第816話

 女の子達が、アキラをこんなにも思ったのは初めてだった。

 声すら出なかった。ルーイは思わず足を後方に引き、後ろに立っていたリコットとぶつかった。しかしリコットもそのルーイを咄嗟に支えてやるような動きは取れず、ただ息を潜めてアキラを見つめていた。

 祖父に対する、幼い呼称を呟いただけのアキラ。無防備に、無垢に。まるで子供の顔で。声までもが幼く聞こえた。

 事実だけを切り取ればそれは微笑ましく愛らしいとも言える光景だったはずだ。しかし、『子供っぽい』などではない、『子供そのもの』であるような気配。姿は明らかに大人なのに、今、目の前に居るアキラはずっとずっと小さな子にしか見えない。

 異様と言う他なかった。女の子達はその変化に、恐怖を感じていた。


* * *


 どれだけ記憶力が優れていたって、生まれて間もない頃の記憶は朧気で、所々に少しもやが掛かっている。

『――お父さん。そんなにずっと抱いていたら、秋良あきらが歩けない子になってしまうわ』

 母さんからの苦言に、私を抱いたままでじいちゃんは笑っていた。流暢なフランス語だったが、赤ん坊のころから二人の会話を聞いていた私は当時からちゃんと、会話の内容も理解できていた。

『だって抱いていたいんだ。こんなに小さくて、こんなに可愛いんだから』

 言い訳にならないようなことを言って、じいちゃんが私を抱き直す。母さんは呆れて肩を竦めていた。

 あの頃の私は、じいちゃんに抱かれていた記憶しかない。

 母さんにも父さんにも、勿論まだ小さかった兄さんにも抱かれた記憶は無かった。いつもじいちゃんの腕の中に居た。

 その距離から、じいちゃんの顔を見上げていた。目が合う度にいつだって、愛だけを含んだ笑顔をくれる人。

 ふわふわとしたクリーム色の髪、ほんの少し垂れた優しい目尻と、碧眼。西洋人と一目でわかる彫りの深い顔立ち。

 口元はあまりデオンと似ていないし、じいちゃんはもっと豪快で、表情豊かな人だった。でも記憶と比べてみれば目元と髪色は、確かに似ている。しかも瞳の色はそのまま移したかと思うくらいに同じだ。

 勿論じいちゃんは亡くなった当時でもデオンよりずっと年上になる。そのせいもあって似ているとは思っていなかった。

 私のじいちゃんはフランス人だから、日本で暮らしている限り、似ている人と出会ったことは無かった。母さんは性別違いもあるし、半分が日本人だからか、じいちゃんとは全然似ていない。瞳も茶色だ。碧眼は潜性遺伝らしい。

 しかし此方の世界では周囲が西洋系の顔立ちばかりだから、……なるほど。こういうことも起こり得るのか。日本で生きていた時より、似ている人との遭遇率は、上がってしまうよな。

 何にせよ、無意識下であれ彼をじいちゃんと混同していたのなら。敵意も殺気も闘気も、攻撃動作さえも。私に見付けられるはずがない。

『――愛しているよ、生まれてきてくれてありがとう、秋良、俺の天使』

 じいちゃんの腕の中だけで、私の幼少期の全てが構築されていた。日本語よりもずっとフランス語の方を理解していたくらいには、両親よりもじいちゃんと共に居た。

 分かるわけがない。全てが存在して当然の、『私自身である』のと同義の気配だったのだから。


* * *


 しばし目を閉じていたアキラがそれを開く頃、もうその瞳に幼い色は宿していなかった。

 眉を顰めた彼女は口元を歪め、何処か、自嘲的な笑みを浮かべる。視線は女の子達を捉えず、窓近くの床、太陽の光が差し込んでいる辺りに落ちている。

 ――数秒後。アキラの周囲に『黒い魔力』が浮かび上がった。転移魔法の前兆だ。

 女の子達がハッと息を呑むより早くカンナが動き、アキラの胸に飛び込むように彼女の身体に寄り添った。

 アキラはその唐突な接近に目を丸めて身を固めたが。次の瞬間には、ふっと微笑んでいた。同時に黒い魔力が、霧散して消えた。

「ごめん。うん、何処にも行かないよ」

 そう呟くとアキラはカンナの肩に頭を埋めるように傾き、ゆっくりと深呼吸をした。次に顔を上げた時には、いつもと変わらない穏やかな表情を見せる。カンナは、一歩、彼女から離れた。

「……失礼いたしました」

「いや。いつも引き止めてくれて、ありがとう。……悪い癖だね」

 また転移で逃げ出そうとしていたらしい。毎回カンナはその発動を察知するのが素早く、『置いて行かれたくない』という動きをする。もしも傍に居るのがナディア達だけだったら、度々アキラを取り逃がすことになっていただろう。

「はあ、食材の片付けしよっと」

 何処か疲れたような声でそう言って、アキラはみんなに背を向けてキッチンへと歩いて行く。先程の話を続ける気は無いらしい。しかし女の子達も、話を戻す気にはならなかった。アキラが幼い子に変わったかのようなあの瞬間の恐怖が、まだ拭い切れていない。

 彼女の心を案じて触れなかったのではない。怖くて、触れられなかった。

 しかしその後もアキラは完全に元通りにはならず、度々手を止めて、ぼーっとしていた。周りはハラハラとその様子を窺う。物を落とすなどの粗相をするわけではなかったものの、誰が見ても心配になるような行動をアキラが取ることは珍しい。

 普段なら五分で済むような食材の片付けも、十五分以上が掛かっている。ようやく済ませてキッチンをのろのろと離れたアキラに、緊張を飲み込んでリコットが優しい声を掛けた。

「少し休む?」

 声に応じてアキラが視線をリコットへ向ける。その瞬間を、女の子達は緊張の面持ちで見つめていた。

 しかし少し眠そうな様子はあるものの、先程のような異様な色はそこには無かった。

「うーん、作業するよ、工作部屋に行く。カンナ、お茶……ちょっと濃いやつが良いな」

「畏まりました」

 先程は逃げ出そうとしていたし、いつになくぼんやりしているアキラを見張りに行きたい思いもあって、女の子達は顔を見合わせる。扉を開け放っているから、入室を拒む気は無いだろう。しかし今はそっとしておいてあげた方がいいかもしれない。

 色んな思いが重なり合って、動けないままでじっと工作部屋を見つめ続けた。

「発動は私が察知できますから。あまり心配せずにお過ごしください」

 お茶をアキラに届けた後、下がっているように指示を受けたカンナがリビングに戻ってきた。そして、心配そうな女の子達を見兼ねてそのように囁く。

 誰よりもアキラを案じているだろうカンナがそう言ってくれるならと、ようやく女の子達も肩の力を抜いて、頷いた。

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