§6歯がゆい態度

 6月の激しく雨が降る日、七海は肇に連れられて彼の部屋を訪れていた。部屋に入るとあたふたとしている彼を尻目しりめに、七海は平然と顔を巡らしていたが、部屋の三分の一を占めるベッドが目に入って胸が騒いだ。一方、七海に押し切られた格好の肇は、今までに女子を家に招いた事もなく気後れしていた。

「わーっ、これが男の一人住まいか!この前のサークルの先輩の部屋は雑然としてたけど、きれいに片付いてますね!」

「物がないだけだよ。それよりも、雨で濡れちゃったね!大丈夫?」と心配する彼に着替えを借り、気合を入れて着てきたワンピースを脱いで乾かす事にした。

「何か恥ずかしいな!このTシャツ大きいから、下のジャージは着なくても大丈夫そうです。下着まで濡れなくて良かった!」と言うと、彼は絶句していた。私は照れ隠しにキッチンに行き、コーヒーメーカーの使い方を教わり、自分の部屋にいるようにコーヒーをいれて部屋に戻って来ると本棚が目に入った。

「すごいな、三島由紀夫の本で埋め尽くされてる。好きなんですか?」

「好きというより、傾倒してると言った方が確かかな。読んだ事はある?」

「一応、文学部ですから。金閣寺とか豊穣ほうじょうの海の全編は読みましたけど、言葉が難しくて取っ付きにくいという感想です。文章は美文で、きれいですよね。」

さらに「潮騒は?」と訊かれ「読みました」と言うと、

「どう思った?僕は、あの新治と初絵が裸で抱き合った時の、道徳に対する敬虔けいけんさに感銘した。いろいろ障害がある中で、最後は結婚という形で結ばれる二人に感動した。」

「確かに、結婚までは純愛を貫くという?今とは時代が違いますからね。」

 私はそう言いながら、高校の時に赤西先輩と純愛について議論した事を思い出していた。当時の私は純愛を言い張っていたのに、今は反対の立場に廻っていた。


 肇は『金閣寺』や三島作品について持論を展開し、ゲームどころではなくなっていた。議論に飽きてしまった七海は膝を抱えながら本棚を見つめていたが、その中にあった、北村透谷とうこくの『処女の純潔を論ず』という茶色くなった古本に目が留まり、彼の信条を垣間見かいまみた気がした。文学の話で2時間を費やした後にゲームを始めたが、七海は途中から疲れてしまい、Tシャツ一枚だという事も忘れてうとうとしていた。しまいには肇にもたれ掛かり、しばらく寝入っていた。肇は逆に目がえたようで、一人でゲームに夢中になっている振りをしていた。

「ごめんなさい!こんな恰好かっこうで寝てた!肇さん、見てないですよね?」と眠りから覚めた私は、あられもない姿の自分が恥ずかしかった。

「何を?ゲームに没頭してて、気にならなかった。でも、七海さんは無防備だな!僕だからって安心して、結婚前の女子が男子の部屋で寝たら駄目だよ!」

「結婚前かー!さっきの潮騒みたい。肇さんは、こういう野放図のほうずは嫌いですよね!」

「嫌いというか、信頼してくれているのはうれしいけど、僕でなかったらどうなるか分からないよ!七海さんのそういう無邪気な所が好きだけど…。」

 はっきり言わない彼に、私はごうを煮やしていた。

「わたしたちの関係は、何なのかな?好きだとも告白もないし、付き合ってるんですか?それとも、ただの友だち?先輩と後輩?よく分かんないな!」

「強いて言えば、今はまだ友だちかな?いずれは、正式に交際したいと思ってる。」

 私は「いずれは」「正式に」の意味が理解できず問いただしたが、彼からのはっきりとした答えはなかった。私自身も友だちとして付き合ってるだけで、彼と恋人になりたいとか、特別な関係になりたいとは思っていなかった。ただ、彼の煮え切らない態度に、歯がゆさを感じていた。


 肇は七海に対して好意以上の思いを抱いていたが、結婚を視野に入れた恋愛関係を想定していた。周囲の男女が何の疑問も持たずに、恋人とは肉体関係になるのが当然という価値観で行動しているのが理解できなかった。いい加減な気持ちで、七海とそういった関係になる事は、彼の信条が許さなかった。一方、七海は父親に紹介された大田黒駿と会い、彼から交際を申し込まれていた。

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