【私なんにも怖くない】
きむ
【私なんにも怖くない】
好きなものに怖じ気づいてしまう。私の悪癖。
好きなものは少し遠くから見るといい。眺めるようにすれば尚のこと。
そうすれば、私の好きなところだけが見える。
何かを好いてしまうのは恐怖だ。それ以外、盲目になるのも。
私を好いてくれるものを好きになろう。
そうすれば、傷付かなくて済むもの。
それに気付けなかった私が犯した、たった一度の過ちを幾度となく後悔している。
剣道部のサカキくん。
ディベートサークルのノリモトくん。
私のことが好きだと彼らは言ったけど、対して私は彼らのことを何も知らない。
彼らさえそれを気にしなければしあわせだった。
彼の隣にいる私、「私を愛してくれる」彼を愛する私。
彼らの愛が醒めれば、私たちの愛はなんのしがらみもなく消滅する。
残るのは良くも悪くも
自分の手元にある安心感は太陽にかざしたビー玉のようにキラキラ輝くだけのもの。
触れられないけれど構わない。
光に触れられないからといって不安に思う人はいない。
好きなものには手を伸ばさない。
怖いんだもの、傷付くのって。
彼ができたと報告されたあの日も、彼との初めての夜の顛末を酒と共に流し込んだあの日も、婚約と聞いたあの日も、結婚式の日も、彼女を好きになった日々を泣きながら後悔した。
それでも、彼に殴られたと少し膨らんだお腹を抱えてやって来た彼女を見て泣いたのは後悔だけではなかった。
きつく抱き締めたい気持ちを抑え、お腹の子に負担を掛けないように頭を抱いた。
「真里。私は大丈夫、だから落ち着いて」
顔をぐちゃぐちゃにして泣く私に、彼女はそう言って少し笑った。
私の大好きなものを傷付けた彼に腹を立てた。
神に誓っていた愛の言葉を真に受けた自分に腹を立てた。
目頭と頭が熱を持ってくらくらした。
「千加子」
彼女の名前を呼んだはずなのに、喉からあの男への憎悪が溢れそうになる。
「ごめんね、ちょっとだけ厄介になっていい? 」
彼女は私の顔を覗き込んでそう言ったので、何度も頷いて部屋へ招き入れる。
それから氷のうをふたつ作った。
ひとつは彼女の右頬へ。もうひとつは私の目頭に。
その姿を彼女は笑ったあと、淡々と話し始めた。
夫婦関係の行き詰まり。
夫からの暴言。
同意のないセックスからの妊娠。
それから始まった暴力。
泣いた。今度は彼女が。
泣かせてやるべきだと気持ちを堪えて肩を抱き寄せた。
氷のうも溶けきった頃、互いに目を腫らしたままその日は一緒のベッドで眠った。
次の日は仕事を休んで、彼女と産婦人科へ行った。
お腹の子は平均より小さいらしいけれど概ね順調に成長していると、先生はギラついた目の私を宥めるように言い聞かせる。
彼女は端的に説明した。
「夫との生活が上手く行かず、現在別居中です」
先生は視線を腫れた右頬に移して、カウンセリングが必要かと聞いたそれに、彼女は首を横に振った。
「緊急連絡先の変更をお願いします」
その言葉にピリッと背中に緊張が走ったけれど、差し出されたメモに書いた番号は期待とは裏腹に彼女の実家の電話番号とおぼしきダイヤル。
少し眉をひそめた私を先生は一瞬確認した。「この人との関係は? 」と言いたげな目をしていたけれど、当事者すら言葉にできない関係を説明することは出来なかった。
「日本は住みにくいと思っていたけど、私の知らないところにこの国の努力を見たよ」
国が妊娠から出産までの費用を負担してくれるなんて知識が、私に必要になるだなんて思いもしなかった。
「あら、素敵ね」
職場の同期に話した最初のレスポンスはそんな的外れな答えだった。
「あのチカちゃんと一緒に暮らすなんて、随分な進歩だわ」
奢ったソイラテの代金420円が勿体なく感じる程に的外れだ。
「あの子に会ったこともないくせに」
そうは言ったけれど、片瀬は私の不毛な想いを一片残らず聞いてくれた数少ない友人だ。
「会わなくたってチカちゃんのことは知ってるつもりよ」
薄ら笑いを浮かべて茶化すこいつを拳で軽く小突く。
「あの子の役に立てればそれで良いんだ」
苦い苦いドリップコーヒーをすすった。鞄には彼女用のデカフェのコーヒー豆も入っている。
「分かるわ、今が幸せならそれ以上を望むのは怖いことよね」
ぼんやり何処かで聞いたなとドラマのシーンが早送りで頭の中を流れる。
腕時計を確認してもまだ13時半。こんなに帰るのが待ち遠しいなんて初めてだ。
「片瀬にもそんな気持ちが分かるんだね」
茶化し返しても乗ってくる彼女ではない。詳しくは割愛するが昔一度だけ身体を重ねた仲なだけはある。
私の顔をじっと見て真面目な顔で言った。
「でももしかしたら、15からの夢が全部叶うかもしれないのよ」
