人間になった僕たちは
@hamanobe
第1話 トムの決意
ある日の新聞。その事件は、大きな紙の端っこに小さく載っていた。サンタン牧場の飼育していた牧場の豚に奇病発生。豚が突然暴れ回り、色素が抜けてきたという。彼らの殺処分はすぐに実施された。周りの家畜に影響はなく、牧場主のダンカンさんはこうコメントした……。
「動物を守りましょう。彼らを食べるのをやめましょう。」
街頭に立って、今日も演説をする。誰も立ち止まってなどくれない。街行く人々は自分のことで精一杯なのだ。他人に、ましてや変人トムに構おうとするわけがなかった。
「トム、お疲れ様。」
ミリヤが差し入れを持ってきてくれた。
「ミリヤは優しすぎるよ。きみはベジタリアンじゃないのに。」
「私は、あなたを応援しているの。それに、私だって動物のことは愛しているわ。」
ミリヤがベジタリアンでないからといって、彼女の動物に対する愛情を否定することはできない。彼女は僕と同じ動物園で働き、朝から晩まで動物の面倒をみている。彼女の動物にかける愛情が人一倍であることは、彼女の目をみれば明らかだった。
だけど、彼女のそれと僕のは違う。彼女は僕のことをわかっていない。
「トム、活動は何時に終えるの? よかったら……。」
「ごめんミリヤ。家に帰って、やることがあるんだ。」
「それなら仕方ないわね。」
ミリヤは笑顔で僕に手を振り、去って行った。
本当は、もう活動を終えて帰るところだった。彼女の誘いは断り続けている。彼女が僕に好意を抱いてくれていることは、僕でも気づいていた。
「あら、さっきの女性は誰なの? 同僚の方?」
いつのまにか母が来ていた。
「同僚だよ。でも、言っただろう。恋愛とか結婚には興味がないって。」
「やっぱりあなた……。」
「僕はゲイではないよ。」
「お母さんは受け入れるから、ひとりで悩まないでね。」
母は本当に僕のことを心配してくれていた。だからこそ、苦しかった。本当のことを言えずにいるのが。
「今日はどなたか立ち止まってくださったの?」
「ひとり、おじいさんが遠くの方で僕のことを見ていたくらいかな。」
それだって、僕の方を見ていたのかすらわからない。誰もが、僕を見て見ぬふりして通り過ぎていくことには、すっかり慣れてしまった。
母と一緒に家に帰る。今日のご飯は、ベジミートを使った唐揚げだった。元気付けようとしてくれているのが、痛いほど伝わってきた。母さん、僕が悩んでいる理由は違うところにあるんだ。その一言が、いつまでも言えないままだった。
「トム、あなたの食べっぷりは本当に素敵よね。
母さんが嬉しそうに僕のことを見てくる。
「母さんの料理がおいしいからだよ。」
これは本当のことだ。
「あなたが最初にきてくれた日も、おいしそうにご飯を食べてくれたのよ。覚えてる?」
母さんは暇さえあれば、あの日のことを話す。
そう、あれは雨の日だった。あなたを迎えに行ったとき、あなたとっても嫌がっていたのよ。あなたより少し背の高い男の子たちの影に隠れて、怯えたようにこっちを見てた。
この子たちと離れたくないんだろうな、そう思った。でも養護施設の方から、あの子たちは別々のご家族に引き取ってもらった方が良いんじゃないかっていうお話を聞いていたの。だから、最初から話をいただいていたあなた、ただひとりを預かることになったのよ。申し訳ないと思っているわ。
でも、施設の方の言う通り、あなたの未来には過去との決別も必要かもしれない、母さんは長い間そう思っていたわ。
今はどう思っているかって? 今は、あなたの好きにするのが良いと思ってる。もうあなたはすっかり大人ですもの。
あなたのひとつひとつの決意が未来を切り開いていくの。
家に帰る道中も、あなたはずっと泣いていた。私たちが何を話しかけても泣き喚くばかりで何も答えてくれなかった。
でもね、あなたは私たちがキャンディをあげたとき、泣きながらありがとうって言ったの。その時のあなたの発言が、あなたの性格を物語っていたわ。
家に帰って、あなたに初めて作った料理も今日と同じベジミートの唐揚げだったわね。あなたはとても嬉しそうに食べていた。あの時のあなたの顔、今でもたまに思い出すの。
一つ一つの仕草が愛しかった。とても嬉しかったのよ。うちに待望の子どもができたんだって。ねえ、覚えてる?
