第873話_瘴気
アキラの姿が曖昧になるほどの濃度で、その
「瘴気だ」
低くそう言ったケイトラントは、レナの身体を一層その場から引き離すようにした。そこへ不意に流れ込んできた緩やかな風が瘴気を動かし、ゆっくりと、ルーイに向かって動く。モニカは息を呑んだ。
「触れてはいけません!」
「ルーイ!」
慌ててナディアが彼女を庇うように抱き締める。すると流れて行った瘴気はナディアに触れる寸前で、静電気が弾けるような音と共に消えた。
「今のは、自分で弾いたのか?」
「いえ……おそらく守護石が」
胸を押さえながらナディアがそう言えば、ケイトラントもその存在を思い出した様子で頷いた。
「守護石が弾くってことは、この靄、本当に触れたらまずいってこと? アキラちゃんは」
「おそらく、瘴気病だ」
ケイトラントの答えはリコットの求めたものではなかったが、その答えも、リコット達にとっては新たな疑問だった。怪訝な顔でアキラとケイトラントを見比べる。
「瘴気病っておとぎ話じゃ……」
言葉だけは、リコット達も物語で聞いたことはある。『瘴気』とは魔物らが纏う微かに毒性のある気体だが、触れる程度ではほとんどの場合、何の影響も無い。濃い瘴気が漂う場所では気分が悪くなることもあるものの、瘴気に侵された物をそのまま飲み込みでもしない限り、健康被害と言えるほどのものは起きない。
だが、何らかの経緯によって瘴気が『魔力回路』を侵し、人体に異常を齎すことを『瘴気病』と呼ぶ。
物語の中では、瘴気が意志を持って襲い掛かってきて、人の口の中へと入り込んでくるような――やや霊的な描写が多い。その為、リコットや多くの一般人は『おとぎ話』だと思っていた。レナは瘴気の動きを警戒しながら、慎重に首を振る。
「病としては実在します。瘴気がひとりでに動いた例は報告されておりませんが……人間の魔力回路が一定濃度を超える瘴気で侵された場合、魔力操作に支障をきたし、生体機能も低下すると言われています」
しばらく風が流れると、靄がやや薄まって消え始める。だがまだ濃いままで漂う塊もある為、各々が油断せずそれを避けて動いていた。
「意識がある状態であれば自然な魔力循環によって徐々に外へ出ていき、快方に向かいます。ただ、今のような場合は……」
「あ、アキラちゃんは、危ないんですか?」
震える声でルーイが問い掛けた。レナは幼い子の悲痛な表情に胸を痛めた様子で、唇を噛む。優しい嘘を、吐ける状況でないことは明らかだった。
「断言できません。本来は死に至るような病ではありませんが、つい先程まで瀕死状態であったアキラ様のご容態や、常軌を逸しているこの瘴気濃度が、私の知る範囲を超える可能性がございます」
実在するとは言っても瘴気病の症例は少ない。何よりレナの知る限りの症例では、これほど濃く、大量の瘴気を纏うような例が無い。過去の例に収まらないと思った方が良いだろう。
「あの、ま、魔力循環で出るなら、私の魔力をアキラちゃんに送ったら出ますか?」
「ルーイ……」
「いえ。試してみる価値はありますね」
単なる子供の思い付きに思われた。だからナディアは宥めるつもりで彼女を呼んだのだが、モニカはむしろそれを肯定した。
「しかし、モニカさん。アキラほどの魔術師を侵す濃度なら、触れれば肌を焼く可能性があります」
慌てた様子でケイトラントが続けた。高位の魔術師ほど纏っている魔力量や濃度は常に高く、それを下回るような濃度であれば体内へ侵入などできない。つまりこの瘴気は、普段アキラが纏う魔力の濃度を上回っている可能性が高い。
「そうだとしてもアキラ様がお救いできるならば私は構いません」
「モニカさん!」
言葉を遮るように、ケイトラントは声を荒らげた。モニカはそんな彼女を少し宥めるように柔らかな笑みを向けた後、ナディア達へと視線を移す。
「その守護石は、瘴気からもお嬢様方を守っておりましたね。どれほど持続するのでしょうか」
「……分かりません。ですが、アキラが私達を守る為に作った魔道具です。そう容易く効力が切れるとは思いません」
「確かに、そうでしょうね」
肌を焼くほどの瘴気だとしても、剣で斬りつけられたり魔法をぶつけられたりするほどの攻撃性は無い。その程度の『防御』を数度行うだけで効力が切れるような弱い魔道具で、過保護なアキラが満足するとは思えない。おそらく守護石はかなり長く、瘴気から女の子達を守るはずだ。全員の意見は一致していた。
「……お嬢様方に、お願いできますか?」
「勿論です。私達が行います」
ナディアは即答し、守るようにルーイを抱いていた腕を緩めた。すると、ルーイはその腕から自ら逃れるように前に出た。
「私がやる」
「ルーイ」
ナディアは当然のように自分がやろうとしていたのだろうが、ルーイが先に名乗りをあげてしまった。
いつになく頑なな彼女の表情に、ナディアもリコットも掛ける言葉を選んでいる。それを察しながらも、モニカはルーイの傍に寄り添った。
「急に強い魔力を送ってしまうと、今のアキラ様にはご負担かもしれません。まずは私に送ってみて下さい。小さな魔力から、徐々に大きくするように」
「は、はい」
促されるまま、ルーイはモニカの手を握り、魔力を送り始めた。徐々に送られてくる魔力に、モニカは微笑みながら何度か頷いて、魔力量を増やすように指示する。数秒後、「その強さで」と止めた。
「一度、アキラ様に送ってみて下さい。瘴気に触れる手や身体に違和感が無いことを、慎重に確認しながら」
強く頷いたルーイが、横たわるアキラに恐る恐る近付く。周囲にはまだ瘴気が漂っているものの、守護石は漏れなくそれを弾き、彼女が歩く為の道を開くように消えていく。
ゆっくりと伸ばされたルーイの手がアキラの右肩に触れれば、また静電気が弾けるような音がした。新しくアキラから出ている瘴気にも、守護石はきちんと反応しているようだ。
怖い気持ちは、当然、ルーイにもあった。手を放して逃げ出したい思いが湧き上がるのをぐっと飲み込み、先程モニカに教えてもらった通りに、アキラの中へ魔力を流し込んだ。
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