それに言葉を詰まらせてしまい、形容しがたい気持ちをコーヒーで流し込んだ。
「おかえり」
簡素なドアを開ければ楽園みたいな光景が広がっていた。
「ただいま」
言いながら照れてしまう。鞄を置いて着替えていると彼女がお玉を持って私に笑いかける。
「すぐご飯食べる? それかお風呂? 」
なんて、わざとかってくらいのテンプレート。
「ご飯頂こうかな」
彼女は親指と人差し指で輪っかを作ってキッチンへと引っ込んだ。
昼間の片瀬の言葉が頭をよぎる。
いくつかは叶えたけれど、それには決して叶えてはいけない悪魔の願いが数えられている。
「お昼なに食べた? 被ってないといいけど」
早くおいでと付け加える彼女の言葉が腰に来た。
好きな女だ。
惚れてる女だ。
愛している女だ。
幸せになって欲しい女だ。
だから、駄目だ。
「今日、なんにも変わりなかった? 」
いただきますと手を合わせ、彼女の作ったご飯を食べて一日の話をする。
死にたくなった。今もうここで死んでしまいたい。
息すらしあわせの味がする。
洗い物は私がして、その間彼女はお風呂へ入る。
このしあわせを自ら壊した男のことが心底分からない。
いつまで此処にいてくれるんだろう。
いつまで私を頼ってくれるんだろう。
いつまで側にいていいんだろう。
これからどうするつもりなんだろう。
寄りを戻すのか、離婚するのか。
何処まで口を出していいのか、それすらも分からない。
話もそこそこに──でも決して核心部に触れた話はせずに──寝床についた。
ベッドの隣に敷いた布団の中ですやすやと眠りにつく彼女の寝顔を愛おしいと思っている。
そっとベッドを降りて顔にかかっている前髪に手を伸ばした。
もうちょっと。あと少し。
じりじり。微かにでも確実に。
近付けた手は下心まみれ。
寝息をたててるお姫さまにどうか気付かれないように。
あと数センチ、というところで我に返った。
今、何をしようとした?
背中から汗が吹き出した。
自分の悪行にぞっとしたのも束の間。
「触ってくれないの? 」
突然の声に跳び跳ねた。
むくりと起き上がった彼女は、これ以上進めない私の手をしかと握った。
「逃げないで」
逃げたりしない。逃げたくなったけれど、身体が硬直して言うことを聞かない。
やっぱりあのとき死んでしまえば良かった。
しあわせが私のなかで悪さをする前に。
「千加子ってば寝惚けたの?」
今までのしあわせを壊さないように笑ってみせた。
ねぇお願い、どうか騙されて。
「真里はいつだって笑って誤魔化して、本音はその裏に隠しちゃうのよね」
真っ直ぐな瞳に見つめられて、目を逸らしたのはもちろん私だった。
「違うんだ、なんていうか、ほら、」
焦りと恐怖で涙が出てきた。
こんなふうに困らせたくなかった。
女々しい自分に吐き気がした。
そんな私をじっと見たまま、彼女は口を開いた。
「あたしは、思ったことちゃんと言って欲しいの」
だってあたし、きっと叶えてあげられる、と。
「気付いてないでしょう? あとは口に出すだけなのよ」
嘘だと思った。
からかわれてるだけだと思った。
でも私が好きな
15の頃からの夢。
美術館の学芸員になること。
毎朝自分で豆を挽いてコーヒーを淹れる生活を送ること。
あと、あとひとつ。
「千加子と、この先の人生を共にしたい」
渾身の勇気を出して私も彼女の手を握り返したけれど、絞り出された声は風が吹けばかき消されてしまいそう。ほんの少しの臆病風が、また私の視線を彼女から外させた。
「いいよ、真里となら」
耳を疑った。
信じられなかった。
「その赤い目を愛したいわ」
流れる涙を拭うことすら忘れていた。
「でもお腹の子が、あなたを傷付けてしまうかもしれない」
そんなふうに、今度は彼女は私から目を逸らした。風向きが変わったのを感じた。
「千加子になら、なにされたって構わないよ」
もちろんそのお腹の子にだってと付け加えた声は些か大きかったかもしれない。彼女は潤んだ目を見開いた。
「未来の自分まで保証できる? 」
震え声に私は何度も頷いた。
「きっと真里より、この子を優先してしまうわ」
当たり前だよと言えば彼女は泣いた。
「私はもうその赤い目を愛してるんだ、千加子」
大事にしたい気持ちは誰にも負けない。
「全部あげる。私が持ってるもの全部」
きみを好きになったこと、もう後悔しなくていいんだね。
このセーラー服を着た幼い気持ちを受け止めてくれるきみだから、私なんにも怖くないの。
【私なんにも怖くない】 きむ @kimu_amcg
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