僕だって鮮明に覚えている。ひとつひとつの場面を、鮮明に。小さい頃の記憶は、僕の頭にこびりついて離れない。まるで僕に、わかっているだろうな? と囁いているかのように。
「母さん、僕は過去に向き合ってみようと思う。」
僕は、ついにその一言を口にした。決断が鈍らないうちに、発してしまいたかったのだ。
「トム、お母さんはあなたのことを心から愛しているわ。あなたに何があろうと、味方なの。それだけは覚えておいて。」
母はそういうと、僕の頭をそっと撫でた。昔はよくこうしてくれていたっけ。
僕は自分の部屋に戻ると、机の引き出しをあける。木箱の奥の方にそれはあった。10年前に書いた電話番号のメモ。かけることができずに、ずっとそこにしまってあった。あれから何度も勇気を振り絞り、受話器を手に取るも電話できずにいた。
コンコン、とドアを叩く音がする。
「トム、ちょっと良いか。」
そこにいたのは、父だった。ああ、と言って扉を開ける。
「母さんから聞いたよ。お前のことだから、養護施設に電話をかけようとしているんじゃないか?」
「ああ。父さんはすごいな。その通りだよ。」
「お前が過去に向き合うことは、否定しない。母さんと同じで、父さんもお前のことを応援しているからな。だけど、電話はよくないぞ。」
「父さんありがとう。なぜなんだ?」
「電話だと、こちらの想いは伝わらない。ビジネスでも何でもそうだ。本気で相手に想いを伝えたい時は、直接会わないといけないんだ。」
父さんの目は、いつにもまして真剣だった。言われて初めて気がついた。自分には、直接乗り込む覚悟さえまだなかったのだと。
「わかったよ。直接会う。そうするよ。」
僕は、言葉をゆっくりと噛みしめながらそう言った。
「さすが、父さんの息子だ。誇らしいぞ。ひとりじゃなにもできなかったお前が、すっかり大人になったと思うと寂しいけどね。」
父さんは僕のことをぎゅっと抱きしめた。
「痛いよ父さん。」
僕が笑うと、父さんはもっと力を込めた。
「何があろうと、お前はお前だ。自分を強く持てよ。」
父さんの言葉は、僕の胸のなかにすーっと入り込んだ。
「明日だ、明日行くんだぞ。」
父さんはそう言い残すと、僕の部屋を去っていった。
明日なんて、急にもほどがあるよ。僕はため息をつく。だが、同時に父さんの言葉をありがたくも思っていた。両親は本当に僕のことを理解している。背中を押さないと動きだすことができないって。僕がようやく振り絞った勇気を、無駄にはしまいと精一杯応援してくれたのだ。
翌朝。僕が目を覚ますと、母さんが料理を作ってくれていた。今日は食パンとサラダ。いつも通りのメニューだ。
「気をつけていってくるのよ。」
母さんは、そういうとコーヒーをだしてくれた。熱々のブラックコーヒー。僕の好きな向かいにある「ビーンズ」のコーヒー豆だ。匂いですぐに気づいた。
「母さん、ありがとう。」
僕は、あらかじめ用意していたリュックを背負い、家を出る。
「夕方には帰るよ。」
「ええ。」
母さんは、どこか寂しそうな顔をしていた。まるで僕が、遠い存在になってしまったかのように。
僕のいた養護施設まではここから2時間かかる。だが、地下鉄を一本乗り継げば着くのでそんなに苦ではない。僕はお気に入りの音楽と本でやり過ごすことにした。そうでもしないと、落ち着かないのだ。あのふたりは今何をしているんだ? どんな家族に引き取られて、どんな暮らしをしているんだ? 頭の中をぐるぐると、不安や焦燥が駆け巡る。
いや、着くまではそんなことを考えても無駄だ。僕は、本に集中する。題名は、『秘密』。かつて殺人鬼に家族を殺された主人公モニスが、やがて殺人鬼になってしまう。『殺人鬼モニス』シリーズの第1作目だ。家族を殺されたモニスが、親切な人に拾ってもらうところまでが描かれている。兄弟と力を合わせて生き延びた彼は、未来に希望を抱く。暗闇から明るい光が見えてきたところで、1作目は幕を閉じる。
主人公モニスは、人間の心の醜さと誘惑への弱さを体現していた。作者はモニス。この作者の正体が知りたいものの、その経歴は謎に包まれている。彼の作品はこのシリーズ作品のみ。しかもこのシリーズ、作者の自伝を模したフィクションとして書かれている。モニスの生涯が、人生のイベントとともに綴られている。実に不思議な作品だ。
「彼は本当に人を殺したんじゃないか?」
最初にこの本を読んだとき、僕は父にそんな疑問をぶつけた。そうでもないと、こんなに鮮明に主人公が動くはずない、そう考えたのだ。
「トム、この本の読者は誰もがそう思う。だけど、そう思わせる彼こそ真の作家なんだよ。」
それから僕は、幾度もそのシリーズを読み返した。その度に、新たな発見があるのだ。僕は時々、殺人鬼になった主人公に自分を重ねた。僕は幸運にもベジタリアンの家庭に引き取ってもらえたから、こうして同胞を食べずに済んでいる。
だが、もしも引き取られたのがベジタリアンの家庭じゃなかったら? 今の生活を見たら元の家族はどう思うのだろう? 人間の両親をお母さん、お父さんと呼び、同胞を食べて生きている人間とも仲良くしている。それだけで、僕は彼と似たような存在なのではないか、そんな風に考えてしまうのだ。
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