年上なのに、絶対、智風より年下に見られて違いない彼女の容姿に驚いた。


「うちが潜り込んでる事は校長と担任しか知らへん。やから、黙ってて欲しいんや」


「喋りませんけど…秘密事項をあたしなんかに話しても、大丈夫なんですか?」


「智風を信じとる。ベラベラと喋くりまわる奴やあらへんやろ?…こんな仕事しとったら障害になる様なモノはなるべく作る事はしたらあかんのやけど、お前の側には何時も匠馬が居おるしなぁ。そこら辺は心配無いやろうって許可も得られたし」


「…え?“許可が得られた”ってもしかして匠馬も知ってたんですか?」


目を丸くする智風に“堪忍”と両手を合わせてひまわりは謝る。


「先に智風に言うてしもうとったらパニくるやろからって、匠馬が黙っとくようにって」


匠馬なりに配慮して智風には知らせなかったのだろう、と納得が出来てしまうが、教室での出来事は本当に驚いた。


「あ、あの、大河原君のボディ-ガードなら、あたしと一緒に居て大丈夫なんですか?それに、今迄学校にボディ-ガードを付けて無いみたいだったし、もしかして、付けるって事は危ない事でもあるんですか?」


「今後に備えて、今から警備の強化を図っとるんや。坊ちゃんは既に秘書の仕事も始めとるしな。夏には婚約披露パーティーもある。有名政治家の息子やから、これから危ない目に遭う事が増えても可笑しないっちゅう事や。それに、これからは学校まで車が来るようになったからな。今は智風に話をする時間として割り振られとるから心配せんで良え。あ〜!もっと打ち解けるんに時間掛かると思うとったから、めっちゃ緊張した〜」


あれだけ悠長に喋っていたのに、本当に緊張していたのだろうか。

だが、髪をくしゃくしゃにして恥ずかしがるひまわりがとても可愛らしく見えて、親近感が湧く。


「あ〜、旦那にプロポーズされた時よりも緊張したんやなかろうか」


「え!?け、結婚されてるんですか!?」


「しとるよ。ほら、ハマー運転しとる男、覚えとるか?」


人の顔を覚えるのが余り上手ではないのだが、運転手の顔はインパクトがあり、覚えていた。


「えっと、垂れ目で、口が大きい」


「それがうちの旦那。んでもってこれが結婚指輪。…仕事に邪魔なるからいらへん言うたらなぁ、匠馬がこない首から掛けられるようにしてくれてん」


制服のリボンを解き、ラリエッタになった指輪を見せてくれた。

指輪を通るチェーンの先には0.5カラット程のダイヤが付いている。


「素敵…。これ、本当にタクマが?」


「ホンマ。旦那とお揃いのラリエッタプレゼントされた時はビビったでー」


頬を染め、歯を見せて笑うひまわり。


「何か、タクマらしいって感じがします」


「せやろ?」


暫く2人してクスクスと笑う。


「これから色々言われるかもしれへんけど、匠馬の言う事を信じてれば良えからな。…さて、匠馬が来たわ」


そう言ってひまわりが玄関の方を指差した。

車が通った音も気配も無かったのに、本当に来るのだろうか。

そう思っていると、直ぐに匠馬が戸を叩いた。